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セレスの旧友、エルンスト

村の市場で目にした黒衣の人物――その正体が、ついに明らかになります。

セレスにとっては“旧友”であり、彼女の命を救ったこともある男・エルンスト。

不穏な影か、それとも信頼できる味方か……。

ライルにとって新たな人間関係の始まりとなる一話です。

朝の風が、昨夜の匂いを全部洗い流していくみたいに涼しかった。

鍬を入れるたび、湿った土が息をする。クロは畝の端で尻尾を振り、まだ背の低い芽をのぞき込んでは、怒られない程度に前足を引っ込める。市場で見た“黒い影”のことを、できれば土といっしょに埋めてしまいたかったけれど――体は正直だ。肩のどこかが、いつもより固い。


「……気にしてる顔ね」


セレスが背後から声をかける。麦茶の入った小さな水差しを差し出しながら、目だけで笑う。


「昨日の、あれだろ? 人混みの向こうで見てたやつ」


「ええ。たぶん、今日あたり来ると思ってた」


そう言って視線を森の縁へ滑らせた、そのときだった。

木立の影がひとつ、ひるがえる。深い黒のローブ。けれど、足取りは土を怖がらない。風に押し流されることもなく、まっすぐこちらへ。


クロが短く「わん」と鳴き、俺の足へ身を寄せた。思わず鍬を置く。

近づいてきた人物は、フードを指先で少しだけ上げた。灰銀の髪がひと筋、朝日に光る。琥珀色の瞳は、冷たさよりも透明さが勝っていた。


「……やっぱり、ここか。セレス」


落ち着いた低い声。敵意の棘はない。

セレスは肩の力を抜いた笑みを浮かべ、まるで隣家の客でも迎えるみたいに首を傾けた。


「久しぶりね、エルンスト」


名前を聞いた瞬間、胸のこわばりが、半歩だけ緩む。

彼は口元をわずかに上げて、俺へ視線を移した。


「そして――新しい顔。きみが噂の“弟子”か」


噂、という単語がヒヤリとする。けれど、刺すような興味ではない。温度を測るみたいに、静かな視線だ。俺は短く息を吸って、名乗った。


「ライルです。畑は、まだ見よう見まねだけど」


「礼儀正しいね。土の匂いが似合ってきた」


からかい半分、観察半分。そう受け取れる口調に、肩の強張りがさらに半歩ほどほどける。

セレスが俺の前に一歩出て、いつもの調子で紹介を添えた。


「彼はエルンスト。古い友人よ。少しばかり長生きで、少しばかり好奇心が強い学者。……でも、味方」


「“少しばかり”は過少評価だ」

エルンストは肩をすくめ、笑い皺を瞳の端に寄せた。「安心したまえ、若いの。私は挨拶に来ただけだ。君の鍬の振りも悪くない。背中で力を逃がしている」


思わず背すじを直すと、セレスが小さく咳払いする。

「畑の講評はあとで。まずは――お茶でもどう?」


「異論はない。君の淹れるものは季節の味がする」


クロが彼の足元を円を描くように回り、匂いを確かめてから、ぴたりと俺の左に戻る。エルンストはしゃがみ、指先を土につけた。


「いい土だ。去年まで眠っていたろうに、起きるのが早い。……君たちが丁寧に起こしたからだ」


褒められている、のだと思う。心のどこかがくすぐったい。

けれど同時に、昨日の冷たい視線の名残が、まだ胸の奥で小さく鳴っている。


セレスがさりげなく俺の肘をつついた。「行きましょう。家の中なら、風も穏やかだもの」


エルンストはローブの裾を払って立ち上がり、軽く会釈した。

「畑の話と、少しだけ昔話を。安心するといい、ライル。今日は肩の力を抜いて聞くだけでいい」


その言い方が、妙にうまい。

不安を完全には消さないまま、逃げ道を用意してくれる。学者らしい、話の始め方だ。


鍬を立てかけ、クロを呼ぶ。陽は少しずつ高くなり、畝の影が短くなっていく。

平穏な朝の続きに、ほんのひと匙だけ違う匂いが混ざった――そんな気配を連れて、俺たちは小さな家へ向かった。次にどんな話が出てくるのか、怖さと同じくらい、少しだけ楽しみでもありながら。


木の扉を押し開けると、外の涼しい風に混じって、薪の香ばしい匂いが室内へ流れ込んだ。

セレスがテーブルに木のカップを並べ、籠からハーブを取り出す。指先でちぎった葉が湯に触れると、ふわりと緑の香りが広がった。


「相変わらずだな。茶葉にまで季節の調子を読ませるとは」

椅子に腰を下ろしたエルンストは、深い息を吐いて目を細める。


「ただの趣味よ。あなたほど理屈っぽくはないわ」

セレスが微笑みながら返す。その声の奥に、昔から積み重ねてきた遠慮のなさがにじむ。


俺はというと、湯気にくすぐられながら、正面に座るエルンストを意識してしまう。黒衣は少しほころび、裾には土の色が染み込んでいた。怪しげに見えた外套の下に、案外「人間らしい旅の跡」があることに気づき、ほんの少し緊張がほどけた。


「……で、君はどうしてこの村へ?」

カップを口に運びながら、エルンストが不意に問いを投げる。琥珀色の瞳は穏やかだが、芯を覗き込むような深さがある。


「都会が……合わなかったんです。息が詰まるようで」

答えると、彼は小さく笑った。


「なるほど。なら、ここで土に触れるのは正しい選択だ。土は裏切らない。……人間よりはな」


わずかな皮肉が混じる。だが嫌な響きではなかった。

セレスが横から口を挟む。

「相変わらずね、エルンスト。人間嫌いの学者って言われたまま変わらない」


「嫌いじゃない。ただ観察対象にすぎないだけだ」

彼は肩をすくめ、カップを置いた。その横顔に、長い時間を生きてきた者だけが持つ疲れの色がかすかに浮かぶ。


沈黙を割るように、クロがテーブルの下から顔を出し、前足で俺の膝をつついた。

「わん!」


「……はは、クロは観察されるのが嫌みたいだな」

思わず笑うと、エルンストが珍しく声を立てて笑った。

「面白い犬だ。賢い目をしている」


空気がわずかに和らいだその瞬間、エルンストがふっと真顔になる。

「ただ――君がセレスの弟子だという事実。それだけで、この村に揺らぎが生まれる」


「揺らぎ……?」

聞き返すと、セレスが静かに首を振った。

「今はまだ、気にしなくていいわ」


彼女の声は優しかったが、その奥にかすかな張り詰めがあった。

エルンストはそれ以上説明しようとはせず、代わりにカップの底を見つめて微笑んだ。


「いずれ彼自身が知ることになる。それでいい」


その一言が、かえって胸の奥に小さな棘を残した。

けれど同時に、不思議と彼を完全に疑う気持ちも薄れていく。


――厄介だ。だが、本当に敵ではないのかもしれない。


外の光が差し込み、木の床に斑模様を描いていた。

エルンストの姿もまた、その光と影の境目に溶け込んでいるように見えた。


昼下がりの畑は、柔らかな陽に包まれていた。

耕したばかりの畝には小さな芽がちらほらと顔を出し、土の匂いと青草の香りが混じり合っている。クロがその間を駆け回り、時折鼻を土に突っ込んではくしゃみをしていた。


「ふふ、元気ね」

セレスが木の籠を片手に、畑の端に腰を下ろす。籠の中には新鮮なハーブや野菜が入っていて、どうやら昼食の準備をするらしい。


俺は鍬を脇に立てかけ、額の汗を拭った。

「……畑仕事って、終わりがないんだな」


「終わりがないからこそ、日々が積み重なるのよ」

セレスは土を撫でるように手をかざし、にこりと微笑んだ。


その穏やかな光景の中、エルンストが静かに姿を現した。

午前に別れたはずなのに、まるでどこかから見ていたかのように。


「……もう帰ったと思ったのに」

セレスの声には、少し呆れが混じる。


「研究者はしつこいものだろう?」

彼は肩をすくめ、畝の隙間にしゃがみ込んだ。手に取った土を指で転がし、じっと観察する。


「悪くない土だ。だが、まだ“揺らぎ”の匂いが残っている」


「揺らぎ……って、本当に何なんです?」

俺が口を挟むと、エルンストはちらりとこちらを見て薄く笑った。


「答えを急ぐな。揺らぎは、ある日突然目に見える形になる。――そういうものだ」


セレスが立ち上がり、籠を持ち直してこちらに歩み寄る。

「ライル。彼の言葉を真に受けすぎないように。……学者は何でも難しく語りたがるから」


「はは、手厳しいな」

エルンストが苦笑する。その顔はさっきまでの威厳をまとった学者ではなく、ただの旧友に見えた。


その時、クロが突然吠え、エルンストの足元に駆け寄った。

小さな体で立ちはだかるように前足を広げ、耳をぴんと立てている。


「……ほう」

エルンストはしゃがみ込み、クロの瞳をじっと覗き込む。

「良い犬だ。……魂の芯がぶれていない」


クロは一瞬たじろいだが、次の瞬間「わん!」と一声返した。

その声に、エルンストは愉快そうに笑った。

「なるほど。弟子も犬も、なかなか筋がいい」


「褒めてるのか、試されてるのか……」

俺は苦笑し、セレスは肩をすくめる。


「まぁ、どちらでもいいわ。お腹が空いているでしょう? 昼食にしましょう」

彼女が言うと、エルンストもあっさり立ち上がり、土を払った。


「食事か。ならば少し付き合おう。……千年魔女の料理など、滅多に味わえるものじゃない」


その軽い調子に、緊張感が少しだけほどけていった。

けれど心のどこかで、やはり彼の言葉が引っかかっていた。


――“揺らぎは、ある日突然目に見える形になる”。


俺は芽吹き始めた畝を見下ろしながら、静かに息を吐いた。


セレスの家の小さな台所には、煮込みの香ばしい匂いが漂っていた。

鍋の中では野菜と豆がぐつぐつと煮立ち、ハーブの香りが湯気と共に立ちのぼっている。

木のテーブルの上には黒パンとチーズ、そして朝摘みの果物が並べられ、思わず腹が鳴った。


「ほう……これはなかなか」

椅子に腰をかけたエルンストが、興味深そうに鍋を覗き込む。

「魔女というのは、もっと難解な薬草ばかり煮込んでいると思っていたが」


「ふふ、期待外れかしら?」

セレスは木の匙を取り上げ、ゆっくりと鍋をかき混ぜた。

「けれど、暮らしを支える料理は薬草よりもずっと大事。魔法よりも、人の心を満たすものだから」


その言葉に、エルンストはわずかに目を細める。

「……変わらんな。お前は昔から、そうして人の心を救おうとする」


「だから“千年魔女”なんて呼ばれる羽目になったのよ」

セレスは苦笑し、スープを器に盛り付ける。


俺とクロもテーブルに加わり、木の器を手に取った。

ひと口すすると、やわらかな甘みと香草の爽やかさが舌に広がり、心の奥まで温かくなる。

「……うまい」

自然と声が出ると、セレスが微笑んだ。


「魔女の弟子、か」

エルンストがパンをちぎりながら呟いた。

「なるほど、こうして食卓を囲めるほどに“人らしさ”を取り戻すとは……」


「人らしさ?」

思わず問い返すと、彼は俺をじっと見つめた。

「王都にいた頃のお前は、きっと息をするだけで精一杯だっただろう。だが、こうして食べ、笑い、犬と戯れる――それが生きる本来の姿だ」


胸の奥を射抜かれるような言葉に、返す言葉を失う。

確かに、王都にいた頃の自分は、生きていたというより「こなしていた」に過ぎなかった。


セレスが器を置き、静かに言った。

「エルンスト、弟子を怖がらせないで。彼はまだ始めたばかりなんだから」


「怖がらせているつもりはない」

エルンストは短く笑い、椅子にもたれた。

「むしろ……楽しみにしているんだよ。彼がどんな風に育つのかをな」


その声音は穏やかでありながら、どこか底知れぬ響きを帯びていた。

俺はクロの背を撫でながら、胸の奥のざわめきを押さえ込むように深呼吸をした。


――この人はいったい、どこまで知っているのだろう。


夕暮れが近づくと、村の空は茜色に染まり、家々の煙突からは夕餉の煙が立ちのぼった。

畑を抜ける風はひんやりと心地よく、クロがその中を駆け回って尻尾を振っている。


エルンストは立ち上がり、黒いローブを軽く払った。

「さて……長居は無用だな。私はまた、研究に戻るとしよう」


「研究って……」

俺は思わず問いかける。

「市場でも“因果の揺らぎ”って言っていたけど、あれは……?」


エルンストは足を止め、振り返った。

その琥珀の瞳は夕焼けの光を反射して、まるで火を宿しているようだった。


「若いのに耳がいいな。……そう、因果の揺らぎ。この地には、長い時の中で積み重なった“歪み”が残っている」

彼はゆっくりと指先を宙に滑らせる。すると、薄い光の粒が空気に揺らめいた。

「例えば、この風の流れ。表層は穏やかでも、深く潜れば必ず乱流がある。人の生も同じだ。穏やかな日常の奥に、歪みが潜んでいる」


俺は思わず息を呑んだ。

その一瞬だけ、空気が変わった気がした。村のざわめきが遠のき、足元の土がわずかに軋んだようにさえ感じた。


「やめなさい、エルンスト」

セレスが一歩前に出る。彼女の声は静かだが、確かな力を帯びていた。

「弟子を試すのは、まだ早いわ」


「……ふむ、そうかもしれん」

エルンストは光を払うように手を下ろし、ふっと笑った。

「だが、いずれは彼自身が向き合う時が来る。逃げられんことだ」


その言葉に、背筋がぞくりとした。

「……俺が?」


「そうだ。お前はすでに“流れ”の中に足を踏み入れた。セレスに拾われた時点でな」

エルンストは意味ありげに口の端を上げる。

「いずれ分かるさ――嫌でもな」


クロが「わん!」と吠え、緊張を裂くように飛びついてきた。

俺は思わずその体を抱き上げる。小さな温もりが、張り詰めた胸を少し和らげた。


「それじゃあ、また会おう」

ローブを翻し、エルンストはゆっくりと森の奥へ歩き出す。

その背中は夕闇に溶け、やがて完全に消えていった。


残されたのは、俺とセレスとクロだけ。

畑の匂いと焚き火の煙が混じる夕暮れの中、俺はただ立ち尽くしていた。


「……セレス、あれは一体……」

問いかけると、彼女は静かに首を振った。

「まだ話す時じゃない。けれど覚えておいて――彼は敵ではないわ」


その声音には、どこか哀しみのような響きがあった。

俺は言葉を飲み込み、沈む夕陽をただ見つめるしかなかった。


夜が訪れると、村はしんと静まり返った。

窓の外には満天の星が瞬き、畑の上を渡る夜風がさらさらと草を揺らしている。

囲炉裏にはまだ小さな火が残り、ぱちぱちと木の弾ける音が心地よい。


クロは膝の上で丸まり、温かな寝息を立てていた。

その小さな鼓動を感じながら、俺は昼間の出来事を反芻する。

黒衣の男――エルンスト。

彼の言葉は謎めいていて、不思議と心に残る。


「……俺、本当にやっていけるのかな」

思わず呟く。王都を逃げ出した自分に、あんな存在と向き合う力があるのか。


その時、背後からセレスの声がした。

「弱さを恐れる必要はないわ、ライル」


振り返ると、彼女は椅子に腰を下ろし、手元の本を閉じてこちらを見ていた。

銀の髪がランプの灯りを受け、柔らかく輝いている。


「あなたはまだ始まったばかり。芽吹いたばかりの種と同じよ。けれど、土を耕し、水を与え、陽を浴びれば……必ず根を張り、伸びていく」

セレスの琥珀色の瞳はまっすぐで、どこか千年の重みを湛えていた。


「……俺でも?」

問いかける声は震えていた。


彼女は微笑み、首を横に振る。

「あなたじゃなきゃ、ここまで来られなかった」


胸の奥がじんと温かくなる。

王都では居場所を見失っていた俺に、こうして言葉をかけてくれる人がいる。

それだけで、不思議と明日へ踏み出す勇気が湧いた。


「ありがとう、セレス」

俺はクロを抱き直し、小さく頭を下げた。


「ふふ、礼なんていらないわ」

セレスは軽く肩をすくめ、窓の外に目をやる。

「ただ、忘れないで。平穏な日々の裏に“揺らぎ”は潜んでいる。けれど……それを恐れるより、まずは土と食卓を大切にしましょう」


その言葉に、思わず笑みが漏れた。

彼女の言葉はいつも不思議だ。重みがあるのに、生活の中の温かさに結びついている。


クロが眠たげに「くぅん」と鳴き、再び小さな頭を俺の胸に埋めた。

外の夜空では、一際大きな星が瞬いている。


「……ここでなら、やり直せる」

呟いた言葉は、焚き火の赤に溶けて消えていった。


――千年魔女と過ごす日々。

その穏やかな一歩の裏で、確かに何かが動き始めていた。

セレスの旧友エルンストが初登場しました。

ただの不気味な影ではなく、彼女の過去を知る人物として位置づけています。

物語に厚みを出すため、敵味方どちらにも見える曖昧さを少し残しつつ、明確に“脅威ではない”と示しました。


今後はエルンストを通じて、セレスの過去や千年という時の重みを掘り下げていく予定です。

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