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名探偵の推理

 大学近くの路地裏にある、古びた純喫茶『琥珀』。

 木製の重いドアを開けると、カランコロンと軽やかなベルの音が鳴った。

 昭和の香りを残すレトロな内装。飴色の柱時計が時を刻む音が、静寂の中に響いている。

 焙煎された珈琲の焦げた匂いが漂う薄暗い店内で、僕は向かいの男に例のメモを差し出していた。

 かがみとおる

 理学部の天才肌と噂される彼は、湯気の立つブラックコーヒーを前に、眼鏡の奥で鋭い瞳を細めていた。

 雨に濡れた髪を拭きもせず駆け込んできた僕とは対照的に、彼はいつも通り冷静沈着で、その表情からは一切の焦りが読み取れない。

 まるで、世界の滅亡すらも彼にとっては興味深い観察対象に過ぎないと言わんばかりだ。

 彼は長い指でメモを摘み上げ、光源にかざしたり、紙の質感を確かめるように指の腹で撫でたりしている。

 その仕草は、宝石商がダイヤの鑑定をしているようでもあり、あるいは医者が患者の脈診をしているようでもあった。


「なるほど。未来からのメッセージ、か」

「信じるのか? こんなオカルト話」

「事実は事実として受け入れるのが科学者の態度だよ。天気予報が外れることまで言い当てているなら、確率論的な偶然で片付けるには無理がある」


 鏡はふっと笑い、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 ただの友人が未来予知の話を持ち込んだら鼻で笑うだろうが、鏡はこういう異常事態にこそ燃えるタイプだ。日常の些細な謎解きを好む彼にとって、これは極上の「問題」なのだろう。

 彼の目が、好奇心で妖しく輝いているのが分かる。


「それに、この筆跡。君のものだね。ただし、かなり不安定な状態に見える」

「ああ、自分でもそう思う。見た瞬間、鳥肌が立ったよ」

「書き殴ったような乱れ方だが、筆圧のムラを見る限り、利き手で書いている。つまり、怪我などで利き手が使えなかったわけじゃない。精神的な動揺か、あるいは視界が制限されていたか」

「視界が制限?」

「例えば……暗闇の中で書いたとか、目隠しをされていたとかね。文字のベースラインが波打っているだろう? これは視覚的フィードバックが得られていない時の特徴だ」


 鏡の指摘に、僕は息を呑んだ。

 確かに、文字の配置が微妙にズレている。行間もバラバラだ。

 目をつぶって書いてみた時の感覚に近いかもしれない。

 未来の僕は、何かを見ることを許されない状況にいたのか?

 それとも、見たくないものから目を背けながら書いたのか?


「さて、最大の問題はここだ」

 鏡は予備のボールペンの先で、メモの欠落部分をトントンと叩いた。一定のリズムが、僕の焦燥感を煽る。

『犯人の名前がない』

「そうなんだ。場所も時間も死因も分かっているのに、一番肝心なことが抜けている」

「時間がなかったわけじゃない。わざわざ『P.S.』なんて追伸を書く余裕があったんだからな。情報の優先順位として、天気予報よりも犯人の名前の方が高いはずだ」

「じゃあ、なんで? 犯人の顔を見なかったのか? 背後からの一突きだし……」


 鏡は少し考え込み、カップの珈琲を一口啜った。

 黒い液体が揺れる様を見つめながら、静かに口を開く。

「可能性はいくつかある。一つは、君が言う通り、犯人の姿を見ていないケース。闇討ちや、遠距離からの攻撃」

「それなら防ぎようがないな……」

「いや、場所と時間が分かっているなら警戒はできる。だが、もう一つ、厄介な可能性がある」

「厄介な可能性?」


 鏡の声のトーンが、少しだけ下がった気がした。

 店内の空気が、急に冷たくなったように感じる。

「名前を書くことで、タイムパラドックスによる不利益が生じるケースだ」

「不利益? どういうことだ?」

「例えば、犯人が君のよく知る人物だったとする。もしここにその名前が書いてあったら、今の君はどうする?」

「それは……すぐにそいつを捕まえに行くか、警察に通報する」

「そうだね。だが、もし犯人がそれを予期して待ち構えていたら? あるいは、君が名前を知っていると悟られた瞬間に、問答無用で殺されるとしたら?」


 僕は言葉を詰まらせた。

 情報の非対称性。

 僕が犯人を知っていることを、犯人が知ったら。

 そうなれば、犯人は計画を変更するかもしれない。より狡猾に、より確実に殺しに来るかもしれない。

「未来の君は、過去の君に『犯人を知らないふり』をさせたかったのかもしれない。そうすることでしか、犯人の懐に飛び込めない状況だったとしたらどうだ?」


 鏡の推測は、薄ら寒いリアリティを持って僕の胸に迫ってきた。

 犯人は、僕の身近にいるかもしれない。

 そして、下手に動けば僕自身も消される可能性がある。

 僕は思わず周囲を見回した。

 喫茶店の他の客たちは、談笑したり、スマホを見たりしている。

 だが、誰が敵か分からないという疑心暗鬼が、僕の心を蝕み始めていた。

 あのサラリーマンも、あの学生も、全員が怪しく見えてくる。


「……じゃあ、どうすればいい。指をくわえて待っているわけにはいかない」

「簡単だ。僕たちが現場に行って、犯行を未然に防ぎつつ、現行犯で取り押さえればいい」

 鏡は不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、獲物を見つけた猛禽類のように輝いている。

 彼はこういう時、頼もしくもあり、同時に恐ろしくもある。

「十九時三十分、港湾公園。僕も一緒に行くよ。友人の危機だ、放っておけないだろう?」

「鏡……ありがとう、助かるよ。お前がいれば百人力だ」

「礼を言うのはまだ早い。相手は殺人犯だ。しかも未来を変えようとする行為には、どんな代償が伴うか分からない。慎重にいこう」


 そう言って立ち上がる鏡の姿が、今の僕には何よりも頼もしく見えた。

 勘定を済ませて店を出ると、雨は小降りになっていた。

 アスファルトの匂いと、雨の匂いが混じった独特の空気が鼻をつく。

 街灯が濡れた路面を照らし始めている。

 決戦の時間は刻一刻と迫っている。

 僕は拳を強く握りしめた。

 絶対に、幼馴染えりいを死なせたりはしない。

 たとえ相手が誰であろうと、僕が彼女を守るんだ。


 だが、この時の僕はまだ知らなかったのだ。

 彼がなぜ、そこまでこの事件に興味を持ったのか。

 そして、彼の言う『可能性』の中に、もっとも残酷で、もっとも身近なケースが含まれていたことを。


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