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ガラスの船が沈むとき

作者: 久遠 睦

第1部 悪夢の残響(残り72時間)


第1章 ガラスの破片


相原柚希あいはら ゆずき、32歳。彼女の世界は、静寂と混沌という二つの極で成り立っていた。フリーランスのイラストレーターとして、彼女は都心にありながらも時間の流れが止まったかのようなアパートの一室で、植物の繊細な線画を描くことで生計を立てていた。几帳面に整えられた仕事机、色番号順に並べられたペン、湿度を一定に保たれた観葉植物。それは、制御不能な内なる世界からの逃避場所であり、彼女自身が築き上げた聖域だった 。

しかし、その聖域は眠りに落ちるたびに侵犯された。


20代後半から始まった奇妙な現象。見た夢が、現実になる。最初は些細なことだった。花瓶が割れる夢を見れば、翌日には手が滑って床に落ちる。友人からの不意の電話を夢に見れば、数時間後に着信音が鳴る。偶然。誰もがそう片付けるだろう。柚希自身もそうだった。

だが、それは徐々に輪郭を濃くし、無視できない重みをもって彼女の人生に食い込んできた。それは超能力などという輝かしいものではなく、むしろ呪いに近かった。知ってしまった未来の断片は、回避不能な重力のように彼女の精神を蝕んでいく。フリーランスという不安定な身分、締め切りと収入への絶え間ない不安、そして社会との希薄な繋がり 。そうした生活の中で感じる無力感やコントロールを失っているという感覚が、彼女の精神を奇妙な形で研ぎ澄ませているのかもしれないと、彼女はぼんやりと考えていた。コントロールできない現実の代償として、脳が「予知」という名の秩序だった物語を紡ぎ出しているのではないか。それは、彼女の無意識が生み出した、恐ろしくも機能的な自己防衛機制だったのかもしれない 。


その夜の夢は、これまでとは比較にならないほど鮮明で、暴力的だった。

舞台は東京国際フォーラム。ガラスと鉄骨でできた巨大な船のような、ガラス棟 。昼下がりの柔らかな光が、高さ60メートルにも及ぶガラスのカーテンウォールを透過し、アトリウムに幻想的な模様を描いている。国際会議か何かのイベントだろうか、様々な人種の人々が談笑している。平和で、ありふれた都会の午後。

その光景が一瞬にして引き裂かれた。

轟音。鼓膜を突き破るような衝撃。船の竜骨を思わせる鉄骨が軋み、巨大なガラスの壁がスローモーションのように砕け散る 。無数のガラス片が凶器となって降り注ぎ、人々の悲鳴が音の壁となって柚希を襲う。煙と粉塵が視界を奪い、焦げ付くような化学薬品の匂いが鼻をついた。パニックに陥った人々が、出口へと殺到する。倒れたキオスクのデジタル時計が、赤い光で『14:32』という数字を点滅させていた。

その地獄絵図の中で、柚希の視線は一人の男に釘付けになった。左の眉の上に、ギザギザの古い傷跡がある男。彼は一瞬だけこちらを振り返り、その目には何の感情も浮かんでいなかった。


第2章 虚空への叫び


「……っ!」

悲鳴とも呻きともつかない声とともに、柚希はベッドの上で跳ね起きた。心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動し、全身が冷たい汗で濡れていた。夢の残響が、現実の部屋の静寂を侵食していく。ガラスの砕ける音、人々の絶叫、そしてあの無機質な男の視線。

彼女は震える手でスマートフォンを掴んだ。時刻は午前3時過ぎ。あと3日。

どうすればいいのか。過去に一度だけ、勇気を振り絞って友人に警告したことがあった。交差点での事故の夢。だが、返ってきたのは心配そうな、しかし明らかに彼女を異常者として見る目だった 。「疲れてるんじゃない?」その一言が、柚希の心を固く閉ざした。誰が信じるだろうか、夢で見たことなど。

しかし、今回は違う。あの夥しい数の死と苦痛。無視することはできない。警察に通報?匿名で?何を根拠に?夢を見ました、とでも言うのか。いたずら電話として処理されるか、最悪の場合、業務妨害で自分が捜査対象になるかもしれない 。


絶望が思考を麻痺させる。だが、何もしないという選択肢は、あの地獄絵図を追体験するのと同じだった。彼女は衝動的に、SNSアプリを開いた。普段使っているアカウントではない。誰にも知られていない、この日のために存在するかのようだった匿名のID。

指が震え、何度も打ち間違えながら、彼女は言葉を紡いだ。個人が特定されないよう、しかし、万が一、誰かの目に留まった時のために、鍵となる情報だけを込めて。

『東京国際フォーラム。三日後。14時32分。ガラスの船が沈む』

投稿ボタンを押した指先が、氷のように冷たかった。それは虚空に放たれた石であり、何の波紋も呼ばずに沈んでいくことを、彼女は半ば確信していた。

案の定、数分もしないうちに、嘲笑と罵倒の通知が届き始めた。「また予言者様かよ」「かまってちゃん乙」「通報した」。ネットの悪意は、予知夢と同じくらい、残酷で現実的だった 。虚偽の情報やいたずらの投稿が後を絶たない現代において、彼女の必死の叫びは、無数のノイズの一つとして消費されていくだけだった 。柚希はスマートフォンを投げ出し、頭を抱えた。孤独が、部屋の闇よりも深く彼女を包み込んでいた。


第3章 デジタルのさざ波


警視庁丸の内警察署。その一角で、田中海斗たなか かいと巡査部長(28)は、モニターに映し出される無数の文字列を睨んでいた。彼の仕事は、管轄内の脅威となりうる情報をオンライン上から拾い上げること。その99%は、根拠のない脅迫や悪質な冗談だ。

海斗は、いわゆる「ノンキャリア」だった。交番勤務の巡査から始まり、厳しい昇任試験を突破して今の階級にたどり着いた 。同期の中には、国家公務員試験を経て警部補からスタートする「キャリア」組もいる 。彼らとの間には、見えないが確実な壁が存在した。どれだけ努力しても、ノンキャリアの出世には限界がある 。その事実が、海斗の胸にくすぶる野心と、わずかな焦燥感の源だった。

いつものように、彼は意味のない投稿を読み飛ばしていた。その時、一つの短い文章が彼の目に留まった。

『東京国際フォーラム。三日後。14時32分。ガラスの船が沈む』

またか、と一瞬思った。だが、何かが違った。「ガラスの船」。東京国際フォーラムのガラス棟を指す、建築関係者や一部の地元民が使う愛称だ 。単なる愉快犯が使う言葉にしては、妙に具体的で詩的だった。その違和感が、海斗の指を止めた。

「田中、何見てるんだ」

背後から声をかけたのは、キャリア組の上司、まだ30代前半の警部補だった。「ネットの書き込みです。少し気になる点が…」海斗が報告しようとすると、上司はモニターを一瞥し、鼻で笑った。「そんなもの、一日に何十件もあるだろう。時間の無駄だ。それより強盗事件の捜査に集中しろ」

その言葉は正論だった。だが、海斗の心に引っかかった小さな棘は、消えなかった。これは、ただのノイズではないかもしれない。彼は上司の見ていない隙に、その投稿のデータを自身の端末に転送した。


第4章 最初の接触


職務時間外、海斗は独りで投稿の追跡を始めた。大規模なサイバー犯罪捜査に使えるような高度なツールはない。だが、部署で利用できる基本的な情報から、投稿者の大まかな位置を割り出すことはできた。さらに、その匿名アカウントが過去に一度だけ使った捨てメールアドレスを発見し、そこからプリペイド式の携帯電話番号へとたどり着いた。

深呼吸を一つして、彼はその番号に電話をかけた。数回のコールの後、おそるおそる、といった様子の女性の声が聞こえた。

「…もしもし」

「警視庁丸の内署の田中と申します。SNSへの投稿の件でご連絡しました」

電話の向こうで、相手が息を呑むのが分かった。柚希は、嘲笑か、あるいは逮捕の宣告を覚悟していた 。海斗は、爆破予告の電話対応マニュアルに沿って、冷静に、しかし相手の信頼性を測るように質問を重ねた 。

「なぜ、あのような投稿を?」

「信じてもらえないのは分かっています。でも、本当なんです。夢で…見たんです」

夢。その言葉を聞いた瞬間、海斗の期待は失望に変わりかけた。やはり、精神的に不安定な人物の妄想か。だが、電話を切る前に、彼は最後の質問を投げかけた。

「何か、具体的なことは見えませんでしたか。犯人の顔とか、特徴とか」

その問いに、柚希は堰を切ったように話し始めた。パニックと恐怖に満ちた声で、夢の光景を語る。そして、彼女が口にした一言が、海斗の懐疑心を打ち砕いた。

「男の人が…左の眉の上に、ギザギザの傷跡がありました。古い、白い傷でした」

そのディテール。あまりにも生々しく、具体的だった。単なる妄想や作り話にしては、人間的な手触りがありすぎた。海斗の刑事としての勘が、警鐘を鳴らしていた。

「分かりました。一度、直接お話を聞かせてください」

海斗は、人目につかない静かな喫茶店を指定した。電話を切る前、彼の口から出た言葉は、彼自身の決意の表れでもあった。

「全て、話してください」

それは、孤独な予知能力者と、組織からはみ出した若手刑事とを結びつける、最初の細い糸だった 。


第2部 懐疑的な協力者(残り48時間)


第5章 恐怖のタペストリー


翌日、指定された喫茶店の隅の席で、海斗と柚希は向かい合っていた。柚希は憔悴しきっていたが、その瞳には必死の色が浮かんでいた。海斗はノートを開き、冷静な口調で質問を始めた。

「もう一度、夢の内容を詳しく教えてください」

海斗の落ち着いた態度に、柚希は少しだけ安堵し、記憶の糸をたぐり寄せた。

「爆発が起きたのは、メインのホールではありませんでした。地下にある、だだっ広い空間…たしか、展示ホールだったと思います。広さが5000平方メートルくらいあって、地下1階の広場から中の様子が見えるような構造でした 」


「イベントは何かやっていましたか?」

「はい。『グローバル・テック・ブリッジ 2025』という国際技術サミットのバナーが見えました」

「犯人について、他に何か」

「眉に傷のある男は、技術スタッフの制服を着て、大きな機材ケースを押していました。そのケースに、奇妙なロゴが描かれていたんです。自分の尻尾を噛んでいる、蛇の絵でした」

場所、時間、イベント名、犯人の特徴、そして企業ロゴ。それが真実であれば、これ以上ないほど具体的で、捜査に繋がる情報だった。海斗はメモを取りながら、柚希の言葉の一つ一つを吟味していた。彼女の話は荒唐無稽だが、そのディテールには奇妙な説得力があった。


第6章 ファサードの亀裂


喫茶店を出た後、海斗は直ちに単独捜査を開始した。

まず、インターネットで「グローバル・テック・ブリッジ 2025」を検索する。すぐに公式ウェブサイトが見つかった。開催日時は二日後。場所は東京国際フォーラム。柚希の証言の第一段階が、事実として確認された。

次に、彼は所轄の刑事という立場を利用し、国際フォーラムへ向かった。「イベント前の警備計画の確認」という名目で、彼は施設内部を歩き回った。柚希が描写した通りの、地下1階から見下ろせる巨大な地下展示ホールがそこにはあった 。

彼は施設の警備センターに立ち寄り、搬入経路の防犯カメラ映像の確認を申し出た 。24時間体制で厳重に管理されているはずだった。しかし、膨大な量の映像を早送りで確認していく中で、海斗はそれを見つけた。地下の搬入口から展示ホールへと続くサービス用通路。その一角にある業務用エレベーターの前が、複数のカメラの死角になっている。ほんの数秒間、完全に映像から消える空白地帯。意図的に作られたのか、あるいは犯人がカメラに細工をしたのか 。いずれにせよ、何かを秘密裏に運び込むには絶好の場所だった。

署に戻った海斗は、自席でノートに情報を整理した。柚希からもたらされた情報が、一つ、また一つと現実のピースにはまっていく。


情報源(柚希)からの情報

事実確認

ステータス

場所: 東京国際フォーラム、地下展示ホール

会場確認済み。レイアウトも証言と一致。

確認済み

イベント: 「グローバル・テック・ブリッジ 2025」サミット

公開情報によりイベントの存在を確認。

確認済み

日時: 二日後の14:30頃

イベントの基調講演が同時間帯に予定。

確認済み

手口: 機材ケースに爆弾を隠し、サービスエリアから搬入。

展示ホールに通じるサービス通路にCCTVの死角を発見。

可能性あり

識別情報: 眉に傷のある男、蛇のロゴ。

N/A

捜査中


残るは、傷の男と蛇のロゴ。これが繋がれば、単なる偶然は、確信へと変わる。


第7章 異国の影


海斗は蛇のロゴの調査に集中した。自分の尻尾を噛む蛇、「ウロボロス」。古代から存在するシンボルだ。彼は警察のデータベースで、国内の企業ロゴや団体のシンボルマークを検索したが、該当するものはなかった。

彼は検索範囲を国外へと広げた。国際的な企業登記情報、そして、既知の過激派組織が使用するシンボルの一覧。数時間にわたる地道な作業の末、ついにヒットした。

そのロゴは、数年前に解体された東南アジアの貿易会社が使用していたものだった。そして、その会社は各国の情報機関から、国境を越えて活動するテロ組織「新しき夜明け解放戦線(NDLF)」のフロント企業としてマークされていた。

海斗の背筋を冷たいものが走った。現代のテロは、かつての日本赤軍のような国家の支援を受けた組織とは様相が異なる 。特定のイデオロギーに触発され、インターネットを通じて緩やかに繋がった個人が、自国でテロを起こす「ホームグローン型」が増加している 。NDLFは、反グローバリズムと過激な原理主義を掲げ、欧米の資本主義を象徴する「ソフトターゲット」を狙うことで知られていた 。国際会議、ホテル、商業施設。彼らにとって、西側諸国の主要な同盟国である日本で開催される国際技術サミットは、格好の標的だった 。

これはもう、丸の内署の管轄で扱える事件ではない。国家の安全保障に関わる、国際テロ事件だ。


第8章 見えざる戦争


一介のノンキャリア巡査部長が、国際テロ組織の陰謀を追う。それはあまりにも現実離れした状況だった。海斗は自分が途方もない領域に足を踏み入れてしまったことを自覚した。

彼は、かつて世話になった先輩を頼ることにした。今は警視庁本庁、公安部に所属している人物だ。公安部の中でも、特に国際テロやスパイ活動を専門とする精鋭部隊、外事課 。

警視庁の奥深く、緊張感に満ちた一室で、海斗は外事課の捜査官たちと対峙していた。彼らの視線は鋭く、そして懐疑的だった。ハードな情報と緻密な分析が全ての彼らの世界において、「予知夢」は一笑に付されるべき与太話でしかなかった。

「田中君、君は正気か?国家の安全保障に関わる問題を、どこの馬の骨とも知れない女の夢物語で動かせと?」

ベテランの警視が、冷たく言い放った。しかし、海斗は怯まなかった。彼は感情を排し、事実だけを淡々と、しかし力強く提示した。

「夢の話は、あくまでキッカケに過ぎません。重要なのは、そこから得られた情報が、客観的な事実と次々に一致していることです」

彼は、イベントの存在、会場の構造、CCTVの死角、そして決定的な証拠である蛇のロゴとテロ組織NDLFとの繋がりを、時系列に沿って説明した。動かしがたい物証の連鎖に、公安の捜査官たちの表情が徐々に険しくなっていく。

沈黙を破ったのは、先ほどの警視だった。

「…分かった。この件は、我々公安部が引き継ぐ。君も、タスクフォースの一員として動いてもらう。ただし、あくまで我々の指揮下だということを忘れるな」

その瞬間、事件は海斗個人の手を離れ、国家レベルの捜査へと移行した。

同じ頃、柚希は警視庁の用意したセーフハウスの一室に移されていた。彼女はもはや単なる情報提供者ではない。事件の鍵を握る最重要参考人であり、同時に、テロリストに狙われる可能性のあるターゲットでもあった。窓の外には見知らぬ景色が広がり、部屋の入口には常に人が立っている。彼女が自ら望んで手放したはずの日常は、もう手の届かない場所にあった。予知という力で未来を動かしたはずが、皮肉にも彼女自身は、より一層の無力感と閉塞感に囚われていた。


第3部 時計との競争(残り24時間)


第9章 機械の中の幽霊


警視庁公安部は、その総力を挙げて動き出した。膨大なデータベースとの照合により、夢に出てきた「眉に傷のある男」の正体が判明した。数週間前、偽造パスポートで入国した、NDLFの活動員だった。

さらに、通信傍受とデータ解析によって、彼を支援する国内の協力者たちの存在が浮かび上がった。それは、ごく小規模な「ホームグローン・セル」だった。

一人は、都内の大学に通う学生。彼は、現代社会に疎外感を抱き、インターネット上でNDLFの過激な思想とカリスマ的な指導者のメッセージに傾倒していった 。もう一人は、港湾地区の運送会社に勤務する中年男性。彼は、会社からの不当な扱いや社会への不満を募らせており、その動機はイデオロギーよりも個人的な恨みに根差していた 。

警察は、彼らの計画の全貌を掴みつつあった。運送会社の男が、その立場を利用して爆弾の部品を国内に密輸した。そして、サミットの設営スタッフを装って偽造IDで国際フォーラムに侵入し、海斗が発見したCCTVの死角を利用して爆弾を展示ホールに運び込む手筈だった 。捜査網は、着実にテロリストたちを追い詰めていた。


第10章 最後のヴィジョン


セーフハウスの閉ざされた空間で、柚希の精神は限界に達していた。自分が引き起こした巨大な渦の中心にいながら、何もできずに待つことしかできない。その絶対的な無力感と極度のストレスが、皮肉にも彼女の精神を再び深く沈ませた 。

眠りに落ちた彼女が見たのは、もはや物語ではなく、断片的なイメージの奔流だった。

— 機材ケースの内部。無骨なパイプ爆弾ではない。大型サーバーラックの電源ユニットに偽装され、複雑な配線が施された、高度なプラスチック爆薬。

— 起爆装置のクローズアップ。旧式の携帯電話が組み込まれている。設定された時刻—14時32分—に着信があれば、爆発する仕組みだ。それは、現場での電波妨害が不可欠であることを意味していた 。


— そして、場所。ケースはまだ展示ホールにはない。地下の広大な荷捌場にさばきじょう 。ホールB7の設営機材が置かれる区画に紛れ込ませ、直前に運び出す計画なのだ 。

柚希は叫びながら目を覚ました。彼女は即座に、監視役の刑事に海斗への連絡を求めた。震える声で、夢の断片を伝える。荷捌場の、特定のホールに割り当てられた区画。それは、部外者には絶対に知り得ない情報だった。

その報告を受けた公安部の指揮官たちは、もはや柚希の能力を疑う者はいなかった。それは非科学的で、理解不能な現象だったが、彼女の情報が恐ろしいほど正確であることは、否定しようのない事実だった。


第11章 ゼロ・アワー


最終作戦の火蓋が切られた。残された時間はわずかだ。

公安部は、テロリストを刺激し、一般市民にパニックを引き起こすことを避けるため、爆破予告の事実は伏せた 。「ガス漏れの疑い」という名目で、国際フォーラムの職員と協力し、冷静かつ迅速に避難誘導を開始した。

その混乱の中、海斗は爆発物処理班とともに、地下の荷捌場へと突入していた 。薄暗く広大な空間は、無数のコンテナや車両が迷路のように入り組んでいる。処理班は、携帯電話の電波を遮断するための強力なジャマーを展開した。

時を同じくして、都内各所に潜伏していたテロリストたちの拠点に、公安部の部隊が一斉に突入した。起爆の電話をかけさせるわけにはいかない。

海斗たちは、ついにホールB7の機材区画にたどり着いた。そこには、他の機材と並んで、あの蛇のロゴが描かれたサーバーラックが静かに置かれていた。処理班の一人が慎重にカバーを開け、内部を覗き込む。彼の顔が緊張に強張った。

「…これは、厄介だ。見たことのない構造だ。全員、ここから動くな。絶対的な静寂が必要だ」

その言葉が、張り詰めた地下空間に響き渡った。


第12章 沈黙の後に


爆弾処理の緊迫した時間が、まるで永遠のように感じられた。処理班の隊員が、一筋の汗を額に浮かべながら、慎重に配線を切断していく。その様子が、都内各所での制圧作戦の映像と交互にモニターに映し出される。

海斗は、運送会社の男が追い詰められた倉庫の現場にいた。隅にうずくまる男は、冷酷なテロリストというよりは、社会から見捨てられ、絶望した、哀れな中年男にしか見えなかった 。彼の口から語られたのは、イデオロギーではなく、個人的な不満と、誰かに一矢報いたかったという、歪んだ自己顕示欲だった。

「…完了した」

処理班からの無線が、作戦本部に安堵のため息をもたらした。爆弾は、予定時刻のわずか数分前に、完全に無力化された。テロリストのセルは全員拘束された。

翌日のニュースは、東京国際フォーラムで発生した「大規模な電源系統のトラブル」について小さく報じただけだった。イベントは延期されたが、中止にはならないという。市民は、自分たちがどれほど恐ろしい災害の瀬戸際にいたのかを知ることはない。成功したテロ対策とは、しばしばそのように、人知れず完遂されるものなのだ 。


エピローグ 明日の重み


一週間後。延期されていた「グローバル・テック・ブリッジ 2025」は、何事もなかったかのように開催されていた。柚希と海斗は、陽光を浴びて輝くガラス棟の前の広場で、言葉少なに向かい合っていた。

「正式な表彰を受けた。だが、公式記録では『通常の内偵捜査による情報』ということになっている」と海斗は言った。柚希の存在は、公式には完全に消去された。

海斗は、その型破りな捜査手法によって、公安部内で一目置かれると同時に、危険視される存在にもなった。彼の警察官としての道は、以前よりも複雑なものになるだろう。

柚希は、自由の身になった。しかし、彼女はもう以前の彼女ではなかった。かつては受動的な恐怖の源でしかなかった「力」は、多くの命を救うための道具となった。それは、彼女に恐ろしいほどの目的意識と、コントロールの感覚を与えていた 。

アパートに戻った柚希は、仕事机の前に座った。しかし、ペンを取ることはなかった。窓の外の夕暮れを眺めながら、彼女はただ静かに待っていた。

初めて、彼女は眠りに落ちることを恐れていなかった。むしろ、その先にあるものを待っていた。未来はもはや、ただ彼女に降りかかってくるものではない。それは、彼女が背負うべき、重い責任そのものだった。


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