見えない毒
12時10分。
廊下の向こうから、弁当の匂いが漂ってきた気がした。誰かが電子レンジを使っているにおい。
醤油と出汁の香ばしい香りが、空腹を刺激するどころか、焦燥感を煽り立てる。
僕は意を決して走り出した。
ドアをノックする時間さえ惜しい。礼儀作法など気にしている場合ではない。
勢いよくドアを開け放つ。バンッ! という大きな音が廊下に響く。
「先生! その弁当を食べてはいけません!」
研究室の中では、教授がまさに箸を伸ばそうとしているところだった。
机の上には広げられた風呂敷と、愛妻弁当。
唐揚げ、卵焼き、ブロッコリー。色とりどりの、どこにでもある幸せな家庭の味が、今は死の箱に見える。
その一つ一つに、猛毒が仕込まれているかもしれないのだ。
「また君か! いい加減にしたまえ! 不法侵入で通報するぞ!」
激高する教授。顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。
当然の反応だ。だが、説明している時間はない。
その隙を突き、僕は強引に机の上の弁当を奪い取った。
ガシャッ、と箸が床に落ちる。
「返したまえ!」
「食べちゃダメだ! 毒が入ってるかもしれないんです! 検査させてください!」
僕たちは弁当箱を挟んで揉み合いになった。中身が少しこぼれ、床に散乱する。
騒ぎを聞きつけて、隣の部屋からゼミ生たちが集まってくる。
「何事ですか?」
「あいつ、教授の弁当を……」
「頭おかしいんじゃないの?」
冷ややかな視線が刺さる。完全に異常者扱いだ。
スマホで動画を撮り始める学生もいる。僕の社会的信用はこれで地に落ちたかもしれない。
だが、僕は奪った弁当を抱え、ひとまず廊下へと退避した。
これでいい。とりあえず「食べる」という行為は阻止した。物理的に隔離さえすれば、毒殺は成立しない。
あとはこの弁当を調べて、毒が入っていなければ……いや、入っていたら警察だ。入っていなかったら、僕がただの恥をかいて終わるだけだ。それでも命よりは安い。
土下座でも何でもしてやる。
僕は廊下の隅で、荒い息をつきながらポケットのメモを確認した。
未来が変われば、文字が変わるはずだ。
『回避成功』あるいは『白紙』。それが見たかった。
心臓が早鐘を打っている。祈るような気持ちで紙切れを開く。
「……え?」
僕の期待は、最悪の形で裏切られた。
メモの文字が、まるで生き物のようにぐにゃりと歪んだように見えた。
インクが滲み、黒い染みが広がり、それが形を変えていく。
まるで、見えない誰かがリアルタイムで書き換えているような、気味の悪い光景。
新しい文章が、血のように赤く浮かび上がってくる。
『死因は心不全。薬の飲み合わせによるショック死だ』
血の気が引いた。全身が冷水を浴びせられたように冷たくなる。
毒じゃない? 薬の飲み合わせ?
「毒殺」という単純な表記が消え、より具体的で、より陰湿な死因へと変化している。
犯人の殺意が、形を変えて執拗に追いかけてくる。
僕は慌てて研究室の中を覗き込んだ。
教授は奪われた弁当に未練を残しつつも、不機嫌そうに水筒のお茶を取り出していた。
「まったく、今の学生は常識が欠如している……」とブツブツ文句を言いながら。
そして、白衣のポケットから薬包紙を取り出す。
持病の心臓の薬だろうか。
もし、その薬自体がすり替えられていたら? あるいは、水筒のお茶の中に、薬の効果を劇的に増幅させる、あるいは阻害する成分が混入されていたら?
グレープフルーツジュースと高血圧の薬、のような相互作用を悪用した殺人?
「先生、駄目だ!」
叫ぶより早く、教授は薬を口に含み、お茶で流し込んだ。
ゴクリ、という喉の音が、部屋中に響いた気がした。
スローモーションのように見えたその光景に、僕は絶叫したかった。
瞬間、僕の背筋に冷たい電流が走る。
間に合わなかったのか?
いや、即効性の毒でなければ、まだ吐き出させれば助かるかもしれない。
救急車を!
だが、教授は何事もなかったように薬を飲み下し、僕を睨みつけた。
「……何なんだね、君は。私の昼食を邪魔するだけでなく、服薬まで妨害するつもりか? いい加減にしないと、本当に警備員を呼ぶぞ」
「く、薬……? 今飲んだのは、いつもの薬ですか?」
「当たり前だ。カプセルの色も形もいつも通りだ。私が自分の薬を間違えるはずがないだろう」
教授はピンピンしている。顔色も悪くない。苦しむ様子もない。
どういうことだ?
まさか、メモの予言が外れた?
いや、違う。メモには『死因は心不全』とあった。
つまり、毒殺という単純な手口ではなく、薬物相互作用による事故死に見せかけた完全犯罪へと、犯人の手口がシフトしたのだ。
僕が「毒だ」と騒いだせいで、犯人は毒殺を諦め、プランBに切り替えた?
それとも、最初から二重三重の罠を張っていたのか?
いや、薬はすでに飲まれてしまった。
ということは、死の効果が出るのは「今」じゃない。
これから起きるんだ。数分後か、数時間後か。
静かな死が、体内で進行している。
僕はゼミ生たちの顔を見回した。
みんな、心配そうな、あるいは呆れたような顔をしている。
だが、その中に一人だけ、感情の読めない冷ややかな目をした人物がいた。
無口な院生、木島。
彼は実験台の陰で、口元をわずかに歪め、何かを呟いたように見えた。
その目は、教授でも僕でもなく、教授が飲んだ水筒に向けられていた。
『余計なことを』
声は聞こえなかった。だが、その唇の動きは確かにそう言っていた。
身震いがした。
間違いない。
あいつが犯人だ。




