市場での出会い
市場での買い物を終え、村の日常に少しずつ馴染んでいくライル。
けれど人混みの中で感じた奇妙な視線は、ほんのわずかなざわめきを胸に残します。
今回は「市場での交流」と「仲間としての絆の芽生え」を描いた回です。
王都を離れて五日が経った。
朝露に濡れた畑を耕すことにも、ほんの少しだけ慣れ始めたころ。今日、俺はセレスに連れられて、初めて村の市場へ向かうことになった。
「ライル、初めての市だろう? 驚くことばかりかもしれないけれど、肩の力は抜いてね」
隣を歩くセレスは、いつものように穏やかに笑う。白銀の髪を三つ編みにして肩へ垂らし、今日は黒いローブではなく、素朴な生成りの服を纏っていた。すれ違う村人に声を掛けられては軽く会釈を返す姿は、魔女というより、村に根を張る一人の女性にしか見えない。
やがて視界に広がった市場は、俺が想像していた以上に賑やかだった。
石畳の広場いっぱいに、木箱や粗末な布を広げた屋台がずらりと並ぶ。色とりどりの野菜が山のように積まれ、まだ朝の冷気を纏った葉物が露に光っていた。串に刺された干し肉や、縄で吊るされた魚からは、強い香りが漂う。さらに蜂蜜を垂らした焼き菓子や、果物を煮詰めたジャムの甘い匂いが風に混じり、腹の底を刺激してくる。
「おや、セレスさん! 今日は弟子を連れてきたのかい?」
「ええ、見習いよ。村にも慣れてもらわないとね」
「はは、こりゃ将来有望だ!」
呼び込みの声や客の笑い声が重なり合い、広場全体が生き物のように脈打っている。
王都の喧騒と違うのは、そのどれもが温かく素朴で、人の顔が見えるということだった。
「セレスさん、おやつにどうだい? 今朝焼いた蜂蜜パンだよ」
店先の女将が笑顔で声をかけ、紙袋を差し出す。
「ありがとう。今日はライルに選ばせるわ」
急に振られた俺は、慌てて屋台の棚を見渡した。
目にとまったのは、表面に砂糖がきらきら散った揚げ菓子だ。
「じゃ、じゃあ……これを」
女将は豪快に笑い、袋に包んでくれた。
「はは、いい選び方をするね。若い男は甘いものが好きだろう」
セレスはくすりと笑い、横目でこちらをちらりと見る。
「……なるほど。意外と子どもっぽいのね」
「いや、たまには甘いのもいいかなって!」
紙袋から伝わる温もりと香ばしい匂いに、胸が妙に落ち着いていく。
王都では金で買える菓子はいくらでもあったが、こうして“誰かが自分のために揚げてくれた”菓子を手にするだけで、特別な意味が生まれるのだと気づいた。
人波の中を進んでいると、突然、腰に小さな衝撃が走った。
「わっ!」
小さな子どもが勢いよくぶつかってきて、そのまま尻もちをついてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
大きな目を潤ませた少女が慌てて頭を下げる。背中には大きすぎる籠を背負っていて、どうやら市場の手伝いの最中だったらしい。
「大丈夫、大丈夫。俺の方こそ前を見てなくて」
俺は手を差し伸べ、少女はおそるおそるそれを握り返す。
周囲の村人たちがそれを見て、笑顔を浮かべながら口々に声をかけてきた。
「新しく来た青年だろう? 優しそうじゃないか」
「セレス様の弟子なら、きっと間違いないさ」
胸の奥がくすぐったくなる。
王都では人混みに紛れて名前すら呼ばれなかった俺が、ここでは「誰か」として見られている。
「ライル、人気者ね」
セレスが楽しげに囁く。わずかにからかうような響きが混じっていた。
「い、いや……ただの偶然だって」
思わず顔が熱くなり、視線を逸らす。
その瞬間、どこかから香ばしい匂いが流れてきた。
焼き魚の香り。振り返ると屋台の親父が豪快に笑い、串焼きを一本差し出していた。
「おう兄ちゃん、初めて見かけた顔だな! 一本食ってけ、こっちはまけておくぜ!」
「え、あ……ありがとうございます」
熱々の串を受け取りながら、胸の奥でふと疑問が生まれる。
――なぜこんなにも、温かいのだろう。
市場はこんなにも賑やかなのに、心を刺すような競争や打算の気配はほとんど感じられない。
王都では決して味わえなかった、人の温もりがそこにあった。
だが、その温もりの中に、ひとつだけ異質な冷たさが混じっていた。
視線を感じて振り返ると――人混みの奥に、黒いローブを羽織った影が立っていた。
深くフードをかぶって顔は見えない。けれど確かに、じっとこちらを見ている。
「……ライル?」
セレスの声で我に返る。気づけば足が止まっていた。
「いや……なんでもない」
ごまかすように笑ったが、心の奥には確かなざわめきが残ったままだった。
串焼きの魚を口に運ぶと、熱が舌にじゅわりと広がった。
表面は香ばしく焼けているのに、中は驚くほど柔らかい。脂が甘く、噛むたびにじゅわっと染み出し、煙と炭の香りが鼻を抜けていった。思わず「うまい」と口に出すと、屋台の親父は胸を張り、周囲の客までもが笑った。
「ほらな! ここの川魚は格別なんだ」
「川の水が澄んでるからな、王都じゃ味わえないだろう!」
笑い声と香ばしい匂いに包まれる市場の一角。俺はその輪に自然と混ざっていた。
王都では、食事はいつも義務だった。量や見栄えを気にする者ばかりで、味わう暇などなかった。だが今、串一本で心が満たされていく。そんな体験は初めてだった。
「ライル、口の周りが汚れているわ」
セレスがくすりと笑い、布でそっと拭ってくれる。
「っ……あ、ありがと」
心臓が跳ね、顔が熱くなる。けれど彼女は気にも留めず、再び市場の奥へ歩みを進めた。
俺も慌てて後を追う。
そのとき、ふとさっきの黒いローブの影を思い出し、背筋をなぞるような冷たさが蘇った。人混みを見渡すが、もう姿は見えない。ただ賑わいと笑い声が広がるばかりだ。
「気になるなら、口に出してもいいのよ」
セレスが小声で言った。
「……え?」
「人の視線は誤魔化せないもの。あなたが何かを感じ取ったのなら、それはきっと“ある”のよ」
琥珀の瞳は市場の奥を射抜くように細められていた。
俺は言葉を失いながらも、やはりただの気のせいではなかったのだと悟る。
市場の中心には、大きな噴水があった。石造りの縁に腰をかけて休む人々、汲んだ水を桶に移す商人たち。水飛沫が陽光に照らされ、虹のような弧を描いている。その輝きに一瞬心を奪われたが――その陰に潜むものを思うと、気は抜けなかった。
「ライル、こっちよ」
セレスに呼ばれ、香辛料を売る屋台へ向かう。
棚には色とりどりの粉末が詰まった瓶が並び、赤や黄色の鮮烈な色が目を奪った。鼻を近づけると、刺激的な香りがむせ返るほどに広がる。
「うっ……すごい匂いだな」
「王都でも香辛料は高価でしょう? でもここでは、旅商人が森を抜けて運んでくれるの」
「へぇ……」
店主がにやりと笑い、俺に小袋を差し出してきた。
「お試しにどうだ? 弟子のお祝いに、少し安くしとくよ」
「い、いや、俺は……」
困っていると、セレスがさっと袋を受け取った。
「ありがとう、いただくわ。ライル、今夜のスープに少し入れてみましょう」
「えっ、俺が?」
「ええ。畑を耕すだけが弟子の仕事じゃないのよ」
得意げな笑みを浮かべるセレスに押され、俺は苦笑しながら頷く。
香辛料の袋は小さなものなのに、不思議とずっしり重く感じられた。
再び市場の中を歩き出す。
賑わいの中で子どもたちが走り回り、木の笛を吹く音が遠くから聞こえてくる。果物の汁が滴る匂い、干し草の香り、陽に焼けた人々の声――それらが混じり合い、市場全体が大きな生命のうねりとなって押し寄せてくる。
「ここに来るとね、千年前も今も、あまり変わっていないと感じるの」
セレスがふと呟いた。
「え?」
「人は物を作り、売り、食べ、笑う。それだけで生きていける。王都に比べたら、ずっと単純で、ずっと豊かなのよ」
その言葉には、長い時間を生きてきた者だけの静かな重みがあった。
俺は返す言葉を見つけられず、ただ頷くしかなかった。
だが同時に、あの黒いローブの影が脳裏をよぎる。
――もし、この穏やかな光景に影を落とす存在がいるのだとしたら。
胸の奥に芽生えたざわめきは、魚の香ばしさや菓子の甘さでは、決して消せなかった。
昼下がりの市場は、さらに熱気を帯びていた。
陽は真上から差し込み、木造の屋根や布張りの天幕が作る影の下に人々が集まる。風に乗って漂うのは、焼き菓子の甘い匂い、干し草の青臭さ、革や布の混じった生活の香り。王都での喧噪とは違う、土と人の体温に近い熱気がそこにはあった。
「ライル、少し休みましょうか」
セレスが噴水の縁に腰掛け、籠をそっと置いた。俺も隣に座り、手にした紙袋を広げる。中から現れたのは、今朝市場で買った揚げ菓子だ。砂糖が光を受けてきらきらと輝き、まるで宝石のように見える。
「ほら、食べてみなさい」
「……ああ」
一つを取り出し、かじる。
カリッという音が響いた瞬間、香ばしい油の風味が口いっぱいに広がった。中からふわりと溶けるような生地の甘さが追いかけてきて、思わず目を閉じる。
「……甘いな」
「でしょ? 油で揚げただけのものでも、こうして砂糖をまぶすと立派なお菓子になるの」
セレスが微笑む。その横顔は柔らかく、陽光を浴びた銀髪が水面のように輝いていた。
噴水の周りには、子どもたちが集まっていた。小さな桶で水をくみ、頭からかぶっては歓声を上げる。母親たちが「風邪をひくわよ」と笑いながら追いかける光景は、王都では決して見られなかった。
「……平和だな」
思わず口にすると、セレスは少し視線を伏せた。
「ええ。でもね、どんなに穏やかな場所にも、影は差すものよ」
彼女の言葉に、また胸の奥がざわつく。
――黒いローブの影。あれは偶然ではない。
紙袋を握りしめながら、俺は人混みをそっと見渡した。
果物を売る老人、草鞋を編む若者、荷を背負って駆ける子ども……皆、当たり前の暮らしに夢中で、疑う気配などない。だがその平凡さの中に、確かに異質な視線が混ざっていたのだ。
「ライル」
セレスが小声で囁く。
「怖がる必要はないわ。むしろ、気づけたことを誇りなさい」
「誇れって……?」
「影を見る目は、生きる上で大切な力だから」
彼女の声音には揺るぎがなかった。
けれどその奥に、千年を生きてきた者だけが持つ、冷たい覚悟のようなものを感じて背筋が震えた。
その時、噴水の向こうで小さな騒ぎが起きた。
子どもの一人が水に足を取られて倒れ込み、泣き声を上げている。母親が慌てて駆け寄り、抱き上げるが、周囲にはくすくす笑いも広がる。
「大丈夫、びしょ濡れになっただけよ」
セレスは立ち上がり、さっと指先を動かす。
風がふわりと舞い、子どもの衣服から水滴が消えた。
「わぁ……!」
驚く声に包まれる中、子どもは泣きやみ、母親が何度も頭を下げた。
「魔女様、ありがとうございます!」
「礼はいらないわ。……子どもが笑ってくれるなら、それでいいの」
その光景を見つめる村人たちの目は、尊敬と感謝に満ちていた。
俺もまた、胸の奥が温かくなる。
けれど同時に、さっきまで感じていた視線が再び背を撫でていくのを感じた。
――やはり、あの影はまだ近くにいる。
セレスがこちらを一瞥し、ほんのわずかに口角を上げた。
「安心して。今日のところは、ただ“見ている”だけだから」
「……“今日のところは”?」
問い返そうとしたが、彼女は市場の賑わいに紛れるように歩き出してしまった。
紙袋の中の揚げ菓子は、まだ温もりを残している。
けれど甘さの裏側に、不思議な苦みが舌に残っていた。
市場を後にした頃には、太陽は西の空に傾き始めていた。
赤みを帯びた光が木造の家々や藁葺きの屋根を染め、村全体が柔らかな茜色に包まれている。
行商人たちが荷をまとめ、子どもたちが家路を急ぐ。夕餉の支度に取りかかる家々からは、香ばしい匂いが風に乗って流れてきた。焼いた魚、煮込みの肉、香草の香り……王都で嗅ぎ慣れていた香辛料の刺激臭とは違う、暮らしそのものの匂いだった。
「ふふ、にぎやかだったでしょう?」
前を歩くセレスが、荷籠を抱えながら振り返る。
「……ああ。驚くことばかりだったよ」
思わず笑いがこぼれる。市場に並ぶ色とりどりの野菜、焼き菓子を頬張る子どもたち、知らない相手にも笑顔を向ける村人たち。
王都で感じた重苦しい視線や利害の計算はなく、ただそこに「暮らし」が息づいていた。
それでも――胸の奥に残る冷たいざわめきは消えていない。
黒衣の影。あの視線は幻覚ではなかった。
「セレス……あの時のローブの人物、やっぱり……」
声を落とし、問いかける。
セレスは立ち止まらず、夕暮れに染まる道を歩きながら答えた。
「心配しなくてもいいわ。あなたに危害を加える者ではない」
「じゃあ、誰なんだ? 俺を……いや、俺たちを監視しているように見えたけど」
彼女は少しだけ笑みを浮かべた。けれどその瞳は笑っていなかった。
「市場は“出会いの場”よ。善意もあれば、試す視線もある。――いずれ、あなた自身が答えにたどり着くでしょう」
曖昧な答えに、不安はむしろ募っていく。
だが、セレスの声音は揺るぎがなく、それ以上問い詰めることはできなかった。
村の外れに差しかかる頃、広い畑の向こうに俺の小屋が見えてきた。
まだ改装も終わっていない古びた小屋だが、昼に収穫した野菜や市場で買った食材を抱えて戻ると、不思議と「帰る場所」だと思えてしまう。
「おかえりなさい、って言うのも変かしらね」
セレスが冗談めかして言い、扉を押し開ける。
中は夕陽に照らされ、木の壁に橙色の影が踊っていた。
台所の小さな卓に並べられる野菜や果物。鮮やかな色が小屋の中を一気に明るくする。
「ふふ、こうして並べると立派な食卓に見えるわね」
「食卓、か……。王都にいた頃は、食事はただ“腹を満たす作業”だったよ」
「ここでは違うわ。畑を耕して、食材を選んで、調理して――それを分け合う。食卓は“生きている証”になるの」
セレスが野菜を手に取り、窓から差す夕陽に透かしてみせる。その姿は神聖な儀式のようにも見えて、思わず息を呑んだ。
食材を片付け終えると、セレスは甘い焼き菓子の包みを取り出した。
「……まだ残っていたのか」
「もちろん。おやつは夕方に食べても美味しいのよ」
彼女はにっこり笑い、俺の口元に小さな菓子を差し出した。
「……あのな」
抵抗する暇もなく口に放り込まれる。
砂糖の甘さがじんわりと広がり、空腹だった腹をさらに刺激する。
「……うまい」
思わず漏れると、セレスは得意げに頷いた。
外では鳥の群れが帰路につき、森から虫の声が響き始めていた。
小屋の中は、野菜や果物の匂い、焼き菓子の甘さ、そして焚き火の煙の香りが混じり合い、どこか懐かしいような温もりを作り出している。
けれど、その安らぎの中で――俺の胸の奥だけは冷たさを手放せなかった。
市場で見た黒衣の人物。その視線の残滓は、今も背中に突き刺さったままだ。
「……ライル」
セレスが柔らかい声で呼ぶ。
「どんな影が外に潜んでいても、ここは“あなたの家”。忘れないで」
彼女の言葉に、心が少しだけ和らぐ。
それでも不安は消えない。安らぎと緊張、その両方を抱えたまま、俺は深く息を吐いた。
――夕暮れの村は温かい。
だがその温もりに溶けきらない冷たい影が、確かに忍び寄っている。
夜の帳がゆるやかに降り、村の灯火がぽつぽつとともり始めた。
小屋の窓から見える景色は昼間とはまるで違う。市場の喧噪は消え、遠くの森からはフクロウの声が響き、虫たちの合唱が夜気に溶け込んでいた。
「ライル、火をもう少し強めてくれる?」
台所で鍋をかき混ぜるセレスが振り向く。
暖炉の火を杖でつつくと、ぱちりと赤い火の粉が弾け、炎が明るさを取り戻した。
鍋からは、昼に市場で買った根菜と干し肉を煮込む芳ばしい匂いが漂っている。香草の香りが立ちのぼり、食欲を優しく刺激した。
「こんなに香りが立つんだな。王都の料理よりも……なんというか、素朴で落ち着く」
「それが“生きる味”よ」
セレスが軽く微笑む。鍋の湯気の向こうで、銀色の髪が灯火を受けて淡く光っていた。
食卓に並んだのは、根菜のスープ、焼きたての黒パン、そして市場で手に入れたチーズと干し果物。派手さはないが、どれも温かい匂いに満ちていた。
椅子に腰掛け、木の匙でスープを口に運ぶ。
「……うまい」
煮込まれた芋がほろりと崩れ、舌に甘みを残す。干し肉の旨味と香草の清涼感が混じり合い、疲れた身体の隅々にまで沁み渡るようだった。
「顔がほころんでいるわね」
セレスが茶目っ気たっぷりに笑う。
「いや……こんなの、久しぶりだから」
言葉にすると胸が熱くなる。王都での食事は、常に義務や上下関係の中にあった。だが、ここでの一口一口は、自分のために、自分の手で得た糧のように感じられる。
パンをちぎり、スープに浸して頬張る。麦の甘さが広がり、無意識に息が漏れた。
「……これだけで十分幸せになれるんだな」
「ふふ。気づいたでしょう? 畑を耕し、ご飯を食べる。たったそれだけのことが、時に千の魔法より人を癒やすの」
セレスの言葉は、ただの慰めではなく、長い時を生きてきた者の実感そのものだった。
だが、ふと――背筋に冷たい記憶がよぎる。
市場で見た黒衣の影。あの刺すような視線。
スープの温もりに包まれながらも、その冷たさは消えない。
「セレス……あれは誰なんだ?」
問いかける声が震えていた。
セレスはすぐには答えなかった。木の匙を置き、窓の外に目を向ける。
「夜は、影を濃くするわ。昼に見たものも、必要以上に恐ろしく映る」
「つまり……気のせいだと?」
「いいえ」
セレスの瞳が、月明かりに照らされて琥珀色に揺れた。
「ただ――今はまだ、名を告げる時ではないの」
その声音は柔らかいが、どこか決して触れてはいけない冷たさを含んでいた。
胸のざわめきは強まったが、それ以上は踏み込めなかった。
食後、セレスは薬草を煮出した茶を用意してくれた。
湯気とともに立ちのぼるのは、カモミールと蜂蜜の甘い香り。
「これを飲むと、よく眠れるわ」
「……ありがとう」
木の杯を口にすると、ほんのりとした甘さが広がり、体の緊張がほどけていく。
窓の外には、漆黒の夜空に散りばめられた星々。
王都では煤煙に隠されて見えなかった光が、ここでは息を呑むほどの鮮烈さで瞬いていた。
「すごい……。こんなに星があったんだな」
思わず呟くと、セレスが穏やかに頷いた。
「人は皆、空を見上げれば孤独ではなくなるのよ。……たとえ影に見張られていたとしても」
言葉の意味を深く問う前に、茶の効果か瞼が重くなってきた。
「ライル、休みなさい。明日も畑が待っているわ」
その声は子守歌のように柔らかく、心の奥まで染み渡る。
ベッドに横たわり、薄い毛布を掛ける。
セレスは暖炉の火を静かに落とし、窓辺の椅子に腰掛けた。
銀髪が月明かりにきらめき、長い影を床に落とす。
「おやすみ、ライル」
その囁きが最後に届き、意識は闇へと沈んでいった。
だが眠りに落ちる刹那――耳の奥に、聞き覚えのない声が微かに響いた。
「……見ている」
低く、冷たい声。
目を開けようとしたが、体はもう夢に囚われていた。
――影は確かに、近くにいる。
夜が深まり、森はしんと静まり返っていた。
窓の外には、星々が凍りついた宝石のようにまたたき、風の音さえも吸い込まれていくようだ。
俺は薄い毛布に包まれ、眠りの中に沈み込んでいた――はずだった。
だが、夢と現の境で、誰かに呼ばれたような感覚に胸を締めつけられる。
「……ライル」
確かに名前を呼ぶ声がした。低く、遠い響き。
セレスではない。あの柔らかさも温かさもなく、代わりに冷たい刃のような鋭さを持っていた。
反射的に目を開けると、薄暗い部屋の中、窓辺に人影があった。
月明かりに照らされ、黒いローブの輪郭が浮かび上がる。
顔は見えない。だが昼間、市場で見た影と同じだと直感した。
「……お前、誰だ」
声を絞り出したつもりだったが、喉がひどく乾いて掠れた。
人影はすぐには答えず、ただじっとこちらを見つめていた。
そして、低く囁く。
「種は撒かれた……いずれ芽吹く」
意味の分からない言葉だった。だが、背筋に冷気が走る。
俺が息を呑んだ瞬間、風が吹き込み、窓のカーテンが大きく揺れた。
――次の瞬間、影は消えていた。
「っ……夢、か……?」
額に冷たい汗がにじむ。
慌てて身を起こすと、すぐそばの椅子でセレスが本を閉じる音がした。
「どうしたの、ライル」
月明かりを背にした彼女の瞳が、静かに揺れている。
「い、今……窓のところに……」
言葉を探す俺を、セレスはしばらく見つめ、それから立ち上がって窓辺に歩み寄った。
外を覗いても、そこにあるのは森と星の光だけ。
「……影の記憶に囚われたのね」
セレスは振り返り、柔らかく言った。
「この村に来て間もないあなたが、心細さを映しても不思議じゃない」
慰めるような言葉だった。けれど俺は、あれがただの幻覚ではないと確信していた。
「……夢じゃない。確かに、誰かがいた」
そう言うと、セレスは目を細め、しばし沈黙した。
やがて、椅子を引き寄せ、俺のベッドの傍らに腰を下ろした。
「いいわ。なら覚えておきなさい。――世界は、光と同じくらい影にも満ちている。あなたが畑を耕し、パンを食べ、笑っている間にも、影は静かに近づくの」
彼女の声は落ち着いていたが、その奥にひそむ冷たさが胸をざわつかせる。
「じゃあ、俺は……」
「怯える必要はないわ」
セレスはそう言って、毛布を整え、静かに手を重ねてきた。
「この家にいる限り、あなたを脅かす影は入れない。結界が守っているもの」
その手は温かかった。だが、彼女自身の表情には、言葉にできない影が差していた。
千年の時を生きる魔女だからこそ知っている“何か”が、確かにあるのだろう。
やがて彼女は小さく鼻歌を口ずさみ始めた。
昼間、畑仕事をしているときにも聞いた調子――優しい旋律に、まぶたが重くなっていく。
「……セレス」
「なに?」
「……ありがとう」
それだけを伝えると、彼女は微笑み、答えを返さなかった。
再び眠りに沈む直前、胸の奥に奇妙な確信が芽生えた。
――この村での暮らしは、安らぎだけじゃない。
同時に、避けられない“影”をも引き寄せている。
夜は静かに更けていく。
外の森では風がざわめき、星々が揺れていた。
その輝きの裏に潜むなにかが、やがて俺を待ち受けているのだと――どこかで理解しながら。
いかがでしたでしょうか、第3話。
焼き菓子や市場での買い物といった何気ない日常のやり取りを中心にしつつ、ほんのり「不穏の影」を忍ばせました。
ライルとセレスの距離が少しずつ縮まる一方で、背後には確かに何かが潜んでいます。
次回もまた、畑とご飯、そして魔女のちょっとした謎をお楽しみください。