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畑に芽吹く、小さな緑

王都から離れ、ようやく村での生活をスタートさせたライル。

初めての畑仕事に汗を流し、セレスのさりげない助言や笑顔に支えられながら、少しずつ“ここで生きる”実感を掴んでいきます。

今回は「畑仕事」「村人との交流」、そして「星空の下での静かな会話」を通して、スローライフの第一歩を描きました。

朝はいちばんやわらかい色をしていた。

小さな家の窓から、白い光がすべり込み、床板の傷を一本ずつなぞっていく。開け放った窓の向こうでは、畦道の露が丸粒のまま葉先に残り、指で触れる前に陽の温度で音もなく消えていった。鳥は二種類、近くの棘木で高く鳴く小さなやつと、森の奥から低く返す大きなやつ。二つの声が重なると、村の朝は合図みたいに動き出す。


息を吸うと、湿った土と若い草の匂いが肺の奥に落ちる。王都の朝に混じっていた煤の苦さはここにはなくて、かわりに薪のけむりが薄く残っていた。胸のどこか、きのう疲れに変わった重さが、冷たい空気に押し流される。


「……よし、行こう」


寝台から降りた足裏が板の冷たさにすこし身を縮める。上着を引っかけ、鍬を肩にかけると、柄の滑らかさが手のひらにしっとり馴染んだ。外に出れば、畑は薄い霧のベールをまとっている。耕したばかりの畝が黒い肋骨みたいに並び、その間に夜露がたまって細い川をつくっていた。


「おはよう、ライル」


背中にやわらかい声が触れて、振り返る。セレスが薄手の外套を羽織って立っていた。銀の髪はまだ梳かれる前の柔らかさで肩に落ち、朝の光を受けて、一本一本が細い糸みたいに透ける。歩み寄るたび、外套の裾が草を撫で、露が小さな鈴の音みたいに震えた。


「早いな、魔女は夜更かしのはずじゃなかったか」

「夜の話し相手は星よ。彼らは早起きが得意なの」


肩を並べて畝の端にしゃがむ。セレスは土をひとつまみ指に挟み、親指で軽くこする。湿り具合、粒の細かさ、匂い――彼女の指先は、まるで文字を読むみたいに確かだった。


「昨日の種、気に入ってもらえたみたい。土が静かにふくらんでる」

「土が“ふくらむ”?」

「ええ。芽が上がる直前の手触り。ほら、ここ」


促されて目を近づけると、たしかに土の表面が小さく盛り上がっている場所があった。指先で触れるのが怖くなるほど、かすかな、でも確かな起伏。


「……ほんとだ」


喉の奥から勝手に声が出る。昨日、種を落として土を寄せた自分の手の動きが、そこに残っている。自分の手が、今から顔を出そうとする小さな命の、最初の手助けをしたのだと思うと、胸の中央がじんわり熱くなる。


「芽が出たら、最初の水やりは手桶でね。壺からじゃ強すぎるから」

「わかった。……なぁセレス」

「なに?」

「芽が開いたら、“芽吹き祝い”をしないか?」

「もちろん」


笑うと、彼女の瞳の色が朝の空の色を少しだけ帯びる。

「野菜の端っこと、森の野草をすこし。塩は昨日の残りがあるわ。あなたの鍋で、あなたの火で。――今日はそれがいい」


鍬を振り上げる。刃先が黒い土にまっすぐ入って、湿りを含んだ重みが腕へ伝わる。土の匂いはさっきより強く、刃を引き上げると、細い根がぱらぱらとほどけた。耳の奥で、鳥の声に混じって小さな音が聞こえる。土が崩れる音。呼吸と鍬のリズムが噛み合うと、体のきしみは音楽みたいにいつの間にか快いものに変わっていた。


「力は半分で。土の目を読むのよ」

「土の目、か」


セレスの言葉を真似て、視線で畝の流れを辿る。日が射す向き、昨夜の露の溜まり、風の通り道。鍬先が自然に滑ったとき、土の表面に薄く光る水が上がった。彼女が小さく指を鳴らす。


「いいわね。今日は昼の茶に、身体をあたためるブレンドを用意する。ローズヒップ少し、セイジをひとつまみ、あとは秘密」

「秘密は多い方が魔女らしい」


「そうね。でも味は正直よ」


彼女は立ち上がり、家の方を指で示す。

「鍋と匙を、陽に当てておいて。今日は“芽吹き祝いスープ”。千年スープほどの厚みはないけれど、約束の味にしてあげる」


千年スープ。セレスが冗談みたいに言う、何を入れても不思議と旨くなるという古い鍋の話。たぶん話の半分は本当で、半分は彼女の長い時間が作った魔法なのだろう。そんなことを思いながら、俺は鍬を置き、桶に水を汲む。木と水が触れ合う鈍い音が、朝の空気に丸く響いた。


畑の端、露の粒がまだ残るミントを一枝、指でしごいて香りを嗅ぐ。鼻孔の奥がすっと清くなる。小屋の戸口に鍋と匙を並べ、陽に温める。木の匙は日に匂いを増して、指に触れるたび、なぜだか落ち着く。


ふと背中で気配が動いた。振り返ると、畝の一点、土のふくらみがふるっと震え――薄い茶色の皮がぱかりと割れ、小さな緑が顔を出した。指先ほどの双葉。湿った土の薄皮にまだ縁どられ、陽を探すみたいにかすかに揺れている。


「おはよう」


思わず声に出していた。誰にともなく、でも確かに誰かに。胸の奥で、固まっていた何かがほどける。王都の朝にはなかった“ゆっくり”が、この村の時間にはある。鍋の金属が温まり、ぱち、と小さく鳴いた。スープの匂いはまだない。それでももう、口の中には温かい味がしていた。


昼前の空は、まだ白い絹のような薄雲をまとっていた。

鍬を置き、肩で息をしながら見上げると、雲の切れ間からこぼれる陽射しが畑の端を斑に照らす。汗で額に張りついた髪を手の甲で拭い、ライルは腰を伸ばした。土に膝をついていたせいで、ズボンの布は茶色く染まっている。だが不思議と嫌じゃなかった。煤や泥にまみれても、王都ではただの汚れだった。でもここでは、今日の仕事を確かに刻んだ印に見える。


「……思ったより、体力使うな」


吐き出す声は笑みを含んでいた。ふと視線を落とせば、朝に顔を出したばかりの芽が、すでに陽を浴びてわずかに伸びている。ほんの数ミリの違いなのに、自分の労力に応えてくれたようで、胸の奥にじんとした熱が広がった。


「ライル」


家の方からセレスの声がした。

振り返ると、腕に籠を抱えた彼女がこちらへ歩いてくる。籠の中には昨日の残り野菜と香草、そして白布に包まれた丸いパンが見えた。長い髪はいつの間にか編み直され、背筋の伸びた姿に影が寄り添う。


「そろそろ休憩にしましょう。お腹も鳴っているでしょう?」


言われた途端、腹の奥がぐうと訴えた。ライルは思わず耳まで赤くし、視線をそらした。


「……図星だな」


セレスは口元を緩め、井戸端の方へ足を向けた。井戸の傍らには、粗末ながら平たい石を積んだ台がある。そこに籠を下ろし、布を広げると、色とりどりの野菜とパンが朝の光を浴びて輝いた。玉ねぎの白、トマトの赤、香草の緑。それだけで十分に祝祭の膳のように思えた。


「芽吹き祝いね。昨日の残りでも、心を込めれば立派なご馳走よ」


セレスが手際よく鍋を据え、火を熾す。枯れ枝に火打石を当てると、小さな火花が生まれ、息を吹き込むたびに赤が大きくなる。やがて炎がぱちぱちと音を立て、鍋底を舐めるように広がった。立ち上る煙は杉の香りをまとい、鼻孔を心地よくくすぐる。


ライルは水桶を抱え、鍋に注いだ。冷たい水が底に当たり、澄んだ音を立てる。炎に照らされて波紋が揺れ、鍋の内側に金の光を踊らせた。


「火加減に気をつけてね。強すぎると苦みが出るわ」


セレスが野菜を刻む。包丁の音が規則正しく響き、玉ねぎの匂いが涙腺を刺激する。彼女は動じることなく、滑らかに刃を動かす。その所作は料理というよりも儀式に近かった。刻んだ野菜が次々と鍋に落ちると、水面が軽やかに弾み、すぐに彩りを帯びていく。


「俺もやるよ」


ライルは隣に立ち、じゃがいもを手に取る。慣れない手つきで皮を剥くと、薄くなったり厚くなったり、形はまちまちだった。それでもなんとか切り揃え、鍋に放り込む。


「ふふ、形は不格好でも、味は変わらないわ。むしろ努力の分、温かみが増すのよ」


セレスがからかうように笑い、香草を摘んで鍋に散らした。すると、湯気が一気に華やかに変わる。ミントの清涼感とローズマリーの香ばしさが鼻を抜け、胃の奥が自然に反応した。


「いい匂いだな……」


ライルの呟きに、セレスが満足げに頷く。

「芽吹きの祝いには、こうして土の恵みを分かち合うのが一番。魔法より確かな力よ」


鍋がぐつぐつと音を立て始め、黄金色のスープが表面に踊る。セレスは木の匙でひとすくいし、口に含むと小さく頷いた。


「うん、いい味。ほら、あなたも」


匙を渡され、ライルは恐る恐る口に運ぶ。熱さに舌を焦がしそうになりながらも、野菜の甘みと香草の苦みが調和した滋味が広がった。喉を通ると同時に、体の芯まで温かさが満ちていく。


「……うまい」


心から出た言葉だった。セレスはその様子に目を細め、火のはぜる音を聞きながら穏やかに笑った。


「芽吹きは未来の約束。小さな一歩でも、続ければ大きな収穫になる。ライル、あなたの暮らしも同じよ」


彼女の言葉が、煙に溶けて空へと昇っていく。

ライルは黙って頷き、再びスープを口にした。湯気が視界を曇らせ、炎が揺れる。その曖昧な境目の中で、彼の胸には確かな温もりが灯っていた。


──芽吹きの祝宴は、小さな畑と小さな家を、確かに「暮らし」へと変えていた。


昼食を終えた台所には、ほんのりと野菜と香草の余韻が漂っていた。

器を片づけて水桶に運ぶと、朝に比べて陽射しは強さを増している。窓辺の布を揺らす風はやや乾いていて、遠くで小川がきらきらと光を反射していた。


ライルは木の器を水に沈め、布で丁寧に擦った。指先に残る土の感触と野菜の繊維。王都にいたころは「ただの雑務」として嫌っていたはずの作業が、なぜか今は心を落ち着けてくれる。


「都会の人間にしては、器用に洗うのね」

振り返れば、セレスが肩越しに覗きこんでいた。彼女は椅子に腰かけ、細い指先で編みかけの布を撫でている。その姿は穏やかで、まるで昼下がりの陽だまりの一部のようだった。


「器用っていうか……丁寧にしないと怒られるの、王都では当たり前だったからな」

「ふふ、なるほど。命じられて動くのと、自分で進んでやるのとでは違うでしょう?」

セレスの声は柔らかいが、その瞳には揺るぎない光が宿っていた。ライルは言葉を探しながら、器を拭いて棚に並べた。


桶の水に手を入れると、朝よりも冷たさが骨身にしみた。思わず肩をすくめると、セレスがくすりと笑う。

「都会育ちにはまだ辛いかしら?」

「まあな……。夏はいいけど、冬になったら凍えるんじゃないかって考えるだけで怖い」


彼の言葉に、セレスはそっと桶へ指先を触れた。

次の瞬間、水面が淡く光を帯び、まるで春の日差しを落としたようにじんわりと温かくなった。驚いて両手を沈めると、心地よいぬくもりが掌から腕へ広がる。


「……魔法、か」

「ええ、ほんの小技。長く生きていれば、自然と身につくものよ」

セレスは涼しい顔でそう言ったが、その琥珀色の瞳には茶目っ気が浮かんでいた。


ライルは感心しつつも、どこか悔しげに眉を寄せた。

「ずるいな。俺にもできればいいのに」

「あなたにはあなたのやり方があるでしょう。土を耕し、種を撒き、収穫を分かち合う。それも十分、世界をあたためる魔法よ」


その言葉に、ライルは一瞬言葉を失った。彼女の声には説教めいた堅さはなく、ただ寄り添うような温度があった。


「……そう、かもしれないな」

照れ隠しに笑いながら答えると、セレスは桶から水をすくい、掌を開いて光る雫をこぼした。陽の光に反射した水滴は宝石のように輝き、石畳を濡らして小さな虹を描く。


「見なさい。たとえ一滴でも、光を受ければ世界を彩るの」

「……俺も、そんな風になれるかな」

「きっとなれるわ」


セレスはそう言い、髪を耳にかけて穏やかに笑った。

その笑顔を見ていると、胸の奥に小さな芽がまたひとつ芽吹いたような気がした。


午後の畑に戻ると、陽射しはすでに強く、空気の色まで眩しく見える。双葉は朝よりもわずかに背を伸ばし、影をつくるほどになっていた。ライルは膝をつき、その小さな緑を指先でそっと囲う。


「芽吹き祝い……本当にそうだな」

呟きは土に吸い込まれていった。背後で風が揺れ、セレスの髪が光を弾く。


彼は知らず、王都で見失った「生きる意味」を、ここでひとつ取り戻しつつあった。


午後の陽は少し傾き、畑の影を長く伸ばしていた。鍬を置いたライルは背中の汗をぬぐい、しばらく大地に腰を下ろす。指先にはまだ土の感触が残っていて、そのざらりとした感覚が妙に心地よい。


「……ふう。王都じゃこんな汗のかき方しなかったな」

独り言のように漏らすと、すぐ近くで足音がした。セレスが木の桶を抱えて立っていた。中には摘みたてのハーブと、井戸から汲んできたばかりの水が入っている。


「よく働いたわね。ほら、水を飲みなさい」

差し出された椀を受け取り、ライルは一気に喉を潤した。冷たい水が喉を通るたびに、体の芯まで涼しさが広がる。


「……生き返る」

「水は命だから。畑も、人も」

セレスはそう言って、桶に手を浸しながら小さく微笑んだ。


ライルは少し躊躇した後、口を開いた。

「なあ、セレス。……俺、本当にここでやっていけるのかな」

言葉にした途端、胸の奥に潜んでいた不安が顔を出した。


王都での日々。人に追われ、比較され、数字の中で自分をすり減らしていった記憶は、まだ完全には消えていない。小さな芽を見て嬉しかったはずなのに、夜になればまた不安が戻ってくる。


セレスは彼をじっと見つめ、椀を置いた。

「――ライル。畑はね、最初から豊かに実るわけじゃないの。種が芽吹くまでに、何度も失敗して、何度もやり直す」


「……やり直す、か」

「ええ。王都を離れてここに来たのも、ひとつの“やり直し”。あなたは今、その途中にいるのよ」


彼女の声は、夜の風のように静かで、それでいて芯のある響きを持っていた。


ライルは視線を落とし、掌に残る土の跡を見つめる。

「俺は……逃げてきただけだ。強いわけじゃないし、剣だって中途半端で、畑もまともにできない」


「だからこそ、ここにいるんでしょう?」

セレスは穏やかに遮った。

「逃げることは恥じゃない。生きるために必要な選択をしたの。千年生きてきた私が言うんだから、間違いないわ」


「千年も……」

改めてその言葉を聞くと、現実味のない数字が胸にのしかかる。だが、彼女の瞳に宿る確かな重みが、その年月を証明していた。


「私もね、何度も“やり直し”をしてきた。仲間を失い、家を失い、国を失っても……それでも畑を耕して、ご飯を食べて、また次の日を生きてきた」


彼女はそう言って、双葉の芽を指先で優しくなぞるように見つめた。

「だから大丈夫。あなたもきっと、この土に根を張れる」


ライルの胸の奥で、何かが少しほどける音がした。彼は深く息を吸い込み、夕暮れの風を肺いっぱいに取り込んだ。


「……俺も、やり直せるのかな」

「ええ。芽が育つように、人も必ず育つのよ」


沈黙が二人を包んだ。遠くで牛の鳴き声がし、村の子どもたちの笑い声が風に乗って届く。王都の喧騒とは違う、柔らかい音。


ライルはふと笑みをこぼした。

「じゃあ俺は、ここで土を耕して、ご飯を食べて、笑って生きていくよ」

「それが一番の魔法ね」


セレスの笑顔は、夕陽に照らされて春風のように柔らかかった。


夕暮れが訪れると、村は橙色に染まり、あちこちの家から煙が立ちのぼり始めた。焚き火の匂いや煮込みの香りが風に混じり、どこか懐かしいような温もりを漂わせている。


ライルは畑の端に腰を下ろし、土にまみれた手を膝に置いた。昼間に芽吹いたばかりの双葉が、夕風に小さく揺れている。ほんのわずかな緑――それだけなのに、胸の奥にぽっと灯がともるようだった。


「……生きてるんだな」

思わず呟いた声は、誰に聞かせるでもなく夜気に溶けていく。


背後で衣擦れの音がして振り向くと、セレスが木の籠を抱えて立っていた。籠の中には畑で摘んだハーブや野菜が収められている。彼女は静かに腰を下ろし、芽吹きを見つめるライルに声をかけた。


「土は正直ね。手をかけた分だけ、ちゃんと応えてくれる」

「……俺は、まだ何もしてないよ。水をやったくらいだ」

「それで十分。芽が出るのは、あなたがここにいる証拠だから」


そう言ってセレスは小さく微笑んだ。夕陽に照らされた横顔はどこか遠い記憶を思い出しているようで、ライルはつい見とれてしまう。


「千年の間に、こうして何度も芽吹きを見てきた?」

問いかけると、セレスは少し黙った。風が長い髪を揺らし、その沈黙ごとに時間の重さが滲む。

「……ええ。何度もね。けれど、そのたびに思うの。芽吹きは“希望”の形だって」


その声音には、深い哀しみと、それでも諦めない強さが入り混じっていた。ライルは胸の奥が熱くなり、言葉を飲み込む。


沈黙を破ったのは、突如吹き抜けた風だった。畑の苗や芽がざわめき、木々の枝が大きく揺れる。さっきまで穏やかだった空気が、一瞬だけ鋭く震えたように感じられる。


「……風が、変わった?」

ライルが眉をひそめると、セレスも立ち上がり、森の方へ目を凝らした。

「……ただの風かもしれない。でも」


彼女の瞳がかすかに細められた。琥珀色の光が炎のように揺れ、そこにはわずかな警戒の色が宿っていた。


「市場で感じた視線を、まだ覚えている?」

「……ああ」

胸の奥がひやりと冷たくなる。第3話で市場に現れた黒衣の影。その感覚が、風のざわめきとともに蘇る。


「村は穏やかに見えるけれど……世界は常に揺らいでいる。人も、自然も、因果もね」

「因果……?」

「気にしなくていいわ。今は」


セレスはそう言ってライルの肩に手を置いた。彼女の指先は温かいのに、その瞳の奥には千年を越える冷たさが潜んでいる気がした。


「けれど――覚えておきなさい。芽吹きは希望の証。でも同時に、影を呼ぶ合図にもなる」


その言葉は、夜風よりも深くライルの胸に突き刺さった。


畑の隅で揺れる小さな芽。その緑の輝きは確かに未来を告げていた。

だが同時に、背後の森の影の奥から、まだ形を見せぬ何かがこちらを見ている気配があった。


ライルはごくりと喉を鳴らし、無意識に拳を握りしめる。

セレスは横で、ただ静かに空を見上げていた。


橙色から藍色へと変わる空。その狭間に立つ二人は――確かに、何か新しい季節の入口に足を踏み入れていた。


夜がすっかり降り、家の中にはランプの柔らかな灯りがともっていた。

畑から戻ったライルは、桶の水で手を洗いながら深く息を吐く。土の匂いと、芽吹きを見守った余韻がまだ胸に残っていた。


「疲れたかしら?」

台所で鍋をかき混ぜていたセレスが振り返る。銀の髪が火に照らされ、淡く揺れていた。

「……少し。でも、悪くない疲れだ」

ライルはそう答えて微笑む。肩や腰は重いのに、心の奥は不思議と軽かった。


テーブルの上には、夕餉の支度が整えられていた。

畑で採れた葉物を使ったサラダ、昼の残り野菜を活かした煮込みスープ、そして香ばしく焼かれた黒パン。質素だが、温かな匂いに包まれるだけで心が満たされていく。


「芽吹き祝いの続きね」

セレスが器を並べながら言う。

「昼に食べたばかりじゃないか」

「大切なことは、繰り返すことで刻まれるのよ」


二人は向かい合って腰を下ろし、手を合わせて食事を始めた。

スープを一口含むと、昼よりも味が深くなっている。野草の苦みが柔らかく溶け、体の芯まで温かさが広がった。


「……美味い」

自然と声が漏れる。王都ではどんな料理を食べても心が乾いていた。けれど今は違う。

ここには、土と汗と、隣に座る人の気配が味を豊かにしていた。


セレスは静かに笑みを浮かべると、ふいに小さく呟いた。

「芽吹きは未来の約束。でも……未来には別れも含まれている」


ライルはスプーンを止め、顔を上げた。

「……別れ?」

「ええ。芽は必ず成長し、やがて実を結び、枯れていく。その循環の先に“命”の意味がある」


その言葉は柔らかいのに、どこか胸に刺さる。

彼女の瞳の奥にある影を感じ取って、ライルは言葉を返せなかった。


代わりに、外から風が吹き込み、窓のカーテンを揺らす。森のざわめきが一瞬だけ強まり、どこか不吉な予感を運んでくる。


「……今日の風は落ち着かないな」

ライルが呟くと、セレスは目を細めて窓の外を見つめた。

「気にすることはないわ。けれど――覚えておいて。影は必ず芽吹きを追うもの」


「……また、それか」

「あなたがここで生きると決めたなら、いずれ避けられない出会いになる」


その声音には、千年の時を生きた者だけが知る確信が宿っていた。

ライルの胸に、昼間の市場で見た黒衣の影が蘇る。冷たい視線。あれは気のせいではなかった――。


重い沈黙を破ったのは、セレスが持ち出した薬草茶だった。

「ほら、飲んで。眠りを深くしてくれる」

木のカップを差し出す彼女の手は穏やかで、ライルは受け取って口に含む。ほろ苦さの奥に柔らかな甘みが広がり、心が少し落ち着いていった。


「……ありがとう」

小さな声でそう言うと、セレスはわずかに微笑む。

「いいえ。あなたがここで笑えるなら、それでいい」


やがて、夜は静けさを増し、村全体が眠りに包まれていった。

ライルは寝台に横たわり、目を閉じる。まぶたの裏には小さな芽の緑が残っている。


――その芽が未来にどんな実を結ぶのか。

そして、その影に潜むものが何なのか。


答えはまだ遠い。けれど確かに、彼の新しい日々は動き出していた。


窓辺に座るセレスは、眠りについたライルを一瞥し、外の夜空を見上げる。

満天の星の奥に、ほんのわずかな歪み――因果の揺らぎを感じ取り、彼女は小さく息をついた。


「……また、始まるのね」


その囁きは誰にも届かず、夜の闇へと溶けていった。

第4話はいかがでしたでしょうか。

これまで「始まり」と「出会い」を中心に描いてきましたが、ここからは生活感や季節の移ろいを重ねながら、ゆっくり物語を進めていきます。

ライルとセレスの関係はまだ師弟のようでいて、時折ほんのり親密さを見せる――そんな距離感を楽しんでもらえれば嬉しいです。


次回は、また新しい日常のひと幕を描いていきますのでお楽しみに!

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