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朝のパンと小さな来訪者

「小さな絆」をテーマにしました。

人々との交流を通じて、ライルが少しずつ村に馴染んでいく様子を描いています。

そして最後に、クロの存在を通して“ここで生きていく温かさ”を感じられるようにしました。

朝靄がまだ薄く漂う村は、静かでいてどこか張り詰めた空気を纏っていた。

王都にいた頃なら、今ごろはまだ人々が寝ぼけ眼をこすり、石畳に露店の荷車が並びはじめる時間帯だ。けれど、この村では違う。朝日が顔をのぞかせるより早く、畑の道にはもう農具を担いだ人々が行き交っていた。


「……村は、朝が早いな」

ライルは思わず独り言を漏らす。まだ慣れない体を叱咤しつつ、昨夜セレスから借りた藁布を肩に掛け、畑へと歩を進めた。


土は夜露を吸ってひんやりとしており、鍬を差し込むとじわりと湿り気が伝わる。手の皮膚がじんわり冷たく染まり、思わず息を吐き出した。

王都の石畳では決して触れることのなかった感触。冷たいのに、なぜか胸の奥は温かかった。


「いいわね、その調子」

背後からふわりと声がして振り返る。

そこには、長い銀髪を軽く束ね、両腕に籠を提げたセレスが立っていた。彼女が近づくと、風に乗って香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


「それは……?」

「村のパン屋から分けてもらったの。焼きたてよ。あなたも一緒に朝ごはんにしましょう」


セレスは芝生に布を広げ、籠の中身を並べていく。丸いパンがいくつも転がり、まだ白い湯気が立ち上っていた。胡麻の香りがあたりに満ち、ライルの腹が情けなく鳴る。


「……はは」

照れ笑いを浮かべて鍬を置き、セレスの隣に腰を下ろす。パンをひとつ手に取ると、表面は香ばしく、中はふんわり柔らかい。噛んだ瞬間に麦の甘みが広がり、思わず目を細めた。


「どう? この村のパン」

「……美味しい。王都のどの店より素朴で、なのに豊かだ」

素直に口にすると、セレスは目を細めて微笑んだ。


その時だった。

草むらから、かすかな物音。次の瞬間、小さな影が飛び出してきた。


「っ……!」

ライルが思わず身構えると、それは痩せた子犬だった。毛並みは煤のように黒く、細い足でおずおずと近づいてくる。瞳は怯えているのに、鼻はひくひくと動き、籠から漂うパンの香りに釘付けになっていた。


「まぁ……」

セレスが驚いたように息を呑む。

ライルはしばらく迷ったあと、手にしていたパンを少しだけちぎり、草の上に置いた。


「大丈夫だよ、ほら」

声を低く落として囁く。


子犬はしばらくその場で固まっていたが、やがて一歩だけ踏み出す。

けれどすぐに後ずさり、また鼻先を近づける。小さな体が震えているのが分かる。


「……お腹が空いてるんだ」

ライルはもうひと口分をちぎり、地面に置く。


子犬はためらいながらも、ようやく舌を伸ばしてぺろりと舐めた。次の瞬間、ぱくりと咥え、尻尾を振り始める。小さな尻尾は、ちぎれそうなほど必死に揺れていた。


「ふふっ、懐かれてるわね」

セレスが微笑む。ライルは照れ隠しに視線を逸らしたが、胸の奥はじんわりと温まっていた。


そこへ、畑の道の向こうから声が響く。

「おーい! そこの坊主!」


振り向けば、麦藁帽子をかぶった年配の農夫がこちらに駆け寄ってきていた。

「その犬、村の厄介者なんだ。畑を荒らして困っててな」


農夫の声は厳しかったが、ライルの足元にちょこんと座る子犬は尻尾をぶんぶん振っている。まるで「ここが居場所だ」と言わんばかりに。


「でも……こいつ、悪さするようには見えません」

ライルの口から思わず言葉がこぼれた。


農夫は目を丸くしたが、隣に立つセレスが口を添える。

「この子は、きっとお腹が空いていただけ。放ってはおけないわ」


農夫は腕を組んで唸り、やがて深いため息をついた。

「……セレス様がそう言うなら、俺がとやかくは言えん。だがな、世話をするのは簡単じゃないぞ」


ライルは子犬の頭に手を伸ばした。恐る恐る嗅いでから、小さな舌でぺろりと手を舐める。

「……俺が面倒を見ます」


その瞬間、子犬の瞳がきらりと光り、さらに尻尾を激しく振った。


セレスは柔らかく笑い、ライルの背を押した。

「なら、名前をつけてあげましょう」


ライルは腕の中の黒い毛並みを見下ろし、しばらく考え込む。

「……“クロ”。毛並みが黒くて、夜みたいに落ち着いてるから」


「ワン!」

まるで賛成するかのように子犬が鳴く。


セレスはくすりと笑った。

「気に入ったみたいね」


農夫も少し表情を和らげ、頷く。

「ならいいだろう。クロとやら……村を荒らさないようにしろよ」


子犬――クロはもう一度短く吠え、空気が少しだけ和らいだ。


クロと名付けられた子犬は、ライルの手を恐る恐る嗅いだあと、小さな舌でぺろりと舐めた。

「……くすぐったいな」

思わず笑うと、クロは安心したように胸元へと飛び込んでくる。小さな体の鼓動が伝わり、抱き締める腕の中に確かな温もりがあった。


「ふふっ、もうすっかり懐いてしまったわね」

セレスが口元に手を当て、楽しげに笑う。その目は柔らかく、長い年月を生きてきた魔女という存在を忘れさせるほど親しみやすかった。


「せっかくだし、名前をつけてあげたら?」

促されて、ライルは改めて腕の中の子犬を見下ろす。澄んだ瞳がまっすぐに自分を映し、きらきらと輝いていた。

「……そうだな。じゃあ、“クロ”でどうだ?」


「クロ?」

「うん。毛並みが黒いし、夜みたいに落ち着いてるだろ」


言葉にした瞬間、子犬は尻尾を勢いよく振り、「ワン!」と鳴いた。

その声は、まるで「気に入った」と答えているようで、ライルは思わず頬を緩めた。


「気に入ったみたいね」

セレスが目を細め、満足げに微笑む。


そこへ、先ほどの農夫が再び腕を組んで現れた。

「……坊主、その犬を本当に飼うのか?」

「はい。俺が責任を持って育てます」


真剣な眼差しに、農夫はしばし無言で見つめ、やがてゆっくりと頷いた。

「ならいいだろう。ただし、クロとやら……村を荒らしたら許さんぞ」


クロは小さく吠えて応える。その声に、場の空気が少し和らいだ。



夕暮れが近づき、畑の仕事を終えたライルはクロを連れて小屋へ戻った。

「今日は疲れただろ。まずは腹ごしらえだな」


焚き火の上で煮込んでいた野菜スープの香りが、土間にふわりと広がる。クロは鼻をひくひくさせ、尻尾をぶんぶん振り回している。


「お前も腹ペコだろ?」

ライルは鍋から取り分けた野菜の切れ端を皿に入れてやった。クロは夢中で食べ始め、まだ小さい体を一生懸命に揺らしながら皿を舐めている。


「……なんだか、俺も負けてられないな」

その無心な姿を見ていると、不思議と勇気が湧いてくる。


セレスは椅子に腰掛けてその様子を見つめ、柔らかな笑みを浮かべていた。

「ライル、いい顔をしているわ。前より少し柔らかくなったみたい」

「そうかな……? クロのおかげかもな」


その時、戸口から子供たちの声が飛び込んできた。

「わぁ! 犬だ!」

「かわいいー!」


村の子供たちが顔を覗かせると、クロは最初こそ警戒したが、すぐに尻尾を振り、ぴょんぴょん跳ねて応えた。


「坊ちゃん、すごいな。犬まで味方につけるなんて!」

ひとりの子供が感心したように言う。


「味方っていうより……仲間かな」

ライルが照れながら答えると、子供たちは声を上げて笑った。


セレスはそのやり取りを静かに見守っていた。焚き火の明かりに照らされた横顔は、どこか誇らしげで、それでいて優しかった。



夜が更け、村を包むのは虫の声と森のざわめきだけになった。

ライルは囲炉裏の前に腰を下ろし、クロを膝にのせて毛並みを撫でていた。小さな体はすでに眠気に負けており、心地よさそうに喉を鳴らしている。


「すっかり懐かれたわね」

セレスが茶を淹れて差し出す。湯気とともに香ばしい香りが広がり、ライルは受け取ってほっと息をついた。


「こんなに無防備に寄り添ってくるなんて……人間よりよっぽど素直かもな」

「でもね、ライル。動物は本能で見抜くの。危うい人には決して懐かない」


その言葉にライルは不安げに視線を落とした。

「危うい、か……俺は大丈夫なのかな」


セレスは焔に照らされた瞳でじっと彼を見つめる。

「大丈夫。あなたは“守ろう”とする人だから。だからクロも、私も、ここにいるの」


ライルは小さく息を呑み、視線を伏せる。胸の奥にじんわりと広がる温かさと同時に、自分がまだ弱いことを痛感した。

「……強くならなきゃな」


クロの寝息が、その小さな決意を肯定するように響いていた。


外の風は冷たかったが、囲炉裏の灯りの中には、確かな温もりがあった。


囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、赤い火の粉が時おり宙に舞った。

ライルは茶を飲み干し、深く息をついた。外の冷気が戸の隙間から流れ込み、微かに肌を撫でるが、部屋の中は焔の温もりに守られている。


クロはすっかり眠り込んでおり、丸まった体をライルの膝の上で小さく上下させている。あまりに無防備な寝顔に、思わず頬が緩んだ。

「……安心しきってるな」

ぽつりと呟いた言葉は、眠る子犬には届かない。それでも胸の奥が温かくなる。


「犬はね、嘘をつかないのよ」

セレスの声が隣から落ちてきた。椅子に腰掛けた彼女は、茶器を両手で包み、炎の向こうに視線を投げている。

「人の言葉や仕草に惑わされることなく、そのまま“心”を見るの」


「だからクロは、俺のことを信じて寄ってきた……ってことか?」

「ええ。あなたが“守る側”の人間だから」


焔の光に照らされたセレスの瞳は、琥珀の石を思わせる輝きを帯びていた。千年を生きてきたという言葉が不思議と真実味を持ち、その眼差しの奥に幾多の別れや出会いが積み重なっていることを感じさせた。


ライルは少し視線を逸らし、クロの柔らかな毛並みに指を滑らせる。

「俺なんか、守られるばかりの人間だよ。王都じゃ逃げることしかできなかった」

「逃げたからこそ、ここに来たのでしょう?」

セレスの声音は優しくも、鋭さを帯びていた。

「“逃げる”は恥じゃないわ。生き延びるための選択。……その先で守るものを見つければいい」


その言葉に、ライルは胸の奥を突かれる。

守るもの――。それは、膝の上で寝息を立てる小さな命かもしれない。あるいは、目の前で茶を飲む魔女の微笑みかもしれない。


「……ありがとう、セレス」

小さく口にした言葉は、焔に溶けるように消えていった。



夜も更け、囲炉裏の火を小さくすると、部屋に静寂が降りた。

ライルはクロを抱きかかえて寝台へ運び、毛布の端を軽くかけてやる。子犬は寝ぼけ眼で「くぅん」と鳴き、再び丸まって眠り込んだ。


寝台の隣に横たわりながら、ライルは天井を見上げる。木材の節が月明かりに浮かび、どこか安心感を与えてくれる。王都の石造りの冷たい天井とはまるで違う。


「……なんでだろうな。こんなに静かなのに、不安じゃない」

独り言に近い声が漏れる。


すると、窓の外から虫の声が微かに重なった。規則正しいリズムが、子守歌のように耳を撫でる。


やがて扉のきしむ音がして、セレスが小さなランプを手に入ってきた。

「眠れないの?」

「いや……むしろ、眠れそうだ」

ライルは苦笑し、頭をかく。


セレスは寝台の端に腰を下ろし、クロの寝顔を覗き込んだ。

「……いい子ね。もう、あなたの家族よ」

その言葉に、ライルの胸がじんと熱くなる。


「家族、か」

今までそんな言葉を自分に向けられたことはなかった。王都で過ごした日々は、競い合いと冷たい関係ばかり。

それが今、膝の上に眠る小さな命と、この魔女の言葉で塗り替えられていく。


セレスは静かに立ち上がり、ランプを机に置いた。

「おやすみなさい、ライル。明日も畑が待っているわ」

「……ああ、おやすみ」


彼女が部屋を出て行くと、残されたランプの明かりがゆらゆらと壁に影を描いた。

その柔らかな光を見つめながら、ライルのまぶたは次第に重くなっていく。


クロの穏やかな寝息と、森の虫の音が混じり合う夜。

王都では決して味わえなかった安らぎに包まれながら、ライルは静かに眠りへと沈んでいった。


翌朝、夜露に濡れた畑はひんやりとした匂いを放っていた。

ライルは鍬を肩にかけて畝に立つ。背後ではクロが小さくあくびをしながら、彼の足元をついて回っていた。


「お前も手伝うつもりか?」

冗談めかして言うと、クロは「ワン!」と鳴いて、まるで返事をするように尻尾を振る。


「ふふ、頼もしい相棒ができたわね」

振り返ると、セレスがバスケットを抱えて立っていた。中には布に包まれたパンや野菜がのぞいている。朝の光を受けるその姿は、昨日の柔らかな魔女の面影と、どこか母性的な温かさを同時にまとっていた。


「……相棒か。畑仕事ができる犬なら助かるけどな」

ライルが笑うと、クロは鼻を土に押し付けて、せわしなく掘り返し始めた。


「おいおい、掘るのはそこじゃない!」

慌てて手を伸ばすと、セレスが口元に手を当てて笑った。

「でも見て。土が柔らかくなって、石も顔を出してるわ」


確かに、クロが掘り返した場所には小石がいくつも転がっている。

「……意外と役立ってる?」

「動物の勘は侮れないのよ。人の目より確かだったりするもの」


ライルは鍬を握り直し、クロが掘った土をならして畝を整えた。犬と人と魔女――三つの影が並ぶ畑の光景は、どこか不思議で温かかった。



昼前、太陽が高くなり、汗が背中を流れ始めたころ。

「ライル、ちょっと休憩にしましょう」

セレスの声に鍬を止めると、クロが尻尾を振りながら先に芝生へ駆け出していった。


布を広げて座ると、バスケットから黒パンと熟したトマトが取り出された。パンは外が香ばしく、中はしっとり。トマトは赤く透き通り、指で裂くだけで果汁があふれ出した。


「わ、甘い!」

ひと口かじった瞬間、ライルの目が見開かれる。王都で口にした酸っぱいトマトとは別物だった。

「だろう?」とセレスが笑う。「畑が教えてくれるのよ、どう育てればいいかを」


クロも隣でパンの切れ端をもらい、夢中でかじっていた。

その小さな喉の動きを見ていると、不思議と胸の奥に熱いものが広がる。


「……俺、ここで生きられるかもしれない」

ぽつりと漏らした言葉に、セレスは真剣な眼差しで頷いた。

「ええ。あなたはもう、土に触れ、命と共にある。――それは王都で失いかけていたものよ」


ライルはその言葉を胸に刻み、深く息を吐いた。

畑の匂い、パンの温もり、クロの存在。すべてが自分を「生き返らせている」気がした。



午後、再び畑に戻ると、クロが畝の端で何かに向かって吠えていた。

「どうした?」と駆け寄ると、草むらの中からウサギが飛び出す。


「まさか……畑を荒らしに?」

ライルが驚くと、クロは必死に吠えて追い払おうとする。小さな体を目いっぱい大きく見せるようにして。


やがてウサギは森の奥へ逃げていき、クロは誇らしげに胸を張った。

「……すごいじゃないか」

ライルはしゃがみ込み、クロの頭をなでた。小さな命が、自分と同じように畑を守ろうとしている――その事実に、胸がじんと熱くなった。


「これで正式に“畑の仲間入り”ね」

セレスが微笑み、クロの首に細い革紐で編んだ簡素な首輪を結んでやった。

「よし、これでお前は立派な村の一員だ」

ライルの声に、クロは嬉しそうに吠えた。



夕暮れが近づき、空が茜色に染まる頃。

畑の上には、今日一日分の汗と土の匂いが満ちていた。


ライルはクロを抱き上げ、セレスと並んで畦道を歩く。

西日に照らされる二人と一匹の影は長く伸び、まるで新しい家族のように寄り添っていた。


「……悪くない一日だったな」

「ふふ、そうね」

セレスの笑顔は、どこか遠い過去を知っていながらも、今この瞬間を大切にしている温かさに満ちていた。


ライルは胸の奥に湧き上がる充実感を抱きしめながら、心の中で小さく呟いた。

――ここでなら、きっと生き直せる。


その言葉を肯定するかのように、クロが元気よく「ワン!」と吠え、夕暮れの村に響いた。


夕暮れの村は、橙色の光に包まれていた。

家々の煙突からは白い煙がのぼり、夕餉の匂いが風に混じって流れてくる。焼いた肉の香り、煮込んだスープの湯気、香草を刻む爽やかな香り……。王都のざらついた空気には決して混ざらなかった温もりのある匂いだ。


ライルはクロを抱き、セレスと並んで畦道を歩いていた。小さな黒い影は安心しきったように腕の中で丸まり、耳をぴくぴくさせている。


「ライル!」

ふいに声をかけられ、振り返ると昼間会った農夫が麦藁帽子を脱ぎながら近づいてきた。

「その犬、本当に連れて帰るのか?」


「はい。俺が世話をします」

ライルが真剣に答えると、農夫は眉をしかめた。

「坊主、犬の世話は人間の子どもより大変なこともある。食い扶持も増えるし、病気にだってなる」


厳しい言葉だった。だがクロがライルの胸元で「くぅん」と小さく鳴いた瞬間、その瞳に宿る必死な光を見て、農夫は目を細めた。


「……まぁ、好きにするがいい。責任を持って育てろよ」

そう言って農夫は背を向け、肩越しにぽつりと続けた。

「村に来て間もないあんたが、ここまで真っ直ぐに言うとは思わなかった。――悪い気はしねぇ」


その背中が去っていくのを見届けて、ライルは深く息を吐いた。

「……なんだか試されてるみたいだ」

「ふふ、あなた自身を見ているのよ。村の人たちは」

セレスは微笑み、クロの頭を撫でてやった。



村の子どもたちがいつの間にか集まってきて、クロを見て歓声を上げた。

「わぁ、犬だ!」

「名前は? 名前はなんていうの?」


「クロだよ」

ライルが答えると、子どもたちは口々に「クロー!」「かわいい!」と呼びかけ、次々と小さな手を差し出す。クロは最初少し警戒していたが、すぐに尻尾をぶんぶん振って子どもたちの足元を駆け回った。


「すっかり人気者ね」

セレスの声音はどこか誇らしげだった。

ライルは苦笑しながらも、胸の奥が温かくなる。

王都では誰にも名前を呼ばれず、ただ「兵士見習い」や「雑用」として扱われていた。だが今、この村では「ライル」と呼ばれ、クロと共に笑いの輪の中にいる。



やがて村人の一人が、手にした籠を差し出してきた。

「パンが余ってるんだ。犬と一緒に食べな」

別の家の女将は、瓶に詰めた牛乳を渡してくれた。

「小さな子には栄養がいるわ。犬だって同じよ」


思わぬ厚意に、ライルは言葉を失った。

「……こんなにしてもらって、いいのか?」

「村はみんなで支え合うものだから」

そう笑う村人の言葉に、胸の奥で何かがほどけていく。


セレスは横で静かに頷き、彼の背を軽く押した。

「ね、ライル。ここではあなたももう“誰か”なのよ」



日が完全に沈むころ、家に戻った。

囲炉裏には既に火がくべられ、セレスが用意していた鍋の中で野菜スープがくつくつと音を立てている。

ライルはクロを床に降ろし、もらったパンを切って皿に並べた。


「クロ、お前の分もあるぞ」

皿に分けた切れ端を置くと、クロは夢中でかじり始めた。

その姿にライルは笑い、思わずつぶやく。

「……家族、って感じだな」


セレスは木椀にスープをよそいながら、ふっと目を細めた。

「いい響きね。家族……。この小さな家に、そういう温もりがあるなんて」


二人と一匹は囲炉裏を囲み、簡素な夕食を分け合った。

スープの温かさが喉を通り、体の奥からじんわりと広がっていく。

窓の外では虫の声が響き、夜の気配が村を包み込む。


「なぁ、セレス」

食後の椀を置き、ライルはぽつりと口を開いた。

「……俺、ここでならやっていけるかもしれない」


彼の視線は、スープを食べ終えて丸くなったクロと、静かに微笑む魔女へと向いていた。

セレスは一瞬だけ目を伏せ、やがて穏やかに頷いた。

「ええ。あなたはもう、この場所に根を下ろしている。――土も、犬も、そして私も、それを望んでいるから」


その言葉に、ライルは深く頷いた。

胸の奥で、ようやく自分の居場所を見つけつつある実感が、静かに広がっていった。


夜の村は、しんと静まり返っていた。

虫の声と、遠くで犬が吠える声だけが闇の中に響いている。

小さな家の窓からは、囲炉裏の赤い火がまだかすかに漏れていた。


ライルは粗末な寝台に横たわり、クロを腕枕にして眠っていた。

子犬は小さな寝息を立てながら胸にぴたりと身を寄せ、黒い毛並みがぬくもりを放っている。

その顔は安心しきっていて、まるでここが「生まれた家」だと言わんばかりだった。


セレスはそっと椅子に腰を下ろし、眠る二人を見つめていた。

月明かりが窓から差し込み、銀の髪を淡く照らす。


「……人の子は、本当に早いわね」

静かに吐き出された言葉は、夜風に溶けていった。


たった数日前まで、この青年は王都の影に押し潰されそうだった。

何も持たず、ただ逃げるようにここへ来たはずなのに――今は犬と共に眠り、土に根を下ろそうとしている。

生き直すという言葉は、口にするのは簡単だが、実際に成し遂げるのは難しい。

けれどこの青年は、もう歩き出している。


セレスは膝の上で指を組み、琥珀の瞳を伏せた。

「……だけど」

そこに影が差す。


彼女は千年を超える歳月を生きてきた。

無数の芽吹きを見届け、無数の命を見送り、幾度も同じ流れを繰り返してきた。

畑を耕す青年も、犬を連れた少年も、笑い声を響かせる家族も――すべて季節と共に消えていった。


「また……同じことを、繰り返すのかしら」

囁きは、炎の残り火がぱちりと弾ける音にかき消された。


ライルの寝顔は、穏やかで、あまりにも無防備だった。

その無防備さに、胸がわずかに痛む。

人の子は脆い。だからこそ、まぶしい。

その光を知っているから、セレスは離れることができないのだ。


クロが寝返りを打ち、ライルの顎に鼻先を押しつけた。

「……ふふっ」

セレスは思わず笑みを漏らす。

ほんの一瞬だけ、その笑みは「千年の魔女」ではなく、ただの隣人のものだった。


彼女は立ち上がり、窓を少し開けて夜気を吸い込む。

森の奥から冷たい風が吹き、星々のきらめきを運んでくる。

その星は千年前も、同じように瞬いていた。

そして、千年後も――きっと。


「……どうか、あなたは違う未来を見せて」

月に囁くように言葉を落とす。


彼女は窓を閉じ、振り返る。

ライルとクロの寝息が重なり、家の中は温かな調和に満ちていた。

それは、セレスが幾度も願い、そして失ってきた光景。


だが今度は――。

琥珀の瞳に、わずかな決意が灯る。


「……おやすみなさい、ライル。クロ」


その声は静かで、けれど確かに未来への願いを含んでいた。


夜空の星は変わらず瞬き、小さな家を見守っている。

やがてセレスも椅子に身を預け、瞼を閉じた。

魔女にとってはほんの一夜でも、人の子にとっては大切な一日。

その違いを抱きしめながら、彼女は静かに眠りへと沈んでいった。


セレスやクロとの距離が少し縮まった第5話でした。

大きな事件はなくても、こうした小さな積み重ねが、後々の物語で大切な意味を持つはずです。

次回は、村の外でちょっとしたハプニングに巻き込まれる予定。

ほんわかしつつも、少しスパイスを加えていきたいと思います。

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