忍び寄る影
雨上がりの湿った空気が、肌にまとわりつくような夕暮れだった。
午後六時。僕と鏡は、駅前の巨大なショッピングモールの中にいた。
吹き抜けの天井からは明るい照明が降り注ぎ、休日の賑わいを演出している。
週末ということもあり、モール内は家族連れやカップルで溢れかえっていた。子供の笑い声、アナウンス、そして食器が触れ合う音が渾然一体となって響いている。
そんな平和な光景の中で、僕たちの神経だけが異質に張り詰めていた。
ターゲットである絵里依の姿を、少し離れた場所から捉えていたからだ。
絵里依に直接警告することも考えた。だが、犯人が誰か分からない以上、下手に知らせれば相手を刺激するかもしれない。鏡もそう判断した。静かに見守り、現行犯で押さえる。それが最善だと。
彼女は特に変わった様子もなく、ウィンドウショッピングを楽しんでいるようだ。
明るいパステルカラーのワンピースが、人混みの中でもよく目立つ。
雑貨屋で可愛い小物を手に取っては眺め、また棚に戻す。時折、スマホを確認しては何か頷いている。僕が送った『19時に行く』というメッセージを見ているのかもしれない。
「平和そのものだな」
隣で帽子を目深に被り、伊達眼鏡で変装した鏡が呟く。
彼は手元の文庫本に目を落としながらも、その視界の端で常に絵里依を捉えているはずだ。
「ああ。本当に狙われているのか、疑いたくなるくらいだ」
「油断するな。嵐の前の静けさということもある。日常の中にこそ、裂け目は潜んでいるんだ」
鏡の言葉は、冷や水を浴びせられたように僕の楽観を打ち砕いた。
鏡の指示に従い、僕たちは付かず離れずの距離を保ちながら彼女を尾行した。
まるで探偵ごっこだが、状況は深刻だ。もし失敗すれば、数時間後には彼女の死体が転がることになる。
僕は周囲の客たちを観察した。
すれ違う男たち。誰もが怪しく見える。
ポケットに手を突っ込んでいる男。視線が泳いでいる男。大きな鞄を持っている男。
ベビーカーを押す父親でさえ、そのポケットに凶器を隠し持っているのではないかと疑ってしまう。
疑心暗鬼が、僕の精神をすり減らしていく。
六時半。絵里依が動き出した。
モールを出て、港湾公園の方角へと歩き始める。
自動ドアを抜けると、むっとするような熱気が再び襲ってきた。
空はすでに茜色から群青色へと変わりつつあり、街灯がポツポツと灯り始めていた。
繁華街の喧騒が遠ざかり、倉庫街へと続く道は急に人通りが減っていく。
古い赤レンガの倉庫が並ぶこのエリアは、夜になると独特の不気味さを帯びる。影が長く伸び、路地裏の闇を濃くしていく。
海からの風が、湿った磯の香りを運んできた。
その時だ。
「湊。三時の方向、黒いニット帽の男」
鏡の声が、イヤホン越しに響いた。通話状態にしたままのスマホを胸ポケットに忍ばせてある。
さりげなく視線を送ると、電柱の影に男が立っていた。
黒いパーカーにジーンズ。今の季節には暑苦しすぎる格好だ。マスクで顔を隠し、帽子を目深に被っている。
その視線は、執拗に絵里依の背中に吸い寄せられていた。
粘着質な、欲望と殺意が入り混じったような視線。
「あいつか……!」
「まだ動くな。現行犯で押さえる。未遂で終わらせるな、確実に『殺意』を確認してからだ」
鏡の声は冷徹だった。獲物を狩る瞬間の肉食獣のように、感情が欠落している。
心臓が早鐘を打つ。
時刻は六時五十分。
絵里依が公園の入り口に差し掛かった。
周囲には誰もいない。波の音だけが聞こえる。
男がポケットから何かを取り出し、足早に距離を詰め始めた。
手には、鈍く光る何か。カッターナイフだ。刃が出ているのが街灯の光で確認できた。
殺る気だ。
「今だ!」
鏡の合図と共に、僕たちは茂みから飛び出した。
「絵里依! 逃げろ!」
僕の叫び声に、絵里依が驚いて振り返る。
その目前、わずか数メートルの距離まで迫っていた男は、不意を突かれて立ち止まった。マスク越しの目が泳ぐ。
「な、なんだお前らは!」
「そこまでだ!」
鏡が横から鋭いタックルを見舞う。
男はバランスを崩し、無様に転がった。手からカッターナイフが滑り落ち、アスファルトの上で乾いた音を立てる。カラン、と虚しい音が響いた。
僕はすぐにそれを蹴り飛ばし、男の腕を背中にねじり上げた。柔道の授業で習った関節技が、火事場の馬鹿力で決まる。
「痛てて! 離せよ!」
「うるさい! 警察へ突き出してやる!」
男はもがいたが、僕と鏡の二人に押さえつけられては逃げ場がない。
男のマスクを剥ぎ取ると、見覚えのある顔があった。
近所のコンビニで働いているフリーターだ。いつも無愛想な店員だったが、まさか。
「あんた……この前も絵里依の後をつけていた……」
「ち、違う! 俺はただ話をしたかっただけで……」
苦しい言い訳を繰り返す男。その目には、歪んだ執着の色があった。
以前から絵里依を一方的に付け回していたストーカーだったのだ。
駆けつけた警官に引き渡されている間、僕は荒くなった息を整えながら、絵里依の方を見た。
「大丈夫か?」
「うん……湊と鏡くんがいてくれて助かった。ありがとう」
彼女は青ざめていたが、気丈に振る舞っている。震える手を、必死に隠しているのが分かった。
「まさか、本当に襲われるなんて……」
彼女の華奢な肩が小さく震えている。僕はそれを抱きしめてやりたかったが、今はまだ終わっていない気がして手を出せなかった。
パトカーが男を乗せて走り去っていく。赤色灯が夜の闇を切り裂いていく。
時計を見る。
十九時ジャスト。
メモにあった十九時三十分より三十分も早いが、犯人を捕まえたのだ。これで未来は変わったはずだ。
あの不吉な予言は回避された。
「終わったな」
僕はポケットから例のメモを取り出し、安堵のため息をつこうとした。
文字が消えているか、あるいは『回避成功』とでも書き換わっていることを期待して。
だが。
「……おい、嘘だろ」
街灯の薄明かりの下、メモの文字は鮮明なままだった。
『今日の十九時三十分、港湾公園で絵里依が殺される』
文字が消えていない。一文字たりとも。
未来が変わったなら、内容は書き換わるか、あるいは白紙に戻るはずじゃないのか?
それとも、未来からのメッセージというのは、結果が変わっても消えないものなのか?
いや、違う。僕の直感が警鐘を鳴らしている。背中を冷たい汗が伝う。
もっと悪い予感。
あのストーカーは、ただの「前座」だったのではないか?
「真犯人」は、まだ別にいるんじゃないか?
「どうした、湊?」
鏡が近づいてくる。その表情は、どこか楽しげですらあった。
「メモが……変わってないんだ」
「何だって?」
鏡が覗き込む。
「十九時三十分……あと三十分か。あるいは、時間のズレがあるのかもしれないが……」
彼は少し考え込み、そして深刻な顔で告げた。
「念のため、指定の時刻まで警戒を続けよう。まだ何かが起こるかもしれない」
「ああ、そうだな。用心するに越したことはない」
僕たちは絵里依をベンチに座らせ、周囲を警戒し続けた。
だが、僕の胸の中には、得体の知れない不安が黒い霧のように広がっていた。
本当に、これでいいのか?
何か、致命的な見落としをしているんじゃないか?
この、喉元に突きつけられたような焦燥感は何だ?
風が強まり、海の方から湿った土の匂いを運んでくる。
十九時二十分。
運命の時まで、あと十分。
公園の闇が、深く、濃くなっていく。
そこに潜む「何か」が、嗤っているような気がした。




