井戸端の笑い声と、小さな影
井戸の修繕に参加し、村人たちと汗を流すライル。
子どもたちやクロの笑い声に包まれて、王都では味わえなかった温かさを感じる。
けれど、その穏やかな日常の隙間から――森の方に、冷たい影が忍び寄っていた。
朝露を含んだ土の匂いが広場いっぱいに漂っていた。
今日は井戸の修繕の日。村の人々は早くから集まり、桶や縄、石を運び込んでいる。掛け声が交わされ、空気には活気が満ちていた。
「ライル、こっちに来てくれ!」
日焼けした村人が、笑いながら手を振る。
「はい! 今行きます!」
思わず背筋を伸ばし、両手で桶を抱える。重さはあるが、不思議と気持ちが軽い。王都にいた頃は、命じられて動くことばかりだった。だがここでは、「一緒にやる」という響きが胸に心地よく残る。
ふと横を見ると、セレスが木陰に立ち、修繕の様子を眺めていた。銀の髪が朝の風を受けてふわりと揺れ、琥珀の瞳は柔らかな光をたたえている。
「井戸は暮らしの命脈だから、大事にしなくちゃね」
「……確かに。水がなきゃ畑も干上がるし、人も困る」
「そういうこと。弟子の勉強にもちょうどいいわ」
からかうように微笑まれ、思わず苦笑する。
石を積み直し、桶を並べる。泥だらけになりながらも村人たちと息を合わせると、胸の奥に奇妙な一体感が生まれる。
「ほら、いい手だな! 王都帰りにしては悪くない」
「い、いや……俺なんかまだまだで……」
顔が熱くなる。褒められることに慣れていないせいで、言葉が上手く返せない。だが心の奥は、不思議と嬉しさで満たされていた。
その横で、クロが子どもたちに混じって駆け回っている。
「わんっ!」
子どもたちは泥団子を投げ合い、クロはそれを追いかけて跳ね回る。笑い声が井戸端に広がり、作業の重さを忘れさせた。
――この空気こそ、俺が欲しかったものだ。
だが、その賑わいの中で。
ひとりの子どもが小さな声でつぶやいた。
「ねぇ、昨日の夜……森のほうで光ってる影を見たよ」
空気が一瞬止まった。
子どもの声に、大人たちが顔を見合わせる。
「……光る影?」
「夢でも見たんだろう」
日焼けしたおじさんが笑い飛ばす。だがその笑いは、どこか固い。
セレスは井戸の縁に腰を下ろし、子どもの目線に合わせて静かに問いかけた。
「どんなふうに光っていたの?」
「えっと……木の間から、青白い光がふわっと。風みたいに流れて……でもすぐ消えたの」
子どもの表情は真剣そのものだった。嘘をついているようには見えない。
俺の胸に、ざわりとした感覚が走る。
――昨日の夜、確かに森から吹いた冷たい風を感じた。
「セレス……」
思わず小声で呼ぶ。だが彼女は軽く首を横に振り、普段通りの微笑みを浮かべた。
「きっと蛍が群れていたのよ。この季節なら珍しくないもの」
村人たちは安堵したように笑い、再び作業に戻っていった。
けれど俺は見逃さなかった。セレスの指先が、ほんの少しだけ強張っていたことを。
クロは子どもの足元に寄り添い、「わんっ」と鳴いて空気を和ませる。
無邪気な声が広場に広がるが、俺の胸のざわつきは消えなかった。
「……ライル」
セレスが視線をよこし、小さく微笑む。
「気にしすぎないこと。それより、もう少し石を運んでくれる?」
「あ、ああ」
俺は再び石を抱え、村人たちの輪に戻る。
笑い声は広場を満たしていた。けれどその奥で、俺の耳だけに「ざわり」と枝の揺れる音が聞こえた気がしてならなかった。
石を積み直し、桶を並べ終えると、村人たちはそれぞれ手を洗い、喉を潤してひと息ついた。
井戸から汲み上げられる水は、陽光を反射してきらきらと輝いている。
汗と土にまみれた手を洗うと、冷たさが心地よく、全身に染みわたるようだった。
「はぁ……服が汗で張りつくな」
額の汗をぬぐいながらつぶやくと、クロが尻尾を振って駆け寄ってきた。
「おい、鼻で押すなって!」
泥だらけの鼻先で足をつつかれ、慌てて拭うと、子どもたちが笑い声を上げて水をかけてくる。
「ライルも泥だらけにしちゃえ!」
「や、やめろって!」
冷たい水が顔に飛んできて、思わず声をあげる。気づけば俺も泥と水にまみれ、子どもたちと一緒になって笑っていた。
その様子を少し離れた場所から眺めていたセレスの姿が目に入った。
銀髪を朝風に揺らしながら、どこか懐かしそうに微笑んでいる。
彼女は静かに呟いた。
「……千年前も、こうして笑い合う村があったわね」
俺には届かないほど小さな声。だが、その横顔に一瞬だけ影が差したのを見た気がした。
「ライル、そろそろ片付けを始めましょう」
声をかけられ、桶や籠を並べ直し始める。石の粉が指先にざらりと残る。
そのとき――視界の端で何かが揺れた。
森の縁。
木立の影の中に、淡い光がふわりと漂った気がした。
息を呑み、目を凝らす。だが次の瞬間には、ただの木漏れ日しか残っていない。
「……また、か」
心臓が強く打つ。
「ライル?」
背後からセレスの声。振り返ると、彼女は穏やかに微笑んでいた。
だがその瞳の奥で、ほんのわずかに影が揺れている。
「……いや、なんでもない」
言葉を飲み込んで再び片付けに戻る。
太陽はじりじりと傾き、広場の作業は一区切りを迎えた。村人たちは水を汲み、汗をぬぐいながら笑い合っている。
「ふぅ……やっと終わったな」
重い石を抱え直し、腰を伸ばすと骨の奥まで疲労が広がる。けれどそれ以上に、不思議な達成感が胸にあった。
夕暮れが近づき、焚き火の煙が広場に漂い始める。
村人たちは残った野菜やパンを持ち寄り、自然と即席の食卓を広げていった。
「ライル、こっちへ来な!」
呼ばれ、腰を下ろす。焼きたてのパンと煮込みが木皿に盛られて差し出された。
「ありがとうございます……いただきます」
ひと口かじると、素朴な味が口いっぱいに広がる。
王都の料理とはまるで違う。けれど、その温かさは心の奥に沁みていく。
「……うまい」
思わず声が漏れると、隣に座ったセレスがくすりと笑う。
「ね? ここでしか味わえないものよ」
クロは子どもたちに囲まれ、野菜の欠片をもらって尻尾をぶんぶん振っていた。
「わんっ!」
元気な鳴き声に、広場のあちこちで笑い声が弾ける。
だがその瞬間。
森の奥から、ひやりとした風が吹き込んできた。
焚き火の煙が揺れ、灯りがかすんで見える。
「……今の風」
俺は顔を上げ、森の縁を見つめる。だが木々の影が揺れているだけで、他には何もない。
セレスも同じ方を見ていた。
けれど彼女はすぐに目を伏せ、穏やかな笑みを浮かべる。
「気にしなくていいわ。今は食事を楽しみましょう」
頷くしかなかった。
だが胸のざわつきは、夕暮れの風とともに残り続けていた。
夜が訪れる頃、広場の賑わいも落ち着いてきた。
村人たちは焚き火の周りで最後の片付けをしながら、互いに声をかけ合い、それぞれの家へと帰っていった。
木の器を手にしたまま笑い合う声が遠ざかり、やがて広場には、焚き火の赤い火と虫の声だけが残った。
俺とセレスとクロも、籠を抱えて畑道を通って家へと向かう。
「……今日は、思った以上に働いたな」
肩をぐるりと回すと、じんわりと骨の奥にまで疲労が残っているのを感じた。
クロはまだ元気いっぱいで、月明かりに照らされた道を跳ねるように駆け回っている。
「でも、あなたの顔は楽しそうだったわ」
セレスが静かに言った。
「……ああ。気づけば笑ってた。王都じゃ、こんな風に皆と一緒に手を動かして、飯を食うことなんてなかったからな」
「ふふ。そういう顔が見られるなら、私も嬉しい」
言葉に不思議と胸が熱くなる。
この村での暮らしは、少しずつ俺を変えているのかもしれない。
やがて、家の灯りが見えてきた。
木の壁から漏れる橙色の明かりは、帰ってきた者を優しく迎えるように揺らめいている。
中に入ると、暖炉には火がともり、部屋の中は木の香りと炎の匂いに包まれていた。
セレスは籠を台所に置き、手際よく布をまとめると、俺に水差しを渡してきた。
「ほら、飲んで。疲れが和らぐわ」
「ありがと」
ごくごくと飲み下す。冷たい水が喉を通るたびに、体の芯がじんわりと緩んでいくのが分かる。
「……ふぅ、助かる。祭りじゃないのに、結構な重労働だったな」
「でも、あなたの顔は楽しそうだったわよ」
「……ばれてたか」
気恥ずかしくて苦笑する。けれど彼女の言葉は責めるようなものではなく、柔らかな響きを持っていた。
セレスは森で摘んだベリーを籠から取り出し、鍋に火をかける。
刻んだ根菜と肉を加え、甘酸っぱい香りが部屋に広がっていく。
クロが机の下で鼻をひくひくさせ、尻尾をぶんぶん振って今にも飛び出しそうな勢いだ。
「クロ、落ち着きなさい。あなたの分もちゃんとあるから」
「わん!」
元気な声が響き、思わず俺も笑ってしまう。
鍋から立ち上る湯気の向こうで、セレスが木の匙でかき混ぜる。
じゅう、と香ばしい音が立ち、果実の酸味と肉の旨みが絡み合った匂いが空気を満たした。
腹の虫がぐぅと鳴り、クロまで「わんっ」と鳴いて俺の気持ちを代弁する。
「……やっぱり、これが一番だな」
「何が?」
「こうして畑で働いて、帰ってきて、みんなでご飯を作る……それだけで贅沢だ」
「ふふ、そうね。千年生きても、そう思えることは変わらないわ」
セレスは一瞬だけ遠くを見るように目を伏せた。
その表情には、ほんのわずかに影が差した気がした。
けれどすぐに微笑みを戻し、味を確かめる。
クロが机の下から顔を出して「わん」と鳴いた。
まるで「それでいいじゃないか」と言っているようで、自然と頬が緩む。
やがて木皿に盛られたベリー入りの煮込みは、赤紫色が鮮やかで、見ているだけで食欲をそそる。
匙を口に運ぶと――柔らかく煮込まれた肉と野菜にベリーの酸味が絶妙に絡み合い、疲れた体にすっと染み込んでいく。
「……っ、うまい!」
声が漏れると、セレスは目を細めて微笑んだ。
「よかったわ。今日一日、よく働いたご褒美ね」
クロも用意された小皿に夢中でかぶりつき、鼻先にスープをつけながら「わん、わんっ!」と大忙しだ。
「ほら、クロ。落ち着けって」
布で拭いてやると、彼は満足げに尻尾を振り続けた。
パンをちぎってスープに浸しながら、俺は思わず言った。
「王都の料理とは全然違うよな。豪華さはないけど……なんというか、まっすぐな味がする」
「それはきっと、“作る人の顔”が見えるからよ」
セレスはそう言って、俺をまっすぐ見つめた。
その視線に、胸の奥が熱くなる。
「……そうかもしれないな」
返すと、彼女はふっと笑みを深めた。
暖炉の火がぱちりと音を立て、小さな家の中に柔らかな影を落とす。
外では森を抜ける風が梢を揺らし、遠くフクロウの声が響いた。
――不思議と安らぐ時間。
けれどその風の音に混じって、ほんの一瞬だけ、冷たい気配がかすめた気がした。
それでも今はただ、この温かな食卓を噛みしめていた。
夕餉を終え、片付けを済ませると、家の中はしんと静まり返った。
暖炉の火は少し小さくなり、薪の赤い残り火がかすかに揺れている。
窓の外からは虫の声と森を渡る風の音が混じり合い、夜の深まりを告げていた。
クロは机の下で丸くなり、すでに夢の中だ。尻尾がときおりぴくりと動き、小さな寝息が聞こえる。
俺は寝台に腰を下ろし、汗をかいた体をようやく落ち着けながら天井の木目を見つめていた。
……村に来てから、こんな風に穏やかに一日を締めくくる夜が増えた。王都では決して味わえなかった安らぎだ。
ふと視線をやると、セレスが窓辺に腰を下ろしていた。
ランプの灯りに照らされた銀髪が月明かりを吸い込むように淡く光り、手にはまだ閉じられていない古い本がある。
けれど彼女の瞳は文字ではなく、夜空の向こうを見ているようだった。
「なぁ、セレス」
思わず声をかける。
「もし……今日みたいに、また危ないことに巻き込まれたら……お前はどうするんだ?」
彼女は本から視線を外し、しばし沈黙ののち、ゆっくり振り返った。
琥珀色の瞳が、炎の残り火に照らされて柔らかく揺らめく。
「そのときは――私が全部引き受けるわ」
「……簡単に言うなよ」
苦笑する。だが胸の奥に広がった不安は、少しだけ和らいでいた。
「簡単じゃないわ。でも、千年生きた魔女として約束できるのは、それくらいなの」
静かに告げる声は、凛とした強さを秘めていた。
その横顔を見ていると、炎の影が彼女の背後に幾重にも重なり、まるで千年分の時を背負っているように思えた。
俺は小さく息を吐き、寝台に身を沈めた。
瞼が重くなるなかで、土の匂いと焚き火の温もりが心を包む。
……その間際に、かすかな声が耳をかすめた。
「……因果の揺らぎは、確かに近づいている」
半分眠りに落ちていたせいで、それが夢か現かも分からない。
ただ、胸の奥に残ったのは“何かが迫っている”という奇妙な確信だった。
外では、森を渡る風が梢を揺らし、フクロウの声が短く響いた。
穏やかな夜に混じるその音が、どこか遠い不吉さを含んでいるように思えた。
翌朝。
鶏の声に目を覚ますと、窓の外は薄い朝霧に包まれていた。白い靄が畑の苗を覆い、葉先からは水滴がぽたりと落ちる。
「ん……」
伸びをして外をのぞけば、畑にはすでにセレスの姿があった。銀の髪を後ろで束ね、いつもの麻の作業着姿で鍬を振るっている。
その横でクロが元気に駆け回り、ときどき土を掘って怒られていた。
「おはよう、ライル」
セレスが軽く手を振る。
「昨日の疲れは残っていない?」
「いや、大丈夫だ。むしろ寝すぎたかもしれない」
そう答えると、彼女はふっと微笑んだ。
鍬を持って畑に出ると、湿った空気が肺に染み込み、頭がしゃんとする。
クロがこちらに駆け寄り、跳びつくようにして「わん!」と鳴いた。
「おい、泥だらけで突っ込むなって!」
慌てて押さえると、セレスがくすりと笑った。
「今日はね、少し森の縁を歩いてみようと思うの」
彼女の言葉に足が止まる。
「……石碑のこと、調べるつもりか?」
問いかけると、彼女は一瞬だけ目を細めた。
「そうね。ただの古い碑ならそれでいい。でも……確かめないといけないわ」
その声音は穏やかだったが、奥底に確かな決意を含んでいた。
クロが「わん!」と吠えて、俺の足元に飛びつく。
「お前も行くつもりか……ったく」
苦笑しながら抱き上げると、セレスが籠を差し出してきた。
「途中で薬草も摘むわ。ライル、あなたは私の護衛役よ」
「護衛ねぇ……まぁ、弟子の仕事だろ?」
「ええ、立派な弟子の仕事」
楽しげに笑うその顔に、昨夜の緊張が少しだけ和らいだ。
それでも胸の奥には、冷たい影の残滓が残っている。――あの石碑に刻まれていたものは何だったのか。
朝露に濡れた森の小道を進むと、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
草葉の露がきらめき、鳥の羽音が枝を揺らす。
セレスはしゃがみ込み、鮮やかな青い花を指先で撫でる。
「これは“星露草”。昨日も見かけたけれど、今日は薬草として摘んでいきましょう」
「薬草にもなるのか」
「ええ。煎じれば熱を下げるし、乾かして袋に詰めれば眠りを整えるの」
その仕草は、千年生きた魔女というより、ただの村の娘のようで――不思議と胸が落ち着いた。
クロはというと、小さな茂みに鼻を突っ込み、土を掘っては「わん!」と吠えていた。
「こらクロ、また畑と同じことするな」
慌てて引き止めると、彼は短く吠えて森の奥を見つめる。
……ざわり。
枝葉がひとりでに揺れた気がした。だが次の瞬間には風も止み、ただ静寂が広がる。
「ライル」
セレスの声が低く響く。
「心配しなくていいわ。森は生きているもの。ときにこうして“囁く”の」
「……それが、因果の揺らぎってやつか?」
問いかけると、彼女はふっと微笑んだ。
「かもしれないし、ただの風かもしれない。大事なのは――あなたが怯えて立ち止まらないこと」
その言葉に、肩の力が少し抜ける。
クロが尻尾を振りながら俺の足元にじゃれつき、緊張をあっさり吹き飛ばした。
薬草を摘み終え、森の小道を戻る。
村に近づくと、パンを焼く匂いが風に乗って漂ってきた。
「お腹、すいたな……」
つい漏らすと、セレスがくすくす笑った。
「じゃあ、摘んだ星露草でハーブスープを作りましょう。パンにも合うはずよ」
「お、いいな」
クロも「わん!」と賛同するように吠えた。
家に戻り、鍋でハーブを煮出すと爽やかな香りが広がる。
焼きたてのパンをちぎって浸すと、ほんのりとした苦味と香りが疲れを癒やしてくれた。
外の森に影が潜んでいるかもしれない。
けれど、この食卓に広がる温もりは確かに“ここに生きている”証だった。
俺はパンを口に運びながら、胸の奥で静かに思った。
――今は、この暮らしを守りたい。
クロが机の下で尻尾をぶんぶん振り、セレスが柔らかく笑う。
そんな穏やかな風景が、今日という一日をやさしく締めくくっていた。
夜が訪れると、村は静けさに包まれた。
外からは虫の声が絶え間なく響き、時折、遠くの森でフクロウの声が短く重なる。家の中は暖炉の灯りに照らされ、オレンジ色の揺らめきが木の壁を染めていた。
クロは机の下で丸くなり、すでに夢の中。小さな寝息に合わせて尻尾がぴくぴくと揺れ、時折「くぅん」と寝言を漏らす。
俺は寝台に腰を下ろしながら、ぼんやりと天井を見つめていた。今日一日、井戸の修繕を手伝い、村人たちと笑い合った疲れが、まだ骨の奥に残っている。
けれど、その疲労は不快ではなかった。むしろ――心地よい。王都では感じられなかった種類の疲れだ。
「……ライル」
ランプの灯りの下、机に本を広げていたセレスが顔を上げた。銀髪がさらりと流れ、琥珀色の瞳が静かに揺れる。
「今日はよく働いていたわね。村の人たちとも、ずいぶん打ち解けてきた」
「はは……まぁ、褒められるとこそばゆいな。俺なんか、まだまだ頼りないよ」
「いいえ。人と一緒に手を動かして、同じ食卓を囲む。それがどれほど大切か、あなたはちゃんと気づいている」
彼女の言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
王都にいた頃、俺は誰かと肩を並べて作業をすることが苦手だった。人の視線が怖く、どこかで自分を縮めていた。
だがこの村では、汗だくで石を運び、泥だらけで笑い合うことが自然にできた。
「……セレス」
思わず声が漏れる。
「ん?」
「もし……また、森で妙な影を見たりしたら、どうすればいい?」
昼間、子どもが口にした“光る影”。それが頭から離れなかった。
セレスは少しの間沈黙し、やがて本を閉じた。
「恐れすぎなくていいわ。でも、無視しても駄目。気づいたら必ず私に伝えて」
「……わかった」
彼女の声音は穏やかだったが、瞳の奥に一瞬だけ揺るぎない強さが宿っていた。
その力に触れると、不安が少しだけ和らいでいく。
外の風がざわりと窓を揺らす。
俺は思わず顔を上げた。月明かりに照らされた畑の先、木立の影がふっと動いたように見える。
「……っ」
背筋に冷たいものが走る。
立ち上がろうとした俺の肩に、セレスの手がそっと置かれた。
「ライル」
「……お前も気づいたのか」
「ええ。でも今は……窓を閉めて休みましょう」
その声は普段通りの穏やかさを帯びていた。けれど奥底には、細い糸が張り詰めるような緊張が潜んでいる。
俺は頷き、窓を閉め、カーテンを引いた。
視界から影が消えても、胸のざわめきは残ったままだった。
クロが寝返りを打ち、「くぅん」と小さく鳴く。その無邪気な声に、わずかに肩の力が抜ける。
――だが確かに、何かがこちらを見ていた。
その確信だけが、静かな夜に残り続けていた。
寝台に横たわり、薄暗い天井を見つめる。
薪のはぜる音、セレスの静かな気配、クロの寝息。すべてが日常の証であり、心を落ち着けるはずのものだ。
けれど瞼を閉じても、昼間の子どもの声が耳に蘇る。
――「森のほうで、光ってる影を見た」
その言葉と共に、胸の奥に冷たい棘が刺さる。
俺は深く息を吐き、心の中でそっとつぶやいた。
――それでも、この暮らしを守りたい。
静かな夜。
森を渡る風が梢を揺らし、遠くでフクロウが鳴く。
穏やかな音に紛れるように、どこか不穏な響きが混じっている気がして――俺はなかなか眠りに落ちることができなかった。
夜が更け、村はしんと静まり返っていた。
家々の灯りは消え、外を歩くのは虫や小動物の気配ばかり。月明かりが畑を照らし、露をまとった葉が銀色に輝いている。
俺は寝台に横たわりながら、どうしても眠りに落ちきれずにいた。
クロの寝息は規則正しく、セレスも机に肘をつきながら静かに本を読んでいる。
けれど俺の胸の奥には、昼間の光景と森の影が、何度も反芻されて離れなかった。
――森の縁に漂った、淡い光。
子どもが言った「光る影」。
それがただの蛍ならよかった。だがどうしても、そう思い切ることができない。
「……セレス」
意を決して声をかけると、彼女は本から目を離し、穏やかな瞳をこちらに向けた。
「眠れないのね」
「ああ。……もしさっきのが、本当に“揺らぎ”なら……」
「ライル」
言葉を遮るように、彼女は微笑んだ。
「答えを急がなくていいの。大事なのは、目の前の暮らしを一つずつ守ること」
彼女の声は柔らかく、胸にじんわりと染み込む。
それでも、完全に安心しきれるわけではなかった。
「……でも、いつかは、向き合わなきゃいけないんだろ」
「ええ。けれど、それは今日じゃない」
セレスはそう言って窓に視線を向けた。
俺もつられて窓の方を見る。
月の光に浮かび上がる森の稜線。
――その奥で、淡く青白い光がふわりと揺れた。
「っ……!」
思わず身を起こすが、次の瞬間には光は掻き消え、ただの闇が残るばかり。
「今の……見えたよな」
俺の声は震えていた。
セレスは短く息を吐き、ゆっくり頷く。
「ええ。けれど恐れる必要はないわ。因果の揺らぎは、私たちに害をなす存在そのものではない。ただ……世界の“歪み”のようなもの」
「歪み……」
「そう。誰かが歩いた痕跡が道に残るように、長い年月の出来事が痕を残してしまうことがある。それが形になって見えるとき、人は“影”と呼ぶの」
彼女の言葉は理解できるような、できないような曖昧さを含んでいた。
それでも、ただの蛍ではないという確信だけは強くなる。
「……じゃあ、どうすればいいんだ」
「暮らすこと。畑を耕し、ご飯を食べ、眠ること。それが一番の答えになるわ」
そう言って、セレスは立ち上がり、窓を閉めてカーテンを引いた。
「影に心を奪われないで。私たちが生きているのは、この家の中、この食卓、この日常なのだから」
彼女の声に、ようやく呼吸が落ち着いていく。
クロが寝返りを打ち、柔らかい鳴き声を漏らした。
その音に救われるように、俺は再び寝台に横たわる。
「……ありがとう」
呟くと、セレスは小さく頷き、再び本を開いた。
ランプの灯りに照らされた横顔は、月明かりよりも静かで、どこか永遠を宿しているように見えた。
瞼を閉じると、眠気がようやく戻ってきた。
――畑の匂い、暖炉のぬくもり、食卓の笑い声。
それらを胸の奥に思い描きながら、意識がゆっくりと沈んでいく。
だが、夢へ落ちるその境目で。
耳の奥に、かすかな囁きが届いた気がした。
――「まだ終わらない」
はっと目を開けても、部屋にはセレスの静かな気配と、クロの寝息しかない。
心臓が強く打ち、汗が額を伝う。
……気のせいか?
そう思い込もうとしながらも、その言葉の残響はしばらく消えなかった。
夜は深まり、森の影は静かに揺れ続けていた。
そして俺の胸の奥にもまた、小さな揺らぎが確かに根を下ろしていた。
今回は「井戸の修繕」を通して、村の共同作業や人との繋がりを描いてみました。
褒められて照れるライルや、泥だらけになってはしゃぐ子どもたちとクロ。
そんな場面に、ほんの少しだけ“因果の揺らぎ”の気配を差し込んでいます。
読んでいてほんわかする空気を大切にしつつ、森の影が少しずつ近づいている――
そんな緩やかな緊張感を感じてもらえれば嬉しいです。
次回も「暮らし」と「揺らぎ」の両方を大事に描いていきます。




