畑に忍び寄るいたずら者
畑に忍び寄る影――といっても、今回はのんびり調子で始まります。
ライルとセレス、そしてクロにとって初めての「小さな事件」。
村の生活に溶け込みながらも、こうしたハプニングを通して日常に色がついていく……そんなお話です。
朝露に濡れた畑を歩くと、土の湿った香りと、芽吹いたばかりの野菜の青々しい匂いが鼻をくすぐった。
ライルは鍬を肩に担ぎ、大きく息を吸い込む。冷たい空気が肺を満たし、王都の埃っぽい石畳とはまるで別の世界にいることを実感させた。
「ふぅ……やっぱり、この匂いの方が落ち着くな」
足元ではクロが跳ねるように走り回っている。小さな体で畑を端から端まで駆け抜け、すぐに戻ってきては尻尾を振り、きらきらした瞳でライルを見上げてくる。
「おい、芽を踏むなって……」
苦笑しつつ手を伸ばすと、クロは「わん!」と元気に吠えて、余計に土を蹴り上げた。
そこへセレスが姿を現した。小さな水桶を抱え、銀の髪を朝風に揺らして歩いてくる。陽の光を浴びたその姿は、どこか非現実的でありながら、この畑に溶け込んでいた。
「クロもすっかり畑の仲間ね。でも、ライル……ちょっと見てほしいものがあるの」
案内された先はトマトの列。数本の苗の葉が無惨に食い荒らされていた。
「虫か?」
葉をめくり裏側を確かめるが、姿は見えない。
セレスは首を振る。
「違うわ。夜のうちに“誰か”が入った跡ね」
視線を落とすと、畝の脇に小さな足跡が並んでいる。人間ではない。もっと小さく、丸みを帯びた跡。
クロが低く唸った。背筋が自然と緊張する。
――穏やかなはずの田舎暮らしに、思わぬ“訪問者”が忍び込んでいた。
足跡は林の奥へ続いている。クロが先に立って駆け出し、ライルも慌てて追いかけた。
茂みを抜けた先で、「くぅーん」と小さな鳴き声がする。
そこにいたのは、丸々とした栗色の小動物だった。ふさふさの尻尾を揺らし、光を受けた瞳がきょとんとこちらを見つめている。
「リス……?」
「いいえ、ヌートね。山に棲む草食獣よ。人に危害はないけれど、畑の作物が大好物」
ヌートの口には真っ赤なトマトが咥えられていた。クロに威嚇され固まっているが、悪意というより、ただ食欲に負けただけのように見える。
「なんだ、ただの食いしん坊か……」
安堵と同時に微笑ましさがこみ上げた。
だがセレスの声は真剣だった。
「かわいい顔をしていても、放っておけばまた畑を荒らされるわ。どうする、ライル?」
クロが「わん!」と鳴き、まるで「判断を任せる」と言っているようだった。
ライルはしばし考え込み、野菜を数本取り出して地面に置いた。
「……腹を満たすなら、これを食べろ。ただし、畑に勝手に入るのはなしな」
ヌートは警戒しつつも近寄り、やがて夢中で野菜を食べ始めた。
その光景にライルはふっと笑う。
「な、こうすればお互い困らない」
セレスは目を細め、小さく微笑んだ。
「優しいのね。でも、その優しさが仇になることもある」
「わかってる。それでも追い払うよりはいいさ」
クロは最後まで複雑そうにしていたが、ヌートが腹を満たして去っていくと、ようやく尻尾を振った。
「まるで村に新しい約束を結んだみたいね」
セレスの冗談めいた声に、ライルは肩をすくめた。
――こうして小さな訪問者との一幕は終わった。
だがその夜。食卓で笑い合った後、セレスがふと窓の外に目をやり、低くつぶやいた。
「……森が、静かすぎる」
その声音に、ライルは胸の奥がざわつくのを覚えた。
穏やかな暮らしの裏で、見えない“何か”が揺らぎ始めている。
翌朝、村はいつもよりにぎわっていた。
広場のあちこちで人々が声を交わし、木箱や籠を抱えた農夫たちが行き来している。近くの家からは焼きたてのパンの匂いが漂い、炭火で焼いた魚の煙が風に乗って流れてきた。
「今日は市場の日だからよ」
セレスが肩に小さな籠を掛けながら説明する。
「村の人たちが畑や森で採れたものを持ち寄って、交換したり売ったりするの。あなたも慣れておいた方がいいわ」
「市場か……王都の賑わいとは違うんだな」
ライルは辺りを見渡す。確かに王都の市場は喧騒と競り声が渦巻いていたが、ここでは笑い声や挨拶が交わされ、どこか祭りの準備のような和やかさがあった。
クロはその空気に浮かれて駆け回り、子供たちに撫でられて嬉しそうに尻尾を振っていた。
「わぁ、黒い子犬だ!」
「クロって名前なんだって!」
子供たちの声が弾む。ライルは少し照れながらも、胸の奥が温かくなった。
セレスは薬草や乾燥ハーブを広げ、手際よく村人たちとやり取りをしている。
「千年魔女様、いつもの薬草を分けていただけますか?」
「ええ。今年は香りが強いわ。風邪の予防にも効くはず」
村人たちは口々に礼を言い、銀髪の魔女を慕う眼差しを向けていた。
一方、ライルはまだ慣れない手つきで自分の畑の野菜を並べる。
見た目は不揃いだが、土の香りが残る新鮮な葉物。村の老婆が興味深げに手に取り、にこやかに言った。
「王都から来たって聞いたけど、なかなかいい出来じゃないの。手をかけた野菜は味が違うわ」
「ありがとうございます」
素直に頭を下げると、胸の奥に小さな誇らしさが芽生えた。
しかし――その賑わいの片隅で、ふと視線を感じた。
振り返ると、黒衣をまとった背の高い人影が、人混みの中でじっとこちらを見ていた。
一瞬、エルンストかと思ったが……違う。顔は覆い隠され、すぐに人波に紛れて消えてしまった。
「……気のせいか?」
ざわめく胸を押さえ、ライルは息をついた。
セレスは何も気づいていない様子で、手にしたパンを差し出してくる。
「ほら、焼きたてよ。少しは力をつけないと」
差し出された温かいパンを受け取りながら、ライルは心の奥で小さな違和感を抱え続けていた。
――畑を荒らしたヌートの影の奥に、もっと大きな“何か”が潜んでいる。
その予感は、村の賑わいの中で静かに膨らんでいった。
市場から戻ると、家の中には夕日の光が差し込み、壁を金色に染めていた。
ライルは籠いっぱいの野菜を台所に広げ、包丁を握る。
「よし、今日も腕をふるうか」
セレスは横で袖をまくり、野菜を水で洗っている。銀の髪が肩に落ち、淡い光をまとって揺れた。
「ライル、玉ねぎは炒めすぎないようにね。甘みが飛んでしまうから」
「わかってるって」
彼は木べらを握り直し、鍋に油をひいて玉ねぎを落とす。
じゅわっと香ばしい音が立ち、甘い匂いが部屋に広がった。
足元ではクロが落ち着きなくうろうろしている。
「わん! わん!」
鼻をひくひく動かし、待ちきれない様子で鍋の方を見上げる。
「こら、まだだぞ」
笑いながら声をかけると、セレスが小さく肩を震わせて笑った。
「クロの方がよほど食いしん坊ね」
やがて食卓に並んだのは、野菜と豆のスープ、香草を練り込んだ黒パン、そして市場で手に入れた果物。
湯気が立ち上り、柔らかな匂いが部屋いっぱいに広がっていく。
「いただきます」
三人――いや、クロも含めれば四つの声が重なり、静かな家に響いた。
スープをひと口すすれば、野菜の甘みが舌に広がり、体の芯から温まる。
「……あったかいな」
自然にこぼれた言葉に、セレスが頷く。
「ええ。こうして皆で囲むから、余計にね」
クロは器に分けてもらった野菜を夢中で頬張り、満足げに尻尾を振っていた。
その姿に笑いがこぼれ、ライルはふと胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「王都にいた時は……こんな時間、想像すらできなかった」
ぽつりとこぼすと、セレスは翡翠色の瞳でこちらを見つめる。
「だからこそ、今を大切にしましょう。千年を生きても、このひとときは二度と戻らないの」
その言葉は不思議と重く、そして優しかった。
ライルは少し照れくさく笑い、スープを口に運んだ。
窓の外では、夜がゆっくりと村を包み込んでいく。
――けれどその静けさの奥に、どこか落ち着かない影が潜んでいる気がした。
夕餉を終え、食卓を片付けると、家の中はランプの灯りに照らされ、穏やかな闇に包まれていった。
クロは満腹で床に丸まり、静かな寝息を立てている。
ライルは窓辺に立ち、外の夜を眺めた。
闇に沈んだ村はしんと静まり返り、風が木々を揺らす音だけが耳に届く。
「……なんだか、静かすぎるな」
思わずつぶやいた声が、自分の耳にも妙に冷たく響いた。
「静かなのはいいことよ」
背後からセレスの声がした。
振り返ると、ランプの光に銀髪を照らされた彼女が椅子に腰を下ろし、温かな茶を手にしていた。
「けれどね、ライル」
彼女は静かに言葉を続ける。
「今日みたいに笑える時間を、何よりも大切にして。……それは、失ってからでは決して取り戻せないものだから」
その声音には、千年という時を生きた者だけが持つ重みがあった。
ライルは思わず言葉を失い、窓から見える夜空へ視線を戻す。
「……失うなんて、考えたくないけど」
「誰も考えたくはないわ」
セレスは柔らかく微笑んだ。
「けれど、だからこそ“今”を抱きしめておくことが大事なの」
ランプの炎が揺れ、彼女の翡翠色の瞳が光を宿して見える。
その瞳はどこか遠い記憶を見つめているようで――けれど、同時に確かに目の前の自分を見ていた。
「……セレス」
名を呼んだが、その先の言葉が出てこなかった。
ただ、胸の奥で何かが静かに震え、温かな灯をともしていた。
クロの寝息が、まるでその沈黙を守るかのように響く。
――この静かな夜が、ずっと続けばいい。
ライルはそう願いながら、窓を閉じて椅子に腰を下ろした。
夜は深まり、村は完全に眠りについた。
窓の外に広がるのは、月明かりに照らされた森と畑。
しんとした静けさの中、虫の声だけが規則的に響いている。
ライルは寝台に横たわっていたが、なかなか眠りに落ちることができなかった。
セレスの言葉が胸に残り、何度も頭の中をよぎる。
「……今日みたいな時間を、大切に……か」
ふと、外からクロの短い唸り声が聞こえた。
「……クロ?」
身を起こして耳を澄ます。
クロは足元で眠っているはずだった。だが今、窓の外から低く、警戒するような声が漏れていた。
急いで外を覗くと、月明かりの下でクロが立ち上がり、林の方角をじっと見つめているのが見えた。
毛を逆立て、尻尾をぴんと立てて――明らかに何かを警戒している。
ライルは胸がざわめき、外套を羽織って戸口を開けた。
冷たい夜気が一気に流れ込み、肌を刺す。
「どうした、クロ……?」
声をかけると、クロは短く吠え、畑の奥へ視線を向けた。
そこには、確かに何かの“気配”があった。
風の揺れ方が一瞬だけ不自然に感じられ、葉のざわめきが妙に遅れて響いた。
「……気のせい、か?」
そう呟いた途端、林の奥からぱきり、と枝の折れる音が届いた。
思わず息を呑む。
だが次の瞬間には静けさが戻り、ただ月明かりに照らされた森が広がるだけだった。
クロはなおも低く唸っていたが、やがてライルの足元に戻り、鼻を鳴らして不安げに寄り添った。
「……大丈夫だ。きっと、風のせいだ」
自分に言い聞かせるように呟き、クロの頭を撫でた。
しかし、胸の奥ではざわめきが消えなかった。
――あれは本当に風の音だったのか。
眠りにつくまで、その疑問が頭から離れることはなかった。
深夜。
村の空は無数の星で埋め尽くされていた。
静寂の中でただ、かすかな虫の声と、風に揺れる木々のざわめきが響いている。
ライルは寝台に身を横たえていたが、なかなか眠れずにいた。
外の気配が、まだ心に影を落としていたからだ。
「……気のせいだ。あれは、ただの獣か風の音……」
そう自分に言い聞かせても、昼間のセレスの言葉が頭をよぎる。
――今日みたいに笑える時間を、大切にして。
その声は優しくもあり、同時にどこか遠い響きを帯びていた。
まるで、失われる日を予感しているかのように。
クロが寝台の足元に丸まり、すやすやと寝息を立てている。
小さな体の温もりが伝わってきて、不安で固まった心を少しほぐしてくれた。
「……ありがとな」
小さく呟くと、クロは夢の中で耳をぴくりと動かした。
視線を窓へ向ける。
星明かりの下、畑がぼんやりと浮かび上がって見える。
土の匂い、芽吹いた苗、そして今日出会ったヌート。
――確かにここには、生きるための営みがある。
その当たり前の光景こそ、自分が王都で失ったものだった。
ここでなら、笑って暮らしていける。
そう思うと、胸の奥に小さな火が灯るようだった。
だがその火を、ふっと吹き消すような影が、夜空のどこかに潜んでいる気がしてならなかった。
「……守らなきゃな」
誰に聞かせるでもなく呟いた声は、暗闇に溶けていった。
やがて瞼が重くなり、静かな眠りへと落ちていく。
外では風が再び吹き抜け、畑の苗を揺らした。
その揺らぎは穏やかでありながら、どこか別の“兆し”を含んでいるように見えた。
――こうして、村の日常に小さな影が忍び寄り始めていた。
セレスやクロと協力し、ライルが「村の暮らしに根を下ろしている」ことを少し実感できた話でした。
ただの畑荒らしと思いきや、その背後にはまだ語られていない“影”の気配もちらり……。
次回はさらに村の外へ視野を広げつつ、日常の温もりを大切に描いていきたいと思います。