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歪んだ筆跡

 その日の朝、世界はいつも通りだった。

 カーテンの隙間から差し込む日差しは、真夏特有の暴力的な白さを帯びていた。

 ジリジリと肌を焼くような感覚が、ガラス越しでさえ伝わってくる。

 遠くから聞こえる蝉の鳴き声が、蒸し暑さを助長するように室内に響いている。ミーン、ミーンという単調なリズムが、まだ覚醒しきっていない脳みそを揺さぶるようだ。

 僕、相沢湊あいざわみなとは、まとわりつくような熱気の中で重たい瞼をこすりながら体を起こした。

 Tシャツの背中が汗で張り付く不快感。

 エアコンのタイマーはとっくに切れていて、部屋の中はサウナのような有様だった。

 大学生の夏休み。本来なら海や山へと繰り出す時期なのだろうが、僕の予定といえば、溜まりに溜まった課題のレポートと、夕方からのコンビニバイトくらいのものだ。

 あくびを噛み殺しながら、枕元のスマホに手を伸ばす。時刻は午前九時過ぎ。

 昨日も遅くまでゲームをしていたから、完全に寝坊だ。

 

 その時だった。

 スマホのすぐ横、サイドテーブルの上に、見慣れない紙切れが落ちているのに気づいたのは。


「……なんだ、これ?」


 白い、何の変哲もないメモ帳の切れ端だ。

 昨晩、寝る前には確かに何もなかったはずだ。僕は寝る前に必ずスマホの充電ケーブルを確認する癖があるから、そこに異物があれば気づくはずだ。

 寝ぼけて自分でメモを取った記憶もない。そもそも、僕はベッドの上で書き物をする習慣などないのだ。

 不思議に思いながら拾い上げると、そこには黒いボールペンで、乱雑な文字が殴り書きされていた。


『今日の十九時三十分、港湾公園で絵里依が殺される』


 その文章が意味することを理解した瞬間、心臓が、ドクリと大きく跳ねた。

 全身の血が逆流するような、冷たい感覚。

 暑さなど一瞬で吹き飛んだ。背筋を冷たい指で撫で上げられたような、生理的な嫌悪感と恐怖。

 一瞬、思考が停止する。

 殺される? 誰が?

 絵里依えりい

 それは、僕の幼馴染の名前だ。

 家が隣同士で、幼稚園から大学まで同じ腐れ縁。気安すぎる友人関係の、あの絵里依のことか?

 いつも元気で、少しお節介で、僕のことを「みなと」と呼び捨てにする、あの絵里依か?


「……ふざけんなよ」


 思わず声が出た。喉が渇いていて、声が掠れる。

 悪趣味な悪戯だ。誰かが僕の部屋に忍び込んで、こんなものを置いていったのか?

 僕は慌てて部屋を見回した。

 ドアの鍵はしっかりとかかっている。窓も閉まっている。何より、僕の部屋はアパートの二階だ。誰かが侵入すれば、流石に気づくはずだ。

 それに何より、この筆跡だ。

 ミミズがのたうつような、ひどく乱れた文字。ペンのインクが擦れ、紙に食い込むほどの強い筆圧で書かれている。

 恐怖か、焦燥か、あるいは激痛に耐えながら書いたのか。

 けれど、その文字の崩し方、「今日」という字の独特な書き順、妙に丸っこい「殺」の字。

 それは紛れもなく、僕自身の癖だった。

 他人が真似ようとしても、こうはいかない。無意識の癖まで完全に再現されている。


 まるで、極限状態の僕が、震える手で無理やり書き殴ったかのような。


「まさか……な」


 僕は苦笑しようとして、頬がこわばって動かないのを感じた。

 ただの偶然だ。筆跡が似ている他人なんて、世界中にいくらでもいる。ドッペルゲンガーの仕業か?

 そう自分に言い聞かせて、紙切れをくしゃりと丸め、ゴミ箱へ捨てようとした時、裏面にも何か書かれているのに気づいた。


『死因は刺殺。背後からの一突きだ。守れなかった。すまない』

『P.S. 天気予報は外れる。午後は雨になる』


 背筋がゾクリとした。

 予言めいた追伸。

 あまりにも具体的な死因と、あまりにも不確定な天気予報。

 僕は慌ててスマホの画面を点灯させた。天気予報アプリを起動する。

 画面には、晴れマークがずらりと並んでいる。降水確率はゼロパーセント。気象庁も自信満々の快晴だ。

「当たるわけないだろ。今はこんなに晴れてるのに」

 窓の外を見れば、入道雲が眩しいほどの白さで輝いている。空は突き抜けるような青空だ。雨の気配など微塵もない。

 風すら止まっている。木々の葉も揺れていない。

 僕は強がって、そのメモを机の上に放り投げた。

 だが、丸めて捨てることはできなかった。

 心のどこかに、棘のように刺さった不安。

 もしも、これが本当だったら? もしも、午後から本当に雨が降ったら?

 

 鬱屈とした気分のまま着替えを済ませ、大学へと向かう。

 通学路のアスファルトは熱を持ち、蜃気楼が揺らめいている。

 靴底越しに伝わる熱が、不快指数を跳ね上げる。

 僕はいつもより周囲を警戒して歩いた。

 すれ違う人々。日傘を差した女性、自転車に乗った学生、スーツ姿のサラリーマン。

 誰もが普通に生活しているように見えるが、この中に「犯人」がいるのかもしれない。

 そう考えると、何気ない視線すら恐ろしく感じる。

 誰かに見られているような視線を感じる気がして、何度も振り返る。だが、そこには誰もいない。

 ただ、灼熱の太陽が照りつけているだけだ。


 絵里依は今日、確かバイトの後に花火大会の場所取りを頼まれていると言っていたはずだ。

 場所は、港湾公園。

 毎年恒例の地元の花火大会。僕たちは今年も、いつものメンバーで集まる予定だった。

 偶然の一致にしては、出来過ぎている。

 場所も、日時も、完全に一致している。


 大学の講義室。冷房が効きすぎているほど涼しい。

 外の暑さが嘘のように、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

 教授の声は単調なBGMのように右から左へと抜けていく。

 僕はノートを開いたまま、ペンを回し続けていた。白いページには一文字も書き込まれていない。

 頭の中を占めるのは、あのメモのことばかりだ。

 机の下でスマホを弄り、絵里依にメッセージを送る。

『今日、本当に公園行くのか?』

 既読はすぐについた。

『行くよー! バイト終わったら直行する予定! 湊も来る? 19時くらいに来てくれたら助かるかも!』

 クマが踊っている能天気なスタンプと共に送られてきたメッセージ。

 彼女には、自分の死の予兆など微塵も見えていない。

 脳天気に笑っている彼女の顔が目に浮かぶようだ。

 僕は息を呑んだ。

 19時。

 メモに書かれていた死亡時刻は、19時30分。

 時間が近すぎる。もし本当なら、彼女は死刑台に向かって歩いているようなものだ。

 

 その時、教室の窓ガラスを叩く音がした。

 ポツリ、ポツリ。

 最初は小さな音だった。誰かが悪戯で小石を投げたのかと思った。

 だが、音は次第に強まり、バラバラバラと激しい打撃音へと変わっていく。

 教室内がざわめき始める。講義を聞いていた学生たちが一斉に窓の方を向く。

「え、嘘? 雨?」

「予報じゃ晴れだったのに!」

「傘持ってないよ、マジかー」

 窓の外を見ると、さっきまでの快晴が嘘のように、空が不気味な灰色に覆われていた。

 まるでインクを垂らしたように、急速に暗雲が広がっていく。

 ゲリラ豪雨。

 天気予報アプリを確認するが、画面上の予報は「晴れ」のままだ。更新しても変わらない。


『天気予報は外れる。午後は雨になる』


 当たった。

 偶然なんかじゃない。

 あのメモは、本当に未来から来たものなのかもしれない。

 だとしたら。

 絵里依が殺されるという予言も、現実になる?

 背後からの一突き。刺殺。守れなかったという悔恨。

 それが、数時間後の僕の姿なのか?

 想像するだけで、吐き気がこみ上げてくる。

 幼馴染の死体。血まみれの地面。立ち尽くす僕。


「……止めなきゃ」


 僕は席を蹴って立ち上がった。

 椅子が倒れる大きな音が響き、静寂が一瞬で破られる。

 教授が講義を中断してこちらを見る。眼鏡の奥の目が、不審そうに細められた。

「おい、相沢君。どこへ行くんだね?」

 教授の咎める声を無視して、僕は教室を飛び出した。

 廊下を全力疾走する。

 心臓が破裂しそうなくらい早鐘を打っている。

 他の学生たちの驚いた視線が背中に刺さるが、構ってはいられない。

 雨に濡れるのも構わず、僕は校舎を飛び出した。

 激しい雨が全身を打つ。服が瞬く間に濡れそぼり、肌に張り付く。

 だが、ただ闇雲に走っても意味がないことは分かっていた。

 メモには、肝心の犯人の名前が書かれていないのだ。

 誰が、なぜ、絵里依を殺すのか?

 通り魔? 怨恨? ストーカー?

 それが分からなければ、彼女を守り抜くことはできないかもしれない。

 一刻を争う事態だ。僕一人の力では足りない。


 僕は走りながら、一人の顔を思い浮かべていた。

 僕の知る限り、一番頭が切れて、一番信頼できる男。

 論理的で、冷静で、こういう不可解な事態に直面した時、決してパニックにならずに解を導き出せる友人。


かがみ……!」


 僕は震える指で、親友の番号を呼び出した。

 雨音が激しく打ちつける中、コール音だけが虚しく響いていた。


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