小麦粉まみれの台所と、笑顔の食卓
のんびりとした日常の中にも、ちょっとした事件や笑いがある。
今回は台所でのドタバタと、その先にある温かな食卓を描きました。
ライルとセレス、そしてクロが織りなす暮らしのひとコマを楽しんでいただければ幸いです。
朝の台所は、窓から射し込む光で白く満ちていた。棚の陶器に水面のような反射が走り、梁から吊ったハーブの束が風に揺れて微かな影を床に落とす。外では畑の畝を撫でる風がさらさらと鳴り、クロが庭の小道を小走りに往復しては、たまに鼻を鳴らしてこちらの様子をうかがった。
「今日は畑も一段落したし……パンを焼きましょう」
粉袋を抱えたセレスが現れる。黒衣ではなく、薄い麻のエプロンに袖を通し、銀髪を首元でひとつにまとめている。魔法の準備ではなく、暮らしの支度。そう思うだけで、胸のどこかがふっと軽くなった。
「パン? 昨日市場で買ったやつじゃなくて?」
「ええ、今日は“私たちの”パンよ。粉と水と塩と、少しの酵母。あとは手と時間」
琥珀の瞳が笑う。買うものだとばかり思っていたパンが、ここでは作るものに変わる。その単純な事実が、王都で固くなっていた思考のどこかをゆるめた。
「正直、料理は得意じゃないけど」
「こねる力はあなたのほうがあるわ。大丈夫、私が隣にいる」
その言い方がなんだか可笑しくて、俺は肩をすくめた。「師匠に恥をかかせるわけにはいかないしな」
「頼もしいこと」
テーブルに粉袋、木の匙、塩壺、陶器の水差し、蜂蜜の小瓶、乾いた酵母を入れた小皿が並ぶ。秤はない。セレスは指で弧を描くように粉を山にして、中央に井戸を掘るみたいな凹みを作った。「このくらい。季節と粉の顔で変わるけれど、今日は乾いているから水は気持ち多めに」
手を洗い、袖を捲る。クロが足元で「わん」と短く鳴いた。「お前は見学だぞ」と言うと、尾が床を小気味よく叩いた。
粉の白に水の透明が触れ、境目が淡い乳色に溶けていく。塩をひとつまみ、蜂蜜を匙の先で垂らし、酵母を雨粒みたいに散らす。セレスは俺の手首を取って、ゆっくりと円を描かせた。「最初は混ぜるんじゃなくて、出会わせるの。勢いで砕くと粉が怒るわ」
「粉が怒る?」
「ええ、こうして触っていると分かってくる」
指先にまとわりつく湿りが、次第に重みへ、そして張りへと質を変える。粘りが糸を引き、掌に生地の呼吸みたいな弾みが生まれる。ほんの数分なのに、体のどこか別の筋肉を起こされた気がした。
「王都では、パンは店で買うものだった」
「ここでは、朝を捏ねるの」
ふっと言葉が落ちる。何でもない調子なのに、妙に腑に落ちた。彼女は魔法で火を点すように、水差しの滴を生地に一滴ずつ足し、粘りを均す。その所作は呪文より静かで、呪文より確かだった。
「粉の香り、嗅いでみて」
鼻先を近づけると、乾いた麦の甘さに井戸の冷たさが混じる。遠い畑が湯気になって立ちのぼるみたいだ。「……うまそうな匂いだな」
「もう半分はできているわ」
「半分?」
「お腹が空くこと。あとは手を動かすだけ」
こね鉢を替え、台に打ち粉をふる。セレスが掌の付け根で押し、端を折り返す見本を見せる。無理に力をかけず、体重を預ける。押す、引き寄せる、折る、向きを変える。呼吸と足裏の重心が合うと、動きが勝手に連なった。掌に伝わるわずかなざらつきが、次第になめらかに変わっていく。
「そう、それ。生地が“もう少し”って言ったら、もう一回だけ。我慢して二回はやらないこと」
「喋るのか、こいつは」
「触れば分かる。あなたは覚えが早いわ」
庭の風鈴が一度だけ鳴った。クロは陽の筋の中で丸くなり、尻尾だけを揺らす。粉の白と木の茶色と、ハーブの緑と、窓から落ちる光の金色。世界は色を抑え、手の中の生地だけが確かな温度で脈打っていた。
「よし、布をかけましょう。発酵のベッドは暖炉の近くがいい」
布をそっと被せる。まだ頼りない塊に見えるのに、もう内側で何かが目を覚ましているのが分かる。時間を渡す、という行為を、掌が理解しはじめていた。
「待つのも仕事だな」
「ええ。待つ間に台所を整えて、次の火の段取りを考える。暮らしは、間の仕事でできているの」
布の膨らみを横目に、セレスは水差しを満たし直し、窯の灰をならして温度を計る。俺は濡れ布巾で粉を拭き取り、道具を元の場所に戻す。王都で覚えた段取りとは似て非なるリズム。急ぐでもなく、弛むでもなく、必要な場所へ音が収まっていく。
「次に何をする?」と問うと、彼女は微笑んだ。「待つ。――それから、匂いを覚える」
――こうして、俺たちのパン作りの一日が始まった。
発酵を待つ時間は、台所の空気までやわらかくするようだった。
布をかけたこね鉢は、まるで眠る小さな生き物のように静かに膨らんでいく。俺はその隣に座り込み、額の汗を拭った。けれど、ただ待っているだけというのも落ち着かない。
「……これ、どのくらいで大きくなるんだ?」
「気温や粉の顔次第ね。今日はきっと一時間くらい」
セレスは腰を下ろし、手元でハーブの束をほどきながら答えた。窓から差し込む光に銀髪が揺れ、まるで季節そのものを纏っているように見える。
「一時間……俺にとっては長いな」
「待てないの?」
「いや、王都じゃ“待つ”なんて贅沢なことはあんまりなかったからさ」
そう口にすると、セレスは少しだけ瞳を細めた。
「だからこそ、ここで覚えてほしいの。時間を味方にする感覚を」
言葉が妙に胸に残った。
彼女が何気なく放つ一言は、いつも俺の心の奥を揺らす。
クロは床に寝そべり、鼻先を鉢の近くに寄せている。時折「ふすっ」と音を立て、まだ焼けていない生地の匂いを不思議そうに嗅いでいた。
「お前、気が早いぞ。まだ食えるもんじゃないからな」
そう笑うと、セレスまで小さく吹き出した。
「クロにとっては、この時間もご馳走なのよ。匂いや音を感じることが、彼らにとっての“味わい”だから」
「なるほどな……俺より賢いかもしれない」
「そうね」
あっさり肯定され、思わず言葉を失う。けれど、その笑顔が心地よくて、反論する気もなくなった。
やがて布をそっとめくると、生地は見違えるようにふくらんでいた。指で押すと、ゆっくりと沈んで、また少しだけ戻ってくる。
「……すげぇ」
思わず声が漏れる。
「ね? 生きているでしょう」
「本当に生き物みたいだな」
セレスは小刀を手に取り、ふっくらした生地の表面に軽く切れ目を入れていく。
「これは模様じゃなく、呼吸の通り道。そうしないと、窯の中で苦しくて破裂してしまうから」
「呼吸……」
「人も同じよ。閉じこめられると壊れてしまう。だから道を残しておくの」
その言葉に、不意に胸がざわついた。王都で押しつぶされるように働いていた頃のことが頭をかすめる。出口が見えなくて、ただ必死に耐えていた日々。
「……俺も、切れ目を入れてもらうべきだったかもな」
思わず漏らすと、セレスがこちらを見て、少しだけ柔らかく笑った。
「もう大丈夫よ。あなたはもう、この村で息をしている」
その声に、肩から力が抜けた。
クロがちょうどそのタイミングで「わんっ」と吠え、まるで会話に参加したみたいに尻尾を振る。俺とセレスは顔を見合わせ、同時に吹き出してしまった。
窯に薪をくべ、火を起こすと、ぱちぱちと乾いた音が響き始める。炎が赤々と揺れ、石窯の奥にゆらめく影を映した。熱がゆっくりと部屋に満ち、香ばしい予感が漂ってくる。
「さあ、いよいよ本番よ」
セレスの声は少し誇らしげだった。
生地を窯に入れると、部屋の空気が一段と引き締まる。待つだけなのに、鼓動が速くなる。
「なんか緊張するな」
「ふふ、焼き上がりは嘘をつかないから」
やがて窯の奥から、パン特有の甘い匂いがふわりと流れ出した。小麦と火が混じり合い、香りだけで腹の虫が鳴る。クロは落ち着きを失い、前足で床を掻いて「はやく、はやく」と催促していた。
「落ち着け、まだだ」
「ふふ、ライルまで子どもみたい」
「俺は理性で耐えてるんだ!」
そう強がるが、腹がぐぅと鳴って、セレスに笑われる。
やがて表面がこんがり色づき、パチパチと小さな音が弾ける。窯から取り出された瞬間、黄金色のパンが湯気を立てて輝いていた。
「……できた!」
湯気の立つ塊を切り分けると、外はぱりっと、内はもっちり柔らかい。
ひと口かじれば、小麦の甘みが舌に広がり、薪の香りが鼻に抜けていく。
「……うまい!」
思わず声が出る。
セレスも小さく頷き、微笑んだ。
「ええ。――これが“私たちの”パンよ」
クロに小さくちぎった欠片を渡すと、尻尾をぶんぶん振ってかじりついた。
粉にまみれて始まった一日は、こうして笑いと香ばしい匂いに包まれて幕を閉じていった。
焼きたてのパンを囲んだ昼下がり。
窓から差し込む光はやわらかく、外の畑には夏草の匂いが満ちていた。
テーブルの上には、黄金色に焼き上がったパンと、セレスが用意した野菜のスープ、ハーブを添えたサラダが並んでいる。
「――さあ、いただきましょう」
セレスが小さく手を合わせるように呟き、俺も慌てて真似をする。
「い、いただきます」
ひと口目に、熱々のパンをスープに浸して頬張った。
外側の香ばしさと、中の柔らかい生地にスープの旨みが染み込み、思わず目を見開く。
「……っ! やばい、うまい!」
「でしょ? 自分でこねた分、余計にそう感じるはずよ」
セレスは満足げに頷き、こちらの反応を楽しむように笑った。
クロも足元で「わんっ」と催促するので、小さくちぎって与えると、尻尾を振って嬉しそうにかじりついた。
「こいつが一番幸せそうかもな」
「いいじゃない。食卓は“誰と食べるか”が一番大事なのだから」
そう言いながら、セレスはハーブ茶を湯飲みに注ぎ、俺の前に差し出した。
琥珀色の液体から、ほんのりと甘い香りが立ち上る。
「これは?」
「レモンバームとカモミール。胃を休めるのにちょうどいいの」
ひと口飲めば、爽やかな風が体の奥を抜けていくようで、自然と肩の力が抜けていった。
食卓の会話は他愛もないものだった。
畑の苗がどこまで伸びたか、クロがまた靴を隠したこと、次に市場で買うべき保存食。
王都では考えられなかった――静かで、平凡で、それでいて心が満たされる時間。
「ライル」
ふいに名前を呼ばれ、顔を上げる。
セレスの瞳は、炎に照らされたときと同じ、どこか遠い光を宿していた。
「あなたがここで“食べている”姿を見ていると、少し安心するの」
「……安心?」
「ええ。生きている証だから」
一瞬、返す言葉を失った。
王都にいた頃、食事なんて義務のようなもので、ただ腹を満たすだけだった。味わう余裕もなく、笑う相手もいなかった。
――それが今は違う。誰かと一緒に、作り、食べ、笑っている。
「……ありがとな」
小さく呟くと、セレスはわずかに目を丸くして、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ふふ、どういたしまして」
食卓を片付けながらも、温かな余韻は消えなかった。
粉まみれになった台所も、クロの白い毛も、すべてが笑い話に変わっていく。
――そんな当たり前の時間が、胸の奥にじんわりと染み込んでいった。
夕暮れが近づくころ、窓の外は茜色に染まり、畑に長い影が落ち始めた。
セレスは食器を拭きながら、ふと窓の外に目を向ける。
「ねぇ、ライル。今夜は外で火を焚いて、焼き立てパンをみんなで食べるのもいいかもしれない」
「みんなで?」
「ええ。村の人たちを呼んでね。きっと喜ぶわ」
そう言う彼女の横顔は、穏やかでありながら、どこか寂しさを隠しているようにも見えた。
俺は言葉を飲み込み、ただ頷いた。
この村の日常は、彼女にとって長い時間の中で積み重ねられた一瞬にすぎないのかもしれない。
けれど俺にとっては、確かに生き直すための大切な一日だった。
クロが「わんっ」と吠えて飛び出し、夕暮れの光に包まれて跳ね回る。
その姿を眺めながら、俺も自然と笑みをこぼした。
――パンの香りと、暮れゆく光の中で。
胸の奥に広がる充実感は、どんな宴よりも豊かだった。
夜の帳が村に降り始めるころ、庭先に焚き火を用意した。
薪を組み、火打石を鳴らすと、ぱちぱちと乾いた音を立てて炎が立ち上がる。
オレンジ色の光が闇を押し返し、台所から漂うパンとスープの匂いと混じり合った。
セレスは用意していた籠を持ち出し、テーブル代わりの丸太に布を敷いた。
その上には、さきほど焼いたパンの残りや、畑で収穫した野菜を使った煮込み、チーズの盛り合わせが並んでいく。
「ふふ、まるで小さな宴ね」
「……いや、十分豪華だと思うけどな」
素直にそう言うと、セレスは柔らかく笑った。
やがて村からも数人が顔を出した。子どもを連れた家族、仕事を終えた農夫、そしてラーナが焼き菓子を持って現れる。
「セレス様が声をかけてくださったって聞いてね。まさか“魔女の庭先”で宴をする日が来るとは!」
豪快に笑うラーナに、他の村人たちもつられて笑い声をあげる。
俺は少し緊張していたが、クロが人々の足元を走り回って場を和ませてくれた。
「わんっ、わんっ!」
子どもたちが歓声をあげ、パンのかけらを差し出すと、クロは得意げに尻尾を振って受け取る。
「お兄ちゃん、クロってすごく賢いね!」
「はは……いや、食べ物に釣られてるだけかもしれないぞ」
そんなやりとりに、場の空気が一層柔らかくなっていった。
セレスは火のそばに座り、皆に茶を振る舞う。
湯気の立つ薬草茶は、昼間とは違いほんのりと甘みが強く、夜の冷えをやさしく包み込む。
「今日一日、ありがとう。――こうして皆で食卓を囲めるのは、本当に幸せなことね」
その声に、村人たちは口々に頷き、杯を掲げた。
俺は焚き火を見つめながら、王都での夜を思い出していた。
あちらでは、灯火は冷たい石畳に映るばかりで、人々は互いに肩をぶつけ合い、口論ばかりだった。
笑い合いながら一つの炎を囲むことなど、想像すらできなかった。
「ライル」
隣でセレスが小声で呼ぶ。
「あなた、いい顔をしてるわ」
「……そうか?」
「ええ。肩の力が抜けて、ちゃんと“村の一人”になっている」
その言葉に胸が温かくなる。
まだ不安はある。エルンストの言葉も、森の影も心に残っている。
だが、今この瞬間だけは確かに――俺は居場所を見つけていた。
「ライル兄ちゃん、踊ろう!」
子どもたちに手を引かれ、焚き火の周りを走らされる。
足がもつれて転びそうになると、村人たちが笑い、セレスがそっと支えてくれた。
「ふふ、やっぱり不器用ね」
「うるさい……!」
照れ隠しに言い返すと、彼女はくすくす笑って首を振った。
やがて歌声があがり、夜空に響いていく。
誰かが太鼓を叩き、誰かが笛を吹く。即興の宴は、火の粉と笑い声に包まれて広がっていった。
俺はふと空を仰いだ。
満天の星々が瞬き、炎の光に照らされていっそう輝いて見える。
「……きれいだな」
その呟きに、セレスが隣で同じ空を見上げる。
「ええ。千年のうち、何度も見てきたけれど――毎回違って見えるものよ」
彼女の声は、夜空と同じくらい静かで深かった。
俺は言葉を失い、ただ横顔を見つめる。
千年という時間を背負った彼女と、やっと村に馴染み始めた俺。
その距離の大きさに戸惑いながらも、不思議と心は安らいでいた。
焚き火の炎がぱちぱちと弾ける。
その音に混じって、未来へのざわめきがほんの少し胸を揺らした。
――けれど今は、この炎と、この笑い声を胸に刻んでおこう。
焚き火の宴がひと段落し、村人たちがそれぞれの家へと戻っていった。
火の残り火が赤く揺れる中、庭先に残ったのは俺とセレスとクロだけ。夜風が吹き抜け、粉まみれの一日がようやく静かに締めくくられようとしていた。
「……にぎやかだったな」
俺がつぶやくと、セレスは頷きながら火の残りに小枝を足す。
「ええ。昔からそう。村の人たちは、何かと理由をつけて集まるのが好きなのよ。収穫でも、誕生日でも、ただ月がきれいだからって夜に踊ることもある」
「都会じゃ考えられないな。王都の宴は、誰が高い椅子に座るかで揉めてばかりだった」
苦笑交じりに言うと、セレスは目を細めた。
「だから、あなたにはこの村が合っていると思う。肩書きよりも、笑顔や汗を見て人を認めるから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
けれど同時に、昼間のエルンストの言葉が脳裏をよぎった。――“因果の揺らぎ”。
俺は薪のはぜる音を聞きながら、ぽつりと口を開いた。
「なぁセレス……エルンストが言ってた“揺らぎ”って、なんなんだ?」
焚き火の光に照らされたセレスの横顔が、一瞬だけ曇った。
すぐに笑みを作ったが、その沈黙は短くはなかった。
「……すべてを説明するには、まだ早いわ。だけど、覚えておいて。村の日常の裏には、ときどき“理由のない変化”が忍び込むの。畑の芽が一夜で育ちすぎたり、川魚が季節外れに遡上したり。そういう小さな“ほころび”を、私たちは揺らぎと呼んでいる」
「自然現象……じゃないのか?」
「自然に見えて、自然ではない。人の因果や想いに触れて揺れることもある。……だから厄介なの」
焚き火の火の粉が夜空へ舞い上がる。その言葉を噛みしめるほどに、胸がざわめいた。
「俺が関わってしまうことも……あるのか?」
「弟子である以上、避けられないかもしれないわね」
淡々と告げる声は、冷たくはなかった。ただ、事実を伝える師の声だった。
クロが小さく「くぅん」と鳴いて、俺の足元にすり寄る。
その温もりが、張りつめていた胸の奥を少しだけ和らげてくれる。
「でも――」
セレスはふと焚き火を見つめ、琥珀色の瞳に炎を映した。
「たとえ揺らぎが訪れても、それに呑まれる必要はない。人は日々を生き、畑を耕し、ご飯を分かち合う。揺らぎよりも強いのは、そういう当たり前の積み重ねなのよ」
その言葉は、不安に傾きかけていた心を支えるように響いた。
俺は深く息を吐き、頷いた。
「……わかった。気にしすぎても仕方ないな。今は、ここで生きることを考えるよ」
「それでいいの」
セレスが微笑む。その笑顔は焚き火の炎よりも温かく、夜の冷たさを忘れさせた。
家に戻ると、残ったパンの香りがまだ漂っていた。テーブルの上にはランプが灯り、クロは早くも毛布の上で丸くなっている。
「……不思議だな」
「なにが?」
「王都で眠る前は、いつも重苦しい気持ちだったのに。ここじゃ、粉だらけでも泥だらけでも……一日が終わるたびに“楽しかった”って思える」
セレスはしばらく俺を見て、それから静かに笑った。
「あなたはもう、この村に根を張り始めているのね」
そう言われた瞬間、胸の奥に灯りがともるのを感じた。
外の闇に何が潜んでいようと、この家の光と、この食卓の温かさが俺を支えてくれる。
その確信が、深い安堵となって心に染みていった。
夜はさらに深まり、外の風が森をざわめかせていた。窓の外には、漆黒の空に星々が散りばめられ、どこか遠い物語を語りかけているようだった。
家の中では暖炉の火がまだぱちぱちと音を立て、残り香のように小麦とハーブの匂いが漂っている。
セレスは椅子に腰を下ろし、本を膝に広げていた。銀の髪がランプの灯りを受け、まるで夜そのものを照らす月光のように揺れる。ページをめくる細い指先は優雅で、だがその眼差しはどこか遠い過去を見つめているようだった。
俺はベッドに腰を下ろし、布団に潜り込む前にその横顔を盗み見た。
「……なぁ、セレス」
名前を呼ぶと、琥珀の瞳がゆっくりとこちらに向けられる。
「どうしたの?」
「今日みたいに笑ったり、粉まみれで騒いだり……。そういう時間って、セレスにとっても特別なのか?」
一瞬、彼女は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく息を吐いた。
「……そうね。私にとっては、とても貴重な時間よ」
「千年も生きてきたら、もっと色々なことを経験してるんだろ? 王都の宴だって、戦場の焚き火だって……」
「ええ。華やかな宴も、荒れ果てた大地も、幾度となく見てきたわ」
静かに言葉を紡ぐその声には、途方もない時間の重みが宿っていた。
「でも、ね。笑って粉をかぶりながら焼いたパンを一緒に食べる――そんな当たり前の瞬間が、一番忘れられないの」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられる。
「……じゃあ俺と過ごす時間も、忘れられないものになるのか?」
つい本音が口をついて出た。セレスは一瞬だけ黙り、やがて穏やかな微笑みを浮かべた。
「ええ。だから私は、あなたを弟子にしたのかもしれないわ」
心臓が跳ねる音がやけに大きく聞こえる。何かを返そうとしたが、喉が詰まって言葉が出なかった。
沈黙を破ったのはクロだった。丸くなっていた体を伸ばし、小さな寝言のように「わふっ」と鳴いた。
俺とセレスは同時にそちらを見て、つい吹き出してしまう。
「……こいつ、肝心なところで場を和ませやがる」
「それも大事な役目よ。重たい言葉ばかりだと、夜は眠れないでしょう?」
セレスの声は、子守歌のように柔らかかった。
「……セレス」
「なに?」
「俺、ここで生きていくって決めたよ。まだ不安もあるけど……王都で失くしたものを、この村で取り戻したい」
彼女は目を細め、ランプの光を背にして小さく頷いた。
「それでいいの。あなたがそう思えるなら、それが答えよ」
その瞬間、胸の奥に確かな灯りがともった気がした。
王都では感じられなかった温もり――。それは今、確かにこの家の中にあった。
ランプの火が静かに揺れ、壁に映る影が寄り添うように並んでいる。
セレスは本を閉じ、窓辺に歩み寄った。夜空を見上げる横顔はどこか遠い世界を思わせ、同時にこの小さな家にすべてを注いでいるようにも見えた。
「おやすみなさい、ライル」
「……ああ。おやすみ、セレス」
布団に身を沈めると、疲れた体がすぐに眠りを求めて沈んでいく。クロの寝息と暖炉の火の音が重なり合い、心地よい子守歌となった。
目を閉じる瞬間、思った。
――俺はもう、孤独じゃない。ここでなら、やり直せる。
そうして深い眠りに落ちていった。
夜が更け、家の中は静けさに包まれていた。
クロの寝息と暖炉の火のぱちぱちとした音だけが、闇に小さく響いている。窓の外では、風が木々を揺らし、時おり遠くの森から不思議なざわめきが届いた。
眠りの中で、俺は夢を見ていた。
――柔らかな麦畑が広がり、空には光の粒が舞っている。どこまでも続く黄金の道。その先で、白いローブを纏った影が立っていた。
「弟子……」
低く響く声に振り返ると、黒衣の人物が麦畑の端に現れ、こちらを見つめていた。顔は影に隠れて見えないが、その視線は確かに俺に注がれていた。
「……誰だ」
問いかけるが、返事はなく、ただ麦畑を揺らす風の音だけが答える。
足を踏み出そうとした瞬間――
クロの鳴き声が響き、夢の中の景色がぱっと弾け飛んだ。
「……っ!?」
目を開けると、クロがベッドの下で小さく吠えていた。耳をぴんと立て、玄関の方をじっと見つめている。
「どうした……?」
声をかけても、クロは反応せず、ただ低く唸り続けていた。
胸の奥に冷たいざわめきが広がる。俺は思わず布団から起き上がり、暗い家の中を見回した。
暖炉の火は小さくなっているが、確かにまだ明かりは残っている。けれど、どこか空気が重い。
「ライル」
不意にセレスの声がした。振り返ると、彼女はすでに起きていて、窓辺に立っていた。
「……起きてたのか」
「ええ。外に、妙な気配がある」
彼女の琥珀の瞳が夜の闇を射抜くように細められる。
俺も窓に近寄り、森の方を覗いた。――そこで、確かに見えた。
森の奥、木々の隙間に、黒い影がひとつ。
月明かりの中に立ち尽くし、こちらをじっと見ていた。
「……まただ」
思わず声が漏れる。祭りの夜、市場の通り……何度も目にしたあの黒衣の姿。
セレスは息を吐き、静かに言った。
「放っておきなさい。今はまだ、向き合う時じゃない」
「でも……」
「いいの。彼らは“見ている”だけ。近づいてこない限り、こちらも動く必要はないわ」
そう言いながらも、その声にはわずかな緊張が滲んでいた。
影は動かない。ただ、風に揺れる森の中で、不気味なほど静かに立っている。
まるで、俺たちの暮らしを監視しているかのように――。
クロが再び「わんっ!」と吠えると、影はふっと消えた。
月光だけが森を照らし、そこにはもう何も残っていなかった。
「……消えた?」
「ええ。だけど、これで終わりじゃない」
セレスの言葉に、背筋がぞわりとした。
俺はしばらく窓の外を見つめ続けた。
畑も村も、昼間はあんなに穏やかだったのに――夜の闇は別の顔を見せてくる。
「ライル」
「……ん?」
「恐れる必要はないわ。あなたはもう、この村の一員。誰かに見られていようと、ここで生きることに変わりはない」
その言葉に少し救われる。
けれど胸の奥には、どうしても拭えないざわつきが残っていた。
やがてセレスはカーテンを閉じ、俺の肩に軽く手を置いた。
「もう休みなさい。答えは、時が教えてくれる」
「……ああ」
布団に戻りながらも、まぶたの裏には黒い影が焼きついていた。
――この静かな日常の裏で、何かが確実に近づいている。
その不安を抱えながら、俺は眠りに落ちていった。
セレスとライルの距離が、日々の小さなやり取りの中で少しずつ縮まっていく第14話でした。
派手な出来事がなくても、笑ったり叱られたりする時間が「絆」になっていくのだと思います。




