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畑とご飯と千年魔女。のんびり田舎ぐらし  作者: Y.K


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12/38

パン屋と小さな騒動、そして遠くの影

祭りの夜が過ぎ、再び村の静かな日常が戻ってきます。

しかし、ライルの胸にはまだ「黒衣の影」のざわめきが残っていました。

今回は、祭りの余韻と小さな不安の入り混じる夜を描いていきます。

畑に最後の鍬を振り下ろすと、湿った土の匂いがふわりと立ちのぼった。

朝露はすでに消えかけていたが、陽光を受けた畝の表面はまだしっとりと光り、鍬の刃が通るたびに柔らかい音を立てる。額をぬぐうと、指先にざらりとした砂が残った。


「ふぅ……」

肩で息をつくと、背後から黒い毛玉がぴょこんと跳ねた。クロだ。短い脚で畝を行き来し、尻尾を楽しげに振りながら、時折鼻を土に突っ込んではくしゃみをしている。

「お前は元気だな……」

苦笑しつつ鍬を物置に立てかけたその時、背後から柔らかな声が届いた。


「ライル」

振り返ると、セレスが立っていた。薄い外套を肩に掛け、手には小さな布袋を下げている。銀の髪が風に揺れ、琥珀の瞳が朝の光を受けてきらめいていた。


「今日は少し、お使いをお願いしたいの」

「お使い?」

「ええ。パン屋のラーナさんに黒パンを頼んでおいたの。受け取ってきてくれる? それと、ついでに村の様子も見てきなさい」


布袋を差し出される。革袋の硬い感触が手に伝わると、ライルは一瞬ためらった。

「……俺が行っても大丈夫なのか? まだ村に来て日が浅いし」


セレスは静かに笑んだ。

「むしろ良い機会よ。顔を覚えてもらうのも大事だから。畑を耕すだけじゃなく、人との繋がりも育てていきなさい」


その言葉はやさしくも揺るぎなく、背中を押す力を持っていた。

ライルは小さく息を吐き、頷くしかなかった。


クロが「わんっ」と鳴き、足元をぐるぐると回り始めた。

「……お前も行くのか」

尻尾をこれでもかと振り回す姿に、思わず笑みがこぼれる。

こうなれば断れない。結局、犬と二人(?)での初めての“お使い”となった。


家に戻って旅装を簡単に整える。腰に水筒を下げ、肩掛け袋に布を詰める。戸口に立ち、振り返ると、セレスが変わらぬ微笑みで見送っていた。

「行ってらっしゃい、ライル」

「……行ってきます」


その言葉を口にすると、胸の奥が少し熱くなった。

王都では、出発にそんな言葉をかけてくれる人はいなかった。

畑で流した汗がまだ乾かぬまま、ライルはクロと並んで村の道へと足を踏み出した。


――初めての、お使い。

それが自分にとって、ただの用事以上の意味を持つことを、この時のライルはまだ知らなかった。


村の通りに足を踏み入れると、すでに昼前の活気が広がっていた。

子どもたちが裸足で走り回り、追いかけっこの声があちこちに響いている。

荷馬車を引いた行商人が「塩はいらんか、塩はいらんか」と声を張り上げ、道端の家では軒先に干された布がぱたぱたと風にはためいていた。


王都の石畳と違い、ここは土の道だ。

足に伝わる柔らかな感触と、靴に残る土埃の匂いが妙に心地よく、ライルは歩きながら何度も深呼吸をした。


「わんっ!」

クロが前を駆けながら、通りすがりの子どもたちにじゃれつく。

子どもたちは「かわいい!」と声を上げ、笑いながらその背中を撫でた。

人懐っこいその姿に、ライルは自然と頬を緩める。


(……こんなふうに、誰もが笑ってすれ違うなんて)

王都の雑踏では見られなかった光景だ。

あそこでは、隣を歩く人が肩をぶつけても謝らない。

誰かの笑顔よりも、財布や荷物を気にする方が先だった。


「……やっぱり、空気が違う」

小さく呟いた声は、喧騒にすぐ飲み込まれていった。


やがて視線の先に、小さな木の看板が見えた。

「BREAD」と焼き印され、店の窓からは香ばしい匂いが漂っている。

腹の底がぐぅと鳴り、ライルは思わず苦笑した。


「……ここか」


扉を押すと、ちりんと鈴が鳴った。

同時に、焼き立ての甘い香りが一気に押し寄せてくる。

思わず深呼吸をすると、胸の奥まで麦とバターの匂いが沁みこんだ。


「いらっしゃい!」

奥から声がして、恰幅のいい女性が顔を出した。

頬は健康的に赤く、腕まくりした姿がなんとも力強い。


「……あら、新顔だね」

「えっと……セレスの弟子のライルです。黒パンを受け取りに来ました」


ラーナと呼ばれるその女性は、ぱっと目を細めて笑った。

「セレス様の弟子かい! なるほど、顔つきが真面目だ。……ほら、ちょっと待ってな」


棚から籠を取り出すと、まだ温もりの残る黒パンをどさりと詰め込む。

ごつごつとした外皮から立ちのぼる香ばしい香りに、ライルの腹が再び鳴った。


「はい、今朝焼いたばかりだよ。あんた力持ちそうだし、持って帰るのも平気だろ?」

「え、あ……はい。ありがとうございます」


そのやり取りの最中、クロがカウンターの下からにおいに釘づけになっていた。

ぴんと耳を立て、じっと棚の上を見上げている。

鼻がひくひくと小刻みに動き、尻尾が机の脚にぱたぱたと当たっていた。


「……おい、お前。まさか……」

小声でたしなめるが、聞く耳を持たない様子だ。

すでにその丸い瞳は焼きたての白パンの山に釘付けになっている。


(……嫌な予感しかしない)


ライルは冷や汗をかきつつも、ラーナに礼を述べて籠を受け取った。

「本当にありがとうございます。セレスにも伝えておきますね」


「いいんだよ。セレス様にはいつも世話になってるしね」

ラーナは豪快に笑い、腕を腰に当てた。


そのとき――。


「わんっ!」


クロが勢いよく飛び上がり、カウンターの端に前足をかけた。

視線の先には、山積みの白パンが黄金色に輝き、まだ湯気を立てていた。


「お、おいクロ! やめ――」


叫ぶより早く、小さな口がぱくりと……。


「――クロっ!!」


ライルが慌てて抱きかかえたときには、すでに遅かった。

小さな白い欠片がクロの口に残り、山積みの白パンの端が無残に欠けていた。


「ひいっ……!」

青ざめた顔でライルは慌ててクロの口からそれを引き剥がす。

「こら! だめだって言っただろ!」


クロは「きゃんっ」と情けない声を上げ、床にぺたりと座り込んだ。

その横にはぽとりと落ちた欠片が転がっている。


(……終わった)

頭の中で、セレスの冷たい視線と説教の光景が浮かぶ。

しかも村の人の大事なパンを盗ったとなれば、信頼も……!


「す、すみません! すぐに代金を――!」

慌てて腰の袋を探り、銅貨を取り出そうとしたその瞬間。


「……あははははっ!」


ラーナが腹を抱えて大笑いし始めた。

「なんだい、その必死な顔! パンひとつで目を白黒させて、まるで泥棒でも捕まえたみたいじゃないか!」


「い、いや……俺は本当に――」

「いいんだよ、いいんだよ」

ラーナは笑いながらカウンターの奥へ戻ると、紙袋を一つ取り出し、白パンを数個詰め込んでライルに突き出した。


「はい、こいつの分」

「えっ!?」

「どうせ余って困るくらいなんだ。ほら、犬も村の仲間だよ。セレス様には……そうだな、内緒にしときな」


「な、内緒って……」

ライルは唖然としたが、床にちょこんと座っていたクロは耳をぴんと立て、尻尾をぶんぶんと振っている。

次の瞬間、袋を受け取ったライルの腕の中で飛び跳ね、袋ごと抱え込んでしまった。


「お、おい、落ち着け!」

「わんっ!」

得意げに尻尾を振りながら、袋の中に顔を突っ込むクロ。


店の隅に移動し、まるで自分の獲物を守るかのようにパンをかじる姿は、どう見ても小さな泥棒そのものだった。


「はぁ……」

ライルは額を押さえ、深いため息を吐いた。


だが、周囲にいた村人たちも笑っていた。

「やんちゃだなぁ!」

「セレス様の弟子も犬に振り回されてるじゃないか」

そんな冗談混じりの声に、店の中はどこか温かい笑いで満ちていった。


ラーナは腰に手を当て、改めてライルを見据えた。

「いいかい、ライル。村じゃこういう小さな騒ぎも笑い話に変わる。王都とは違うんだ。気に病むな」


「……ありがとうございます」

深々と頭を下げると、ラーナは豪快に頷いた。

「セレス様は見る目があるよ。あんた、不器用そうだけど、まっすぐで正直だ。だから弟子なんて役割が似合うんだろうさ」


その言葉が胸にじんわりと広がり、ライルは言葉を失った。

(……俺が、この村で「弟子」って呼ばれても、笑われるんじゃなく受け入れられてる……)


籠を抱え直し、クロを呼んで店を後にする。

振り返ると、ラーナはまだ笑いながら大きく手を振っていた。


「また来なよ! 次はクロの分も焼いておくから!」

「……勘弁してくれ」


そう小さく返した声は、店の中の温かい笑い声に飲み込まれていった。


村の大通りへ戻ると、昼の太陽が傾きはじめていた。

屋根の影が伸び、通りに漂う匂いはいつの間にか夕餉の仕込みに変わっている。

肉を焼く匂い、野菜を煮込む匂い、酒場から漂う麦酒の匂い――それらが混ざり合い、ライルの腹をまた鳴らした。


「……やれやれ。クロ、お前のせいで余計に腹が減った」

「わん!」

得意げに鳴くクロの姿に、思わず笑みが漏れる。


(……王都じゃありえなかったな。誰かに笑って許されるなんて)


足取りは自然と軽くなり、籠を抱えた腕も不思議と重く感じなかった。


だが――その背後。

人混みの陰に、黒いローブをまとった影が静かに立っていた。

フードの奥で光る視線が、じっとライルを追っている。


彼はまだ、その存在に気づいていなかった。


籠を片手に、クロと並んで村の通りを歩く。

空はもう柔らかな夕暮れ色に染まり始め、屋根の影が道に長く伸びていた。

昼間の喧騒が少しずつ静まり、代わりに夕餉の支度の匂いと、井戸端で交わされる笑い声が漂っている。


「……なんか、思ってたより温かいな」

ぽつりとこぼした独り言に、足元のクロが短く「わん」と返した。

その声音はまるで同意しているかのようで、ライルは思わず苦笑した。


(王都にいた頃は、誰もが自分のことで手一杯だった。

 名前を呼ばれるのも、役割を果たせと言われるときだけだったのに……)


籠の中には、ずっしりと詰まった黒パン。

それを抱えて歩く今の自分は、「誰かのために動いている」という確かな実感があった。

それだけで、胸の奥がふっと軽くなる。


だが――。


通りの角を曲がったその瞬間、不意に人影が現れた。

黒いローブをまとった人物。顔は深いフードに隠れていて、表情はまるで読めない。


ライルは思わず足を止めた。

「……あの、すみません。通ります」


声をかけ、横をすり抜けようとしたそのとき。

相手が低く、まるで地の底から響くような声でつぶやいた。


「――弟子、か」


「……っ!」

心臓が跳ねる。反射的に振り返ったが、次の瞬間にはもう、その姿はなかった。

群衆の中に紛れ込んだのか、それとも最初から影そのものが幻だったのか。


「な、なんだ……?」

籠を抱え直しながら、胸の奥にざわめきが広がる。


クロが不安そうに「くぅん」と鳴いて足元にすり寄ってきた。

その柔らかな毛並みに触れると、少しだけ緊張が解けた気がする。


「……ただの気のせい、かもしれないな」

自分に言い聞かせるように呟き、家への道を急いだ。


玄関に着くころには、すっかり夕暮れが村を包み込んでいた。

家の扉を開けると、ふわりと温かな香りが広がってくる。

煮込まれた野菜の甘みと、肉の香ばしさ。囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、木の壁を赤く染めていた。


「遅かったわね」

テーブルに器を並べていたセレスが顔を上げ、くすりと笑った。

「……ふふ、ラーナに捕まってたんでしょう?」


「えっ……なんでわかるんだよ」

「村の噂は早いのよ。あの人、誰にでも声をかけるもの」


その笑みに、ライルの肩から力が抜けた。

さっきの黒衣の影のことを話そうか迷ったが――口に出すのをやめた。

この温かい空気を、わざわざ冷たくしたくなかった。


クロは尻尾を振りながら家の中を駆け回り、やがてセレスの足元に座り込む。

彼女は自然な仕草でクロの頭を撫で、器にスープをよそいながら言った。


「さあ、いただきましょう。……今日はあなたのおかげで、いい黒パンが手に入ったわ」


その言葉に、ライルは思わず胸を張った。

ほんの少し前まで「役立たず」と呼ばれていた自分が、今は誰かの役に立っている――。

その小さな実感が、暗いざわめきをわずかに押し戻してくれた。


けれど。

胸の奥に残る「――弟子、か」という低い声は、まだ消えてはいなかった。


食卓に並んだのは、籠いっぱいの黒パンだけじゃなかった。

セレスは畑から掘りたてのジャガイモを煮込み、甘い玉ねぎと一緒にとろりと崩れるまで火を入れている。

鍋の中には畑の豆も加えられ、ほのかなローリエの香りが立ちのぼっていた。


「今日は“収穫のシチュー”にしたの。……ちょうどいい日でしょう?」

セレスが微笑む。


さらにテーブルの端には、チーズをのせて炭火で炙った焼きトマト。

皿の上でじゅう、と音を立て、酸味と甘みの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

そして市場で手に入れたという蜂蜜漬けの果物。黄金色の汁が透明な小鉢に映え、夕暮れの灯りを柔らかく反射している。


「……なんか、今日はご馳走だな」

思わず感嘆の声が漏れる。


セレスは黒パンをちぎり、スープに浸して口へ運んだ。

「ご馳走じゃないわ。畑でとれたものと、少しの工夫。それだけで十分なのよ」


ライルも真似してパンを浸す。

熱々のスープを吸った黒パンは、外の香ばしさを残したまま、口の中でほろりとほどけた。

豆の優しい甘さとハーブの清涼感が混じり、思わず目を細める。


「……これ、王都の高級店よりずっと贅沢に思える」

「ふふ。王都では“手間”を金で買っていた。でもここでは、手間そのものが暮らしの一部だから」

セレスは湯気に霞んだ瞳でそう言い、パンをもうひとかけ口に運んだ。


クロは足元でそわそわしながら尻尾を振っている。

「お前も食べたいのか?」ライルが黒パンの端を差し出すと、「わんっ!」と嬉しそうに飛びついた。

器用に前足で押さえ込み、かりかりと音を立てながらかじる。


その様子を見て、セレスは肩を震わせて笑った。

「弟子も犬も……どちらも食欲旺盛ね」

「なんだよそれ! 俺は犬と同列か!」

「……食べてる顔がそっくりよ?」


冗談めかした声に、ライルは思わず赤面する。


食後のデザートに、蜂蜜漬けの果物をひと口。

とろりとした甘みが広がり、酸味と合わさってさっぱりと舌に残る。

「……これ、疲れが消えるな」

「そうね。甘みは“明日を頑張るための贈り物”よ」

セレスがそう呟いたとき、窓の外で風が鳴った。


――ひたり。


その瞬間、胸の奥に冷たい感覚がよぎる。

さっき通りで見た黒衣の影。耳の奥に残る低い声。

「弟子、か」


パンとスープの温かさが心を包んでも、そのざわめきだけは消えなかった。


「ライル?」

セレスが問いかける。

彼は慌てて首を振った。「いや、なんでもない。ただ……うまいな、これ」

「そう。ならよかった」

彼女は深く追及しなかった。けれどその瞳には、一瞬だけ影が差したように見えた。


クロが皿を舐め終え、満足そうに丸くなった。

囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、食卓に小さな安心を灯している。


――だが。


ほんのひと欠片だけ、夜の不安が混ざっていた。

その違和感を抱えたまま、ライルは最後の一切れの黒パンを噛みしめた。


夜が深まると、村は静寂に包まれた。

昼間の喧騒も祭りの余韻も遠のき、耳に届くのは虫の声と、風に揺れる木々のざわめきだけ。

窓の外には、いくつもの星が針のように瞬き、月明かりが畑の畝を淡く照らしていた。


ライルは布団に身を沈め、まだ熱の残る頬を枕に押しつけた。

目を閉じれば、今日一日の光景が脳裏に蘇る。

パン屋のラーナの笑い声。クロの悪戯。見知らぬ影の低い声。

そして最後に浮かんでくるのは、黒パンとスープを前に微笑んでいたセレスの横顔だった。


「……なんだよ、俺」

小さく呟き、照れ隠しのように寝返りを打つ。

胸の奥がじんわり熱い。けれどその裏に、言葉にできないざわめきがまだ渦巻いていた。


クロが布団の端に丸くなり、すうすうと寝息を立てている。

その穏やかな音に安心しながらも、ライルのまぶたはなかなか落ちなかった。


――と、そのとき。


「眠れないの?」

静かな声が闇を破った。


顔を上げると、窓辺に腰掛けたセレスの姿があった。

ランプの炎に照らされ、銀の髪が揺れながら光を吸い込み、柔らかに輝いている。

琥珀の瞳は遠くを見つめ、まるで星空の向こうを覗いているようだった。


「……ああ。なんか、落ち着かなくて」

ライルは正直に答えた。


セレスは微笑を浮かべず、ただ静かに目を伏せた。

「無理もないわ。あなた、今日初めて“影”を感じ取ったんでしょう」


ライルは息をのむ。

「……やっぱり、あれは気のせいじゃなかったんだな」

「影はね、いつでも私たちの傍にあるものよ。けれど――」


そこで言葉を切り、彼女は窓の外を見上げる。

星々が夜空に散らばり、瞬くたびに微かな光が彼女の頬を撫でた。


「恐れることはないわ。闇の奥を知っても、心が折れなければ“日常”は守れる」

「……でも、俺はまだ弟子で、不器用で……」

「だからこそ、守れるものもあるの」


セレスはそっと振り返り、ライルを見つめる。

焔に映るその瞳は、深い時間を抱えながらも、確かに優しかった。


「畑を耕す手は、剣を振るう手よりも強いときがある。あなたはそれを忘れないで」


ライルは言葉を失い、ただ頷いた。

胸の奥のざわめきが、少しだけ和らいでいく。


クロが寝返りを打ち、小さく「くぅん」と鳴いた。

その音に笑みが漏れ、セレスもまた静かに目を細める。


「さあ、もう休みなさい。明日も畑が待っているのだから」


彼女の声は子守唄のように柔らかで、炎の揺らぎと重なって心を包んだ。

ライルは再び目を閉じ、今度こそ深い眠りへと沈んでいった。


窓辺に残ったセレスは、しばらく夜空を見つめていた。

星々の奥に潜む影のざわめきを感じながら――それでも、弟子に告げるべき時はまだ先だと心に決めて。


彼女はランプの火を小さく絞り、静かに囁いた。

「……守るわ、この日常を」


夜はなお深く、更けていった。


夜半、家の外はしんと静まり返っていた。

畑を撫でる風は止まり、虫の声さえ途絶えている。

まるで時間そのものが息を潜めているような、異様な静けさ。


クロがふと、耳を立てて目を覚ました。

小さく「わふ」と鳴き、玄関の方へと歩き出す。

ライルは眠りの中にいたが、その気配にうっすら眉を動かした。


扉の隙間から――ひとすじの光が差し込んでいた。

月の光とも違う、淡く揺らめく緑色の光。

まるで森から漂ってきた霧が、光を宿して家に触れているかのようだった。


クロは低く唸り、けれど尻尾は振っていた。

警戒と興味のあいだで揺れるような仕草。


しばらくして光はふっと消え、ただ夜の闇が戻ってきた。

セレスは窓辺でその一部始終を見ていたが、声を上げることはしなかった。

琥珀の瞳に星の輝きが映り込み、ほんのわずかに眉を寄せる。


「……やはり、揺らぎが近づいている」


独りごちたその声は、弟子の耳には届かない。

ライルはまだ、安らかな寝息を立てている。


セレスは目を伏せ、ゆっくりと窓を閉ざした。

風が遮られ、家の中に再び穏やかな静けさが満ちる。


――ただ、その静けさの奥底には、確かに新しい気配が潜んでいた。


翌朝、ライルは何も知らず、いつも通り畑へと鍬を担いで出ていくことになる。

けれど、夜に舞った緑の光の正体は、彼らの日常を少しずつ揺らす小さな兆しとなって、確かに刻まれていた。


セレスやクロと共に過ごす日々の中で、ライルは少しずつ「村に根を下ろす」実感を得てきました。

一方で、忍び寄る影の存在は確かに近づいています。

次回は、その影が誰であり、何をもたらすのか――少しだけ明かしていこうと思います。

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