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黒衣の学者と畑の客人

今回のお話は、市場で現れた“黒衣の人物”の正体がついに明かされます。

セレスの昔の知り合いである学者・エルンスト――彼の登場によって、ライルの穏やかな暮らしにもまた一つ新しい波紋が広がっていきます。

のんびりとした日常の中に、ほんの少しの緊張感を差し込んでみました。

朝露をまとった畑は、薄い光の膜をまとっているように静かだった。

鍬を振り下ろすたびに、湿った土がやわらかく返り、ひんやりとした感触が腕に伝わってくる。

呼吸を整えると、鼻腔に草の匂いと土の匂いが混じり、肺の奥まで澄み渡るようだった。王都では決して味わえなかった空気だ。


「……よし、もう少しだ」

額の汗をぬぐいながら鍬を持ち直したとき、不意に視線を感じた。


畦道の先に、一つの影が立っていた。

朝霧を背に、黒衣の裾を風に揺らしながら、じっとこちらを見ている。


心臓が一瞬、跳ねた。

市場で感じた“視線”――あの冷たい感覚が、鮮やかに甦る。


「おはよう、ライル」

低く落ち着いた声が風に乗って届いた。


黒衣の人物は、ゆっくりと歩み寄ってくる。

フードの奥から覗いたのは、灰銀色の髪と琥珀色の瞳。無精ひげを生やし、年齢を感じさせる顔立ち。

しかし威圧的ではなく、不思議と覇気の抜けたような雰囲気を漂わせていた。まるで人を煙に巻くことに慣れているかのように。


「……エルンストさん?」

市場で見かけたときとは違う。確かな存在感を持ちながらも、敵意は感じられなかった。


「セレスが弟子を取ったと聞いた。半信半疑だったが……こうして畑を耕す姿を見れば、なるほどと思う」

彼は畑の畝をゆっくりと踏みしめ、芽吹いたばかりの苗に視線を落とした。


「なるほどって……」

どういう意味なのか測りかねて、苦笑いを浮かべるしかなかった。


そのとき、家の扉が開く音がして、セレスが姿を現した。

白い朝靄の中に銀の髪がきらりと揺れ、その声は柔らかく、しかし少し呆れが混じっていた。


「……やっぱり来たのね。朝から人の畑に立ち寄るなんて、相変わらず自由な人」


「セレス、久しぶりだな」

互いに微笑みを交わす二人の間に、弟子である自分には踏み込めない“昔”の気配が流れていた。


エルンストは畝に腰を下ろし、土に伸びかけた苗を観察する。

「……見事な土だ。水はけが良く、根が呼吸している。セレス、お前にしてはずいぶんと“地に足のついた暮らし”だな」


「ふふ、嫌味ね。でも気に入っているのよ。土は嘘をつかないから」

セレスは軽く肩をすくめて答え、鍬を手に取る。


俺は二人のやり取りを横で聞きながら、再び鍬を振った。

だが――背中に熱い視線を感じた。振り向けば、エルンストがじっと俺の動きを観察している。


「……なんですか?」

問いかけると、彼は口元をゆるめた。

「いや、思ったより“この土地の人間らしい”動きをしていると思ってな。王都の若造が、こうも自然に土を扱えるものかと感心しただけだ」


褒められたのか、からかわれたのか分からず、頬が少し熱くなる。

その瞬間、背後から「わん!」と甲高い声が響いた。


「クロ!」

黒毛の子犬が泥だらけの足で駆け込み、真っ先にエルンストの膝へ飛びついた。


「おっと……これは歓迎の挨拶かな?」

彼は黒衣の裾を気にすることもなく、クロの頭をくしゃくしゃに撫でる。

「いい眼をしているな。畑よりも、人の心を耕す方が得意そうだ」


クロは尻尾をぶんぶん振り、舌を出して笑っていた。

「……なんだよ、俺より懐いてるじゃないか」

思わずぼやくと、セレスが横でくすくすと笑う。


「ライル、犬は正直よ。誰にでもすぐに懐くわけじゃない」


「ふむ。なら光栄だ」

エルンストは立ち上がり、土を払うと、静かな畑を一望した。

「やはり悪くない。……ここなら、君も“居場所”を見つけられるだろう」


その言葉は穏やかでありながら、どこか奥深い影を含んでいた。

胸の奥がざわめき、思わずセレスを見たが、彼女は何も言わずに鍬を入れ続けていた。


畑仕事を終える頃には、朝靄がすっかり晴れて、村の道には柔らかな陽射しが降り注いでいた。

鍬を担ぎ直した俺は、汗を拭いながらふと隣を歩く二人に視線をやった。


セレスとエルンスト。

その歩調はゆったりとしていて、長い時間を共に過ごした者同士にしか出せない調和があった。

弟子である自分には踏み込めない“過去”の匂いが、二人の言葉の合間からにじみ出ている気がしてならない。


クロはといえば、俺とエルンストの間を小走りに往復しては、時折彼の黒衣の裾にじゃれつき、泥の足跡を残していく。

そのたびに「やれやれ」とエルンストが苦笑しながら抱き上げるものだから、犬まで完全に馴染んでいるように見えて腹立たしい。


「セレス、お前がこの村に腰を落ち着けるとは思わなかったな」

エルンストの声は、懐かしむようでいて、どこか探るようでもあった。


「人は千年も生きれば、旅より土に触れたくなるものよ」

セレスは淡く笑い、銀の髪を風に揺らす。

「空の向こうに憧れた時代もあったけれど、今はここが一番落ち着くの」


「ふむ。お前らしいと言えば、お前らしい」

エルンストは頷き、ちらりと俺を見た。

「そして、そこに弟子……王都から逃げてきた若者を置くとは。面白い選択だ」


思わず足を止め、彼を睨む。

「なぜ俺が王都から来たと知ってるんですか」


「風の噂を集めるのが、学者の仕事でね」

彼は口元を歪める。

「君が王都で何に疲れ、どこへ向かおうとしているのか――そこまでは分からない。だが、ここで生きる選択をしたことは確かだ」


琥珀色の瞳に見据えられると、胸の奥がざわめいた。

その目は冷たくはない。だが、心の奥底まで掘り返されるような感覚に息が詰まる。


「やめなさい、エルンスト。彼を試すような真似は」

セレスが静かに言い、俺の肩に手を置いた。

「彼はまだ弟子になったばかり。根を張ろうとしている最中なの」


「……なるほど。確かに芽はまだ小さい」

エルンストは楽しげに目を細め、前を向いた。


しばし沈黙が流れる。

鳥のさえずり、木々を揺らす風の音、そしてクロの軽やかな足音だけが道に響いた。


やがてエルンストが口を開く。

「ライルと言ったな」


「は、はい」

名前を呼ばれた瞬間、背筋が伸びる。


「君はこの村に“何を探しに来た”?」


唐突な問いに、言葉を失う。

王都での暮らしから逃げてきた――それは確かだ。

だが、ここで何を求めているのか。自分でも答えを持っていない。


「……分かりません。ただ……ここにいると、息ができる気がして」

正直に言葉を絞り出すと、エルンストはふっと口元を緩めた。


「なるほど。悪くない答えだ」

琥珀色の瞳がわずかに和らぎ、柔らかな響きが声に混じる。


「ふふ、彼はまだ素直だから」

セレスが茶化すように笑う。

俺は赤面してクロを抱き上げ、ごまかすように頬を舐められた。


「――息ができる場所か」

エルンストの声はどこか遠く、影を帯びていた。

「ならば、この村は君を試すだろう。土も、人も、因果も」


その言葉の意味を問い返そうとした瞬間、セレスがくるりと振り返り、夕暮れに染まり始めた空を指差す。


「さぁ、晩ご飯が冷めるわよ。帰りましょう」


空気がほぐれ、俺は慌てて歩を進めた。

けれど心の奥には、エルンストの問いが、石のように重く沈んでいた。


小さな家に戻ると、土間に置いた薪がぱちぱちと燃え、部屋の中を柔らかい灯りと香りで満たしていた。

セレスが鍋を火にかけ、俺は畑から持ち帰った野菜を切り分ける。クロは机の下をうろうろして、時折、鼻先を突き出しては香ばしい匂いに尻尾を振っていた。


「ふむ……この香りは懐かしいな」

エルンストは椅子に深く腰を下ろし、黒衣の裾を揺らしながら周囲を見渡していた。

「まさかセレスの料理を、こうして味わえる日が来るとは。――いや、弟子の手も入っているのだったか」


「えっ、俺のは……ただ切っただけで」

慌てて手を振ると、セレスが微笑む。

「切り方ひとつで味も変わるのよ。覚えておきなさい」


からかわれているのか、本気で褒められているのか。曖昧な言葉に頬が熱くなる。


やがて鍋から立ちのぼる香りが一層濃くなり、皿に取り分けられた。

今日の献立は、豆と根菜を煮込んだ素朴なスープ、黒パンにチーズ、そして市場で仕入れた香草を振りかけた焼き魚。飾り気はないが、火と土の恵みを詰め込んだ食卓だった。


「はい、召し上がれ」

セレスが微笑みながら差し出す。


エルンストはスプーンを口に運び、一口含んだ。

「……うまい」

低く呟かれた言葉は重みを帯びていて、それだけで部屋の空気が和らいだ。

「セレス、お前の料理は昔と変わらんな。優しい味だ」


「今は弟子の手もあるから、前よりも賑やかよ」

セレスがちらりと俺を見る。

「不器用でも、彼の切った野菜は味が出ているでしょう?」


「なるほど」

エルンストは視線を俺に向け、にやりと笑った。

「――千年魔女の弟子、か。確かに面白い」


ただの冗談のはずなのに、その琥珀色の瞳に射抜かれると、背筋に冷たいものが走る。

長命を生きる者の目――その奥に潜むものは、俺には到底読み解けなかった。


「おかわりもあるわよ」

セレスの声に救われ、慌ててスプーンを動かす。

素朴なはずの料理が、ひどく胸に沁みる。

土を耕し、水を汲み、薪を燃やして作った一皿が、これほどまでに心を満たすものなのか。


クロが机の下から顔を出し、黒パンのかけらを欲しそうに鳴いた。

「こら、さっきスープの切れ端をやったばかりだろ」

言いながらパンをちぎって渡すと、尻尾をぶんぶん振って齧り始めた。

その無邪気な姿に場の緊張がほどけ、思わず笑みがこぼれる。


「……犬は正直だな」

エルンストが呟き、パンを頬張るクロをしげしげと見つめた。

「危うい者には決して懐かない。だから、この犬が君に寄り添うなら……それが何よりの証だ」


「証……?」

思わず問い返したが、彼はそれ以上は語らず、葡萄酒の入ったカップを口に運んだ。


薪のはぜる音とクロの食べる音、そして食卓を囲む三人の呼吸。

不思議な温かさと、言葉にできない影が同居する時間だった。


食後の片付けが終わる頃、家の中はランプの柔らかな光に包まれていた。

薪の火はゆるやかに燃え、ぱちぱちと小さな音を立てている。

セレスは椅子に腰を下ろし、編み棒を手に淡々と糸を編み込んでいた。銀の髪が灯りを受けてほのかに輝き、その姿はまるで静かな月影のようだった。


俺は膝にクロを乗せて毛並みを撫でていた。子犬はすっかり眠気に負けて、喉を鳴らしながら目を細めている。

柔らかな重みと温もりに、胸の奥がじんわりとあたたまっていく。


「……ライル」

低く名を呼ばれ、顔を上げると、エルンストがランプ越しにこちらを見ていた。

琥珀色の瞳は炎のゆらめきを映し込み、妙に深い影を湛えている。


「君は、この村に来てどれほど経った?」

「えっと……まだ数週間です。畑も市場も、すべてが新しくて」

正直に答えると、彼はゆっくりと頷いた。


「だが――もう根を下ろしているな」

「根……?」

「生きるとは、土に種を蒔くことだ。その種がどんな花を咲かせるかは誰にも分からない。だが、確かに芽吹いた以上は、未来を形づくっていく」


難解な言葉に、胸の奥がざわつく。

何を見透かしているんだ、この人は――。


「エルンスト」

セレスが針を止めて、じっと彼を見た。

「また難しいことを言って、彼を惑わせるつもり?」

「惑わすつもりなどない」

彼は肩をすくめ、笑みを浮かべる。

「ただ、私は“人の行く末”を研究しているだけだ。寿命、因果、絆……そういうものがどう交わって、どう未来を形にするのか。それを知りたいのだ」


“因果”という言葉が耳に残り、胸がきゅっと締めつけられる。

市場で聞いたときと同じざわめきが、心の奥底でうずく。


「……俺なんかを見て、そんなものが分かるんですか」

気づけば声に出していた。


「分かるかどうかではない。――知りたいのだよ」

エルンストは真っ直ぐに俺を見据える。

「君はただの若者ではない。千年魔女が弟子に選んだ存在だ。それはつまり、“何か”を背負っている証だ」


その一言に、思わず息を呑む。

ただ逃げてきただけの俺が、背負っているもの……?


「やめなさい、エルンスト」

セレスが深い溜息をつき、編み棒を置いた。

「彼はまだ始まったばかりよ。これ以上、負担をかけないで」


「負担ではないさ」

エルンストは肩を竦めながらも、その声は低く、妙な響きを帯びていた。

「いずれ自分で気づくことになる。背負っているものに」


クロが小さく「くぅん」と鳴き、俺の胸に顔を埋めた。

その温もりが、張り詰めた心をわずかに和らげる。


沈黙の中で、エルンストはグラスを揺らし、赤い液体を口に含んだ。

「――いつか、君とゆっくり語り合いたい」

その言葉は冗談めいていたが、底の見えない影を含んでいた。


セレスはそれ以上何も言わず、焔の赤を静かに見つめていた。

俺はクロを抱き寄せ、鼓動の音を感じながら、自分でも答えの出せない不安を抱え込んでいた。


夜は深まり、虫の声と薪のはぜる音だけが、静かに響いていた。


やがて夜が更け、ランプの火が静かに揺れる頃、エルンストは黒衣の裾を翻した。

「今夜はもう帰るとしよう。……また来るよ」

軽い調子でそう言い残し、扉を開けて外へ出ていく。


冷たい夜風が一瞬吹き込み、炎が小さく揺らめいた。

扉が閉じると、室内には妙に重たい余韻だけが残された。


「……行っちゃったな」

思わず口をついて出た言葉に、クロが「わん」と短く鳴く。

眠たげな声に、少しだけ張り詰めていた胸が緩んだ。


セレスは椅子に腰を下ろし、膝の上に手を置いたまま、しばし黙り込んでいた。

その横顔には、懐かしさと疲れと、ほんのわずかな影が入り混じっている。


「なぁ、セレス……」

言葉を選びあぐねながらも、問いかける。

「本当にあの人……大丈夫なのか?」


琥珀色の瞳がこちらを振り向き、淡く灯りを映す。

「ええ。エルンストは……学者よ。千年の時を生きた私にとっても、特別な存在だった」

静かに告げるその声は、柔らかくもどこか遠い。


「彼は人を観察して、未来を推し量ろうとする人。ときには冷たく見えるけれど、本当に人を害するつもりはないわ」


「……でも、俺に向けた言葉、正直ちょっと怖かった」

正直な気持ちを吐き出すと、セレスは小さく笑った。

「そうでしょうね。あの人はいつも、人の心を掘り返すような言い方をするから」


彼女はゆっくり立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。

外には満天の星が瞬き、澄んだ夜空が広がっている。

「でも、覚えていて。彼は敵じゃない。……むしろ私にとっては、大切な旧友なの」


「旧友……」

その言葉の響きが、胸に残る。

千年という時間の中で築かれた縁――想像もつかない深さだ。


「……セレスは、大丈夫なのか? また会って」

問うと、彼女は窓越しに夜空を見上げたまま、淡く笑った。

「私は大丈夫よ。だって今は、あなたがここにいるもの」


振り返った瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。

その一瞬、胸が熱くなり、言葉が喉に詰まった。


クロが小さなあくびをして、俺の膝の上で丸くなる。

その温もりに支えられ、張りつめた気持ちが少しずつ溶けていった。


「……守ろうと思うんだ」

自分でも意外な言葉が口から出た。

「セレスやクロ、それにこの暮らしを。俺はまだ弱いけど……絶対に」


セレスは目を細めて頷き、柔らかく微笑んだ。

「ええ。あなたがそう思ってくれるなら、きっと大丈夫」


炎の灯りが二人を照らし、部屋の空気はゆるやかに落ち着いていった。

外では虫の声が続き、夜風が畑を撫でている。


――エルンストの影は消えた。

けれど残した言葉は、心の奥で小さく燻り続けていた。


夜がさらに深まり、外は虫の声と風のささやきだけが残っていた。

薪のはぜる音が小さな家の中に響き、ランプの灯りが壁に揺らめく影を描いている。


クロは俺の膝の上で完全に眠り込み、細い寝息を立てていた。黒い毛並みを撫でると、小さな体温がじんわりと掌に伝わってくる。


「……すっかり安心しきってるな」

思わず呟くと、向かいの椅子で本を閉じたセレスが微笑んだ。

「ええ。クロは賢い子だから。危うい人には絶対に寄り添わないものよ」


その言葉に胸が少し温かくなる。

けれど同時に、エルンストの琥珀色の瞳が脳裏に浮かび、背筋をひやりと撫でた。


「セレス……」

言いかけて、口を閉じる。

彼女が「大丈夫」と言うのなら、きっとそうなのだろう。だが俺の心にはまだ、言いようのないざわめきが残っていた。


セレスはランプの火を指先で覆い、小さく囁くように呟いた。

「……ライル」

「ん?」

「どんなに外がざわついても、この場所は“あなたの家”よ。忘れないで」


琥珀の瞳がまっすぐに射抜くように見つめてきた。

その視線に言葉を返せず、ただ頷くしかなかった。

胸の奥が熱く、そしてどこか切なくなる。


クロが寝返りを打ち、俺の胸元に顔を埋めて小さく鼻を鳴らした。

その仕草に救われるように、ようやく息を吐き出す。


「……ありがとう、セレス」

そう告げると、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。

「ふふ、どういたしまして」


その笑顔は、千年を生きた魔女ではなく、一人の女性のものに見えた。


外に出てみると、夜空には無数の星が瞬いていた。

王都では決して見られなかった、圧倒されるほどの星の数。

冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込み、目を閉じる。


ここでなら――息ができる。

そう思うと、不思議と心が軽くなった。


背後から足音が近づく。振り返ると、セレスがランプを手にして立っていた。

銀の髪が月光に照らされ、まるで夜空の一部のように輝いている。


「寒くない?」

「……平気だよ。むしろ気持ちいい」


二人で黙って星を眺める。

遠くで夜鳥が鳴き、風が畑を撫でる音が微かに届いた。


「ライル」

セレスが静かに口を開く。

「いずれ、あなたも向き合わなくてはならないわ。エルンストだけじゃない……“因果の揺らぎ”とも」


その言葉は夜気よりも冷たく、けれど確かな重みを帯びていた。

「……因果の揺らぎ」

思わず繰り返すが、詳しい説明は返ってこない。


「今は知らなくていい。ただ――この村で生きていく限り、避けられないことよ」


彼女の横顔は真剣で、少し遠くを見ているように思えた。

俺は深く息を吸い込み、静かに答える。

「……分かった。逃げるつもりはない」


その言葉に、セレスはゆっくりと頷き、ランプを掲げて家の中へ戻っていった。

残された俺は、夜空を仰ぎながら小さく呟く。


「――守らなきゃな」


クロの寝息、セレスの言葉、そしてエルンストの琥珀の瞳。

それらが入り混じりながら、胸の奥に小さな決意が芽生えていた。


家の中に戻ると、暖かな灯りが迎えてくれる。

囲炉裏の火はまだ赤く、部屋には安心できる匂いが残っていた。

その空気に包まれながら、俺はゆっくりと横になり、目を閉じた。


外の星々は瞬き続け、夜は静かに更けていった。

けれど心の奥に宿ったざわめきと小さな誓いだけは、消えることなく灯り続けていた。


セレスの旧友・エルンストが姿を見せた話でした。

不穏さを漂わせつつも、決して敵ではなく、ライルを「観察」しようとする学者的な立場。

彼の存在が、後々の村での生活や物語にどう影響していくのか――。


一方で、セレスとライルの距離感は少しずつ近づいています。

安心とざわめき、両方を描きながら次回は「畑仕事の合間にちょっとした事件」が起きる予定。

ほんわかスローライフにスパイスを加えつつ、進めていきたいと思います。


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