光る豆と夜の揺らぎ
畑と市場で得られた恵みを、食卓で分かち合うライルたち。
朝から晩まで温かい暮らしが描かれる中で、ほんの少しだけ「森の影」が揺らぐ気配が忍び込みます。
スローライフの彩りを大切にしながら、静かな余韻を味わっていただけたら嬉しいです。
朝靄に包まれた畑は、まだ静かな眠りの余韻を残していた。夜露に濡れた葉がきらりと光り、風が通るたびに細やかな水滴が揺れる。土の湿り気と草の青い匂いを胸いっぱいに吸い込むと、昨日の市場での賑やかさが夢のように遠く感じられた。今日は、また日常の始まりだ。
「今日は豆を摘みましょう」
セレスが腰に籠を提げ、畝の前で振り返る。銀の髪が朝日を受けて淡く輝き、その姿は畑の景色にすっかり溶け込んでいた。
「そら豆も、えんどうも、もう十分に膨らんでいるはず。朝のうちに摘んでしまった方が瑞々しくて美味しいの」
「へぇ……昨日まで市場で忙しかったのに、もう収穫なんだな」
俺は思わず息をつき、目の前に広がる緑を眺めた。畝の間に伸びる葉は朝露をまとい、ところどころから太った豆の房が顔をのぞかせている。
セレスは膝をつき、そっと房を持ち上げる。
「ほら、下から少しひねると……」
指先がしなやかに動き、ぷつりと軽やかな音がして豆が外れた。
「こうすれば来年の芽も傷めずに済むのよ」
俺も真似てみる。指に伝わる手応えは小さいけれど確かで、ちぎれた瞬間にふわりと青い匂いが広がった。籠の中に放り込むと、まるで小さな宝石を集めているようで、自然と胸が弾んだ。
「わんっ!」
振り返ると、クロが子どもたちと一緒に畑の端で駆け回っていた。泥を跳ね上げながら畝と畝の間に突っ込んでいき、鼻先を土に埋めて「ほら見ろ!」と言わんばかりに吠えている。
「おい、そこ掘ったら芽が折れるだろ!」
慌てて駆け寄ると、クロは泥だらけの鼻をこちらに突き出し、得意げに尻尾を振った。子どもたちは笑い転げ、セレスは苦笑しながら首を振る。
「クロは元気ね……でも、これで芽が少し倒れたわ。ライル、直しておいて」
「はいはい……」
芽を支え直しながら、俺もつい笑ってしまう。王都で過ごしていた頃、こんな泥だらけの朝を迎えるなんて想像もしなかった。
作業を進めるうちに、籠の中は少しずつ豆で満たされていった。太陽が昇るにつれて葉の露は乾き、かわりに畑全体に土の香りと青臭い匂いが濃く漂い始める。汗ばむ額をぬぐうと、遠くで鳥の声が重なり合い、静かな音楽のように響いていた。
「ライル、摘んだ房はそのまま茹でてもいいけど、炒めても美味しいのよ。そら豆は塩でゆで上げるだけでも十分。えんどうはスープにすれば甘みが増すわ」
セレスは籠を持ち上げ、軽く振って見せる。
「今日は夕方に時間があるから、一緒に作りましょう。採れたての味は格別よ」
「……楽しみだな」
正直、豆なんて王都では料理の端に添えられるだけで、こんなふうに主役になることはなかった。けれど、この村では畑で採れたものこそが食卓の中心だ。ひとつひとつ摘みながら、それを味わえるのだと思うと、ただの豆が妙に輝いて見える。
クロが再び駆け寄ってきて、籠の中を覗き込み、匂いを嗅いで「わん!」と吠えた。
「お前のじゃないぞ。あとで少しだけ分けてやるからな」
言い聞かせると、彼は満足したのかまた畑の端へ駆け戻っていく。
やがて籠がいっぱいになる頃には、朝の光が畑全体を照らし、葉の影は濃く短くなっていた。
土の温もりと青い香りを全身で浴びながら、俺は思った。
――こうして畑に向き合っていると、昨日の市場の賑わいとはまた違う「暮らしの豊かさ」がある。
分け合うだけでなく、自分の手で積み重ねていくものがここにあるのだ。
豆を詰めた籠を抱えて畑を出ると、陽はもう高く昇り、村の屋根が柔らかな光に照らされていた。市場の喧噪が嘘のように、今日は穏やかな日常のざわめきだけが広がっている。
「セレスおばさーん! ライルにーい!」
声を張り上げながら駆け寄ってきたのは、昨日もクロと泥団子を投げ合っていた子どもたちだ。
「今日は豆をいっぱい摘んだの!」
一人が籠を覗き込み、目を輝かせる。
「おっきいなぁ! これ、どうやって食べるの?」
「これはな……」と答えかけると、横からセレスがやわらかく言った。
「ゆでて塩を振るのが一番。あとはスープにしたり、焼きパンの具に混ぜてもいいわ」
「えー! パンに豆!?」
子どもたちは一斉に顔を見合わせ、笑い声を上げる。
その間にクロは子どもたちの足元にすり寄り、「わん!」と短く吠えた。すると一人の子が豆の房を取り出そうとする。
「こら、それはまだだぞ」
慌てて止めると、セレスがくすくす笑った。
「クロも豆が欲しいのよ。塩を振らないで茹でれば、少しなら食べられるわ」
「わんっ!」
それを聞いたクロは、理解したかのように尻尾をぶんぶん振り回す。子どもたちがまた笑い、畑道が一気に賑やかになった。
籠を家に運び込むと、セレスは手際よく豆を仕分け始めた。
「大きくて形のいいものは保存に。小ぶりなのは今日の料理に使いましょう」
「へぇ、そんなふうに分けるんだな」
俺も真似をしながら房を外していく。手の中でぱちりと弾けるように豆が転がり出て、その鮮やかな緑が目に新鮮だった。
「ライル」
セレスがふと声を低くする。
「豆の保存は簡単ではないの。乾燥させるか、塩漬けにするか……昔から、冬を越すための知恵として受け継がれてきたわ」
「なるほどな……」
市場の賑やかさに比べれば地味な作業かもしれないが、こうして手を動かしていると不思議と心が落ち着いた。
ふと、窓の外からざわりと風が吹き込み、吊るされたハーブが揺れる。
昨日も感じた、あの冷たい風に似ていた。
「セレス……」
思わず呼ぶと、彼女は視線だけで制した。
「大丈夫。今は暮らしに集中しましょう」
琥珀の瞳は柔らかく笑っていたが、その奥にかすかな影が滲んでいた。
俺は何も言わずに豆を房から外す作業に戻った。掌の中の瑞々しい緑を見つめていると、不安は少しずつ薄れていく。
「ライルにーい!」
また子どもたちの声がして、ドアの隙間から顔が覗いた。
「さっき森の方で、クロが吠えてたよ!」
「……え?」
振り向くと、クロは確かに家の前で低く唸り声をあげていた。
外に出てみると、森の縁にはただ木立の影が揺れているだけだった。
「……気のせいか?」
近づいて確かめようとしたが、クロはしばらく唸った後、急に尻尾を振って駆け出した。
「わんっ!」
子どもたちがその後を追いかけ、また賑やかな笑い声が広がる。
「ほんとにもう……落ち着きがないな」
俺が苦笑すると、セレスが玄関口から声をかけた。
「いいのよ。賑やかな声は、家の守りになるもの」
その言葉に、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。
籠の中には、まだ新鮮な豆がぎっしり詰まっている。
――今日の食卓は、きっといつもより緑が鮮やかになるだろう。
夕暮れが近づく頃、台所には豆を茹でる香りが広がっていた。
大鍋の中で、さやから外した青々とした豆がぐつぐつと踊っている。
「ふわぁ……いい匂いだ」
思わず鼻を近づけると、セレスが木の匙で軽くかき混ぜながら笑った。
「まだ味をつけていないわよ。……でも、これだけで春の香りがするでしょう?」
茹で上がった豆をざるにあけると、湯気と一緒に鮮やかな緑が広がった。
セレスはそこへ粗塩を指でぱらりと振る。
「ほら、まずはこれだけで味見してみて」
木皿に盛られた豆を一粒つまんで口に放り込む。
――ほくほくとして甘い。
塩の加減が絶妙で、噛むほどに瑞々しさが広がっていく。
「……うまっ!」
思わず声が出ると、セレスが得意げに頷いた。
「ね? 豆は手をかけなくても、美味しくいただけるの」
「なるほど……これは止まらなくなるな」
俺がぱくぱくと口に運んでいると、足元でクロが「わんっ」と鳴いた。
見上げる瞳は、完全に「自分の分は?」と訴えている。
「はいはい、少しだけな」
塩を振っていない豆を一粒転がすと、クロは嬉しそうにぱくりと食べ、尻尾をぶんぶん振った。
やがてセレスは豆の残りを二手に分けた。
「半分はスープに。もう半分は豆のパンにしましょう」
「パンに……豆?」
「そうよ。粗く潰して練り込むと、香ばしさが増すの」
彼女の手元で、粉と豆がこね合わされていく。
焼き窯の火に入れると、じゅわりと豆の香ばしい匂いが漂った。
同時に鍋の中では、豆とベーコン、刻んだ根菜が煮込まれ、心をくすぐるような香りが広がっていく。
「……これはたまらん」
空腹の腹がぐぅと鳴ると、セレスがくすりと笑った。
「弟子は我慢弱いわね」
「料理がこれだけ匂いを出してきたら、誰でも我慢できないって」
やがて豆パンが焼きあがり、黄金色の表面から香ばしい湯気が立ちのぼった。
切り分けると、中には練り込まれた豆の粒がちらほら。
「よし、いただきます!」
口にかじりついた瞬間、外はぱりっと、中はふわっとしていて、豆の甘みが生地に溶け込んでいた。
「……っ、うまい!」
セレスはパンを一口かじり、うれしそうに微笑んだ。
「よかった。豆はシンプルでも、こうして工夫すれば主役にもなるの」
次にスープをひと口。
ベーコンの旨みに豆のほくほく感が重なり、根菜の甘みがじんわりと広がった。
「……ああ、体に沁みるな」
匙を止められず、あっという間に皿を空にしてしまった。
「ライル、少し落ち着きなさい。まだデザートがあるのよ」
「デザート!?」
驚いて顔を上げると、セレスは小さな器を取り出した。
中には茹でて潰した豆に蜂蜜を混ぜ、冷やした甘いペースト。
「豆の蜜和え。昔から子どもに人気だったの」
匙ですくって口に運ぶと――甘さと香ばしさが広がり、思わず目を細めた。
「……これ、反則だろ。美味すぎる」
セレスがくすっと笑い、クロも羨ましそうに覗き込んでくる。
「クロのは別に用意してあるから」
そう言って出された皿には、塩を抜いた豆ペーストが少し。
クロは大喜びで舌を伸ばし、器をぺろぺろと舐め尽くした。
食卓には、豆尽くしの温もりが広がっていた。
豆の塩ゆで、豆のパン、豆とベーコンのスープ、豆の蜜和え。
どれも素朴なのに、心の奥まで満たされていく味だった。
「……王都じゃこんな食べ方、考えたこともなかった」
パンをちぎりながら呟くと、セレスが静かに頷いた。
「都会は便利だけど、季節の声を聞くことは少ないもの。ここでは“旬”がごちそうになるの」
「……確かに」
満腹で胸の奥が温かくなりながら、俺は深く息を吐いた。
窓の外では、日が沈みかけた空を淡い茜色が染めている。
豆の香りと薪の匂いに包まれながら、俺は心の底から思った。
――ここに来て、本当に良かった。
豆尽くしの食卓を片付け終えると、暖炉の火が赤く揺れ、部屋の中は柔らかな温もりに包まれていた。
クロはすっかり満腹になったのか、床の上で丸くなり、小さな寝息を立てている。
「ふぅ……腹がはち切れそうだ」
木椅子にどさりと腰を下ろすと、背もたれに身を預けて大きく伸びをした。
豆パンとスープで満腹、そして豆の甘いデザートで締めくくられたせいか、体の芯までぽかぽかとしている。
セレスは卓上の器を丁寧に重ね、濡れ布巾で木の天板を拭っていた。
銀の髪が火の明かりに照らされ、やわらかく揺れる。
「ライル」
呼びかけられ、俺は首を傾げた。
「何だ?」
「あなたの顔、随分と変わったわね」
「……顔?」
意外な言葉に思わず頬を触る。
「泥はもう落ちてるだろ?」
「そうじゃなくて」セレスは微笑んで首を振る。
「ここへ来た頃は、眉間にしわを寄せてばかりいたわ。王都の空気がまだ抜けきっていなかった。でも、今は違う」
暖炉の火に照らされた彼女の瞳は、まっすぐに俺を映していた。
その視線に、胸の奥がどくんと熱くなる。
「……そう見えるか?」
「ええ。今のあなたは、自然に笑っている」
「笑ってる……か」
そう言われて、自分でも不思議に思った。
確かに、ここでの暮らしでは、気づけば笑っていることが多い。
王都では、人の顔色を伺い、余計な言葉を飲み込んでばかりだったのに。
「セレスのおかげだよ」
正直に口にすると、彼女はほんの一瞬、驚いたように瞬きをした。
けれどすぐに微笑みを整え、ゆるやかに答えた。
「……それなら、私も嬉しいわ」
火のはぜる音が、静かな部屋に溶けていく。
クロの寝息と、外の虫の声が混ざり合い、まるで世界そのものが眠りについているようだった。
しばらく沈黙が流れた後、セレスがぽつりと呟く。
「千年前にもね、今日みたいに豆を使った宴があったの」
「……千年前?」
「ええ。春先の豆をみんなで分け合って、笑いながら食べたの。今もその光景が、昨日のことのように思い出せる」
遠くを見つめるようなその声に、俺は言葉を失った。
千年という時間が、彼女にとってはただの昨日の延長線上にある――その事実が、不思議と胸に迫ってくる。
「……重くないのか?」
気づけば、そんな問いが口からこぼれていた。
「千年も背負ってきて……疲れたりは」
セレスは小さく笑った。
「疲れることはあるわ。でも、こうして一緒に笑える日々がある限り、大丈夫」
その笑顔は穏やかで、けれどどこか儚さを帯びていた。
言葉を返そうとしたとき――。
窓の外で、ふっと枝葉が揺れた。
冷たい風が一筋、室内に吹き込み、暖炉の炎をわずかに揺らす。
「……っ」
思わず肩を震わせる。
一瞬だけ、背筋を撫でるような冷たい感覚が走った。
セレスもわずかに顔を上げた。
だが、彼女はすぐに目を細め、柔らかく笑った。
「夜風ね。気にしなくていいわ」
その声音はいつも通りだったが、指先がほんの少し強張っているのを俺は見逃さなかった。
「……セレス」
呼びかけると、彼女はゆるやかに首を振った。
「大丈夫よ。今は休みましょう」
その微笑みに、胸の奥のざわつきが少しだけ和らぐ。
けれど消え切ることはなかった。
俺は深く息を吐き、暖炉の火を見つめる。
ぱちり、と薪が弾けた音が、わずかな不安を溶かすように響いた。
――温かな暮らしの中に、ほんの少し混ざる冷たい影。
それでも今は、この穏やかな夜を抱きしめていたかった。
翌朝、鶏の声とともに目を覚ますと、台所からは豆の香ばしい匂いが漂ってきた。
昨日市場で手に入れた豆をまだ使うつもりらしく、セレスは鍋の前で静かに匙を回していた。
「おはよう、ライル」
「……おはよう。もう起きてたのか」
「ええ。朝は早い方が、畑の豆たちも元気に見えるから」
そう言って振り向いた彼女の手には、見慣れない豆が乗っていた。
透き通るような薄緑色で、光にかざすと中の粒が淡く輝いて見える。
「それ……昨日市場にあったか?」
「いいえ。森の縁でクロが見つけてきたの。珍しいでしょ」
机の下で「わんっ」と鳴いたクロが、鼻をひくひくさせながらこちらを見上げている。
どうやら戦利品を自慢しているつもりらしい。
俺は豆を手に取り、しげしげと眺めた。
「……なんか、光ってないか?」
「気のせいよ。夜露を浴びていただけでしょう」
セレスはそう言って微笑んだが、その横顔には一瞬だけ翳りが差した。
鍋にその豆を数粒落とすと、ふわりと甘い香りが立ち上った。
昨日の豆料理とはまるで違う、どこか懐かしいような香りだ。
「……すごい匂いだな」
「そうね。もしかしたら、古い品種が森の奥で残っていたのかもしれない」
匙でかき混ぜると、スープの表面に光の粒が漂うように見えた。
俺は目を瞬かせるが、次の瞬間にはただの湯気に戻っている。
「……やっぱり光って」
「ライル」
遮るようにセレスが穏やかな声を出す。
「朝食にしましょう。働く前に、しっかり食べないとね」
促され、俺は言葉を飲み込んで椅子に腰を下ろした。
木皿に盛られたのは、昨日の残りの豆パンに、刻んだハーブと一緒に煮込んだ豆スープ。
そこに例の淡い豆が数粒混ざっている。
一口すすると――。
とろんとした甘さと、草原を吹き抜けるような爽やかさが舌に広がった。
まるで飲むたびに胸の奥が軽くなるような、不思議な味わいだった。
「……これは、すごいな」
思わず言葉が漏れると、セレスは少しだけ遠い目をした。
「千年前にも、こんな味を口にしたことがあるわ」
「え……?」
「……いいえ、なんでもない」
彼女は微笑んで、器にもう一口スープを注いだ。
クロも小皿にスープを分けてもらい、鼻先を突っ込んで夢中で飲んでいる。
「わんっ!」と尻尾を振る姿に、俺はつい笑みをこぼした。
だが、ふと窓の外に目をやったとき――。
森の縁に、淡い光が漂うのが見えた。
昨日子どもが言っていた「光る影」。それと同じものに思えた。
「……また、か」
俺の小さな呟きに、セレスは窓の外を一瞬だけ見やった。
けれど何事もなかったかのように、静かに器を置く。
「ライル。食べ終わったら畑に行きましょう。今日も豆の手入れが必要だわ」
「……ああ」
胸の奥にざわつきが残る。
けれど、セレスの声に導かれるようにして、俺は再び匙を手に取った。
甘い香りのするスープをもう一口すすると、不思議と心が落ち着いていく。
――光る豆も、光る影も。
今はただ、この温かな食卓の一部として受け入れてしまいたかった。
夕方、畑から帰ってきた俺たちは、泥のついた手と顔を洗ってから、家に戻った。
クロは先に駆け込んで寝台の上に飛び乗り、尻尾をばたばたさせている。
「おい、クロ。靴の泥くらい落としてから乗れよ」
「わん!」
全然悪びれる様子もなく鳴いて、丸くなってしまった。
セレスはそんな様子を見て、肩をすくめて微笑む。
「元気なこと。……でも、弟子もあんまり変わらないわよ」
「俺はクロよりはちゃんとしてると思うけどな」
「本当に?」
からかうように目を細められて、言葉に詰まってしまう。
暖炉の火に鍋をかけると、昼間に収穫した豆や野菜を切って放り込んだ。
今日の夕食は、豆と根菜の煮込み。それに市場で買った黒パンを添える。
湯気とともに立ち上る匂いが部屋に広がり、体の奥から温まっていくようだ。
「ふぅ……腹が減ったな」
「あなた、本当に食べることになると元気ね」
呆れたように言いながらも、セレスの声はどこか嬉しげだった。
食卓に木皿を並べ、三人分の料理を盛る。
クロは「わんっ!」と鳴いて前足を机にかけた。
「待て、待て。ちゃんと置くまでだぞ」
言いながら皿を置くと、彼はすぐに顔を突っ込んで、夢中で豆を食べ始める。
「ほんとに……弟子とそっくり」
「まだその話かよ」
俺は苦笑しながらスプーンを手に取った。
豆と根菜の煮込みは、素朴ながら滋味深い味がした。
噛むほどに豆の甘みが広がり、根菜の柔らかさが体に沁みる。
「……やっぱり畑で育てたものは格別だな」
「そうね。土地の力をそのまま受け取るのだから」
セレスは静かに言いながら、ふと窓の方へ視線を向けた。
夜の森が広がっている。
そこから吹き込む風が、カーテンを小さく揺らした。
――昨日、そして今朝と、俺が感じた“冷たい気配”。
俺もつられて外を見た。
けれど今は、ただ月の光が木立を照らしているだけだった。
「……セレス」
声をかけると、彼女は少し驚いたように振り向く。
「ん?」
「いや……なんでもない」
あの豆のことも、森の影のことも。
聞きたい気持ちはあったけれど、今はまだ胸にしまっておいた。
食事を終え、片付けを済ませると、セレスは暖炉の前に椅子を引き寄せて座った。
銀の髪が火の光を受けて、揺らめいている。
「……千年前もね、こんな風に豆を煮ていた村があったの」
「千年前……」
「ええ。名前も、暮らしていた人の顔ももう覚えていないけれど。
笑い声と、食卓の温かさだけは、ずっと覚えているの」
その声は、少しだけ遠い。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
「ライル」
「ん?」
「あなたがここで“美味しい”って言って笑うたびにね……私も、まだ続けていていいんだって思えるの」
「……そっか」
胸の奥にじんわり熱が広がる。
俺はうまく言葉にできず、ただ「ありがとう」と小さく呟いた。
セレスはそれ以上は何も言わず、暖炉の火を見つめていた。
クロが寝台で小さく「わん」と寝言を漏らし、部屋に穏やかな空気が満ちていく。
――夜が静かに深まっていった。
月明かりに照らされる森の奥で、淡い光がふわりと揺れた。
けれどそれは、家の中から見ると、ただの蛍のように見える。
俺はそれ以上目を凝らさず、毛布を肩まで引き上げた。
明日もまた、畑と食卓が待っている。
そう思うと、不安よりも眠気が勝っていく。
「おやすみ、セレス」
「ええ。よく眠って」
その声を最後に、意識は静かに沈んでいった。
夜更け、窓の外にはしんとした静けさが広がっていた。
クロはすでに寝台の端で丸くなり、小さな寝息を立てている。
セレスは椅子に腰をかけたまま、暖炉の残り火を見つめていた。
「……光る豆、か」
ぽつりと呟く。
その声音は、ライルを起こさないように抑えられていた。
火に照らされる横顔は穏やかで、しかし琥珀色の瞳には微かな緊張が宿っていた。
千年を生きてきた彼女は、村の誰よりも「異変」というものを見分ける力を持っている。
けれど今、彼女は深くは考えずに目を閉じた。
「……せっかくの暮らしを、脅かすものではないといいけれど」
外では、虫の声が途切れずに続いている。
風も静かで、枝が揺れる音すら聞こえない。
――なのに。
ふと、窓の外が青白く揺らめいた。
まるで月光が濃く降りてきたかのように。
あるいは森の奥から誰かが灯りを持って歩いてくるかのように。
セレスは一瞬だけ視線を向けた。
けれどすぐに、深く息を吐いて瞼を閉じる。
「……今は、眠りの時間ね」
その声は自分に言い聞かせるようであり、同時に、この小さな家に宿る安心を守る誓いのようでもあった。
焚き火の赤が小さくはぜ、残り火がゆっくりと沈んでいく。
その音に合わせるように、彼女の瞳からも張りつめた影が少しずつ消えていった。
◇
翌朝――。
「……んぁ」
俺は背伸びをしながら目を覚ました。
カーテン越しの光は柔らかく、朝の鳥の声が耳に心地よい。
台所からは、焼きたてのパンの匂いと、甘い果物の香りが漂ってくる。
「……おはよう、セレス」
「おはよう、ライル。いい朝よ」
彼女はいつものように、柔らかな笑みを浮かべていた。
卓上には、香ばしい黒パンと、煮詰めたベリーを乗せた白いチーズ、さらに昨日残った豆の煮込みを温め直したスープが並んでいる。
「……すごいな。朝からご馳走じゃないか」
「昨日、少し豆を取りすぎたからね。残り物を工夫するのも暮らしの知恵よ」
「いやいや……これを“残り物”って言うのは贅沢だろ」
思わず笑ってしまう。
クロは足元で「わんっ」と鳴き、パンの切れ端を催促している。
セレスが「だめよ、少しだけ」と言いながら小さな欠片を投げると、彼は器用に口で受け取って尻尾を振った。
温かな朝食。
けれど、その裏側で。
俺の心にはまだ、昨日の“光る豆”と、時折吹く冷たい風のことが引っかかっていた。
――あれは、本当にただの自然現象なのか。
だが、目の前で笑っているセレスと、はしゃぐクロを見ていると、胸のざわつきは少しずつ遠のいていった。
「……まぁ、今はいいか」
小さく息を吐き、黒パンを齧る。
香ばしい味とベリーの酸味が広がり、体の中が朝の光で満ちていくようだった。
外では村人たちの声が聞こえてきた。
今日も畑や市場の準備で、村はまた賑やかになるのだろう。
セレスは窓を開け放ち、光を招き入れる。
「さぁ、今日も畑に行きましょう。昨日の続きがあるわ」
「ああ」
頷きながら、俺は立ち上がった。
青空の下で、また一日が始まる。
その裏で――森の奥に佇む淡い光が、誰にも気づかれずに瞬いていた。
今回の話では「食卓の豊かさ」と「森の光る影」という二つの要素を重ねました。




