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畑とご飯と千年魔女。のんびり田舎ぐらし  作者: Y.K


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10/38

森のざわめきと小さな迷子

村の外へ足を運んだライルとセレス。ほんの散歩のつもりが、森で小さな迷子と出会い、思わぬ騒動に巻き込まれることになります。

朝露はまだ葉の先に珠のまま残り、光を受けてきらめいていた。

鍬を振るたび、その珠が散り、湿った土の匂いがふわりと立ちのぼる。


畝の肩に跳ねた露が袖に貼りつき、冷たさが肌を震わせた。

足もとは昨夜整えたばかりの土でやわらかく、踏み込むたびにぐぐ、と沈む。


遠くでは鶏が二度鳴き、少し遅れて教会の鐘が風に乗って一つだけ響いた。

村の朝は、こうして静かに目を覚ます。



「よし、今日はこっちの列を仕上げよう」


柄を握り直したとき、背後で小さな気配が鼻を鳴らした。

クロだ。


黒い毛玉は畝の外側をちょこちょこと駆け回り、時折こちらを振り返っては尻尾を旗のように振る。

土に鼻を突っ込んでくしゃみをしたかと思えば、空を仰いで渡り遅れの燕を追い、くるりと回る。


吐いた白い息は冷え残る朝気にほどけて、すぐ陽の中へ溶けていった。



鍬が根を噛むと、ぷつりと草の匂いが切れる。

額を拭えば、指先に細かな砂が残り、掌のまめが疼いた。


王都にいた頃、紙束ばかりをめくっていた自分には縁のなかった痛みだ。

だが――悪くない。


痛みは体がここにある証で、汗は土と自分を結ぶ縄のように思える。



「いい調子ね」


背後から、柔らかく澄んだ声が降りた。


振り向くと、セレスが籐の籠を片腕に、薄い外套の襟元を押さえて立っていた。

銀の髪は朝の光を受けて淡い金色に揺れ、琥珀の瞳は眠気を洗った泉のように澄んでいる。


籠の口からは布に包んだ黒パンと、朝摘みのハーブが覗いていた。

タイムとローズマリーの香りに、蜂蜜の甘さがほのかに混じる。



「昨日は市場で人混みに揉まれて疲れたでしょう?

今日は畑と散歩くらいにして、ゆっくり過ごしましょう」


「賛成だ。空気がうまいし、土も機嫌がいい」


そう答えると、セレスは小さく笑みを見せ、畝の端にしゃがみ込んだ。


指先で土をすくい、親指の腹でこすり合わせる。

湿りはほどよく、粒は均一にほどけていく。

彼女は満足げに頷き、言葉を落とした。


「この土、あなたの手に馴染んできたわ。根が呼吸してる。

昼前に一度だけ水をやって、午後は休ませましょう」



「了解。クロ、聞いたか? 午後は散歩だって」


「わん!」


返事だけは一人前で、クロは畝間を駆け抜けて枯葉を巻き上げた。


セレスは籠を置き、布を広げる。

黒パンを割れば、まだ温もりが残っており、裂け目から湯気と麦の甘さが立ち上った。


摘みたてのハーブをほぐし、塩を振ってかじる。

噛むたび香りが弾け、空腹が素直に喜んだ。


「こういう朝、好きだな」


素直に漏らすと、セレスも頷いた。


「わたしも。畑の音って安心するでしょう?

鍬の音、風、鳥、湯気。どれも小さくて、でも消えない」


耳を澄ませば、確かに世界は細い音で満ちていた。

鍬が土を割る音、クロの鼻を鳴らす音、枝が擦れる音、遠い川のきらめき。


王都の石畳では、こうした音はいつも喧噪にかき消されていた。

だがここでは、小さな音が一つずつ輪郭を持ち、空気の中で正しく位置を得ている。



食べ終えると、セレスは空を仰ぎ、雲の流れを確かめた。


「昼過ぎには風が強まるわ。洗濯物は午前中に干しましょう。

あ、パンの端はクロに。あなた、よだれ」


「わん!」


パンの欠片をくわえたクロが満足そうに尻尾を振る。


セレスは笑い、立ち上がって裾を払った。


「さ、もう一畝だけ整えたら休憩。あなたは水瓶を満たしてきて。

井戸の脇にミントが出てきたはずだから、ひと房摘んで。昼の茶に入れましょう」


「了解。帰りに薪も拾ってくる」


段取りを口にすると、胸の内側がすっと整う。

王都では誰かの顔色で一日が決まり、息を合わせるだけで精一杯だった。


だが今は違う。

今日の予定は自分の手の中にある。


土と水と火と風。

四つの気配を暮らしの秤で量り、重さに合わせて動けばいい。



セレスが杭を打ち、蔓を絡める。

俺は水瓶を肩に担ぎ、井戸へ向けて歩き出した。


道端のノバラにはまだ露が残り、光を抱いてゆっくり滴り落ちる。


胸いっぱいに朝を吸い込む。

土の匂い、青草の青さ、焚き火の名残、焼きたての麦。


どれも今日の始まりを告げる印だった。


――穏やかな一日になる。

そう思えた。


井戸から戻ると、畑の端でクロがやたらと吠え立てていた。

耳をぴんと立て、鼻をひくひくさせながら、落ち葉の溜まった小道を行ったり来たりしている。


「クロ? どうした」


水瓶を下ろすと、犬はさらに甲高く鳴き、こちらを振り返ってから小道の先へ駆けだした。


セレスも鍬を立てかけ、顔を上げる。

「……何か、来るわね」


次の瞬間、土を踏む軽い音が近づき、息を切らした小さな影が畑へ駆け込んできた。



それは、昨日市場で見かけた小さな少女だった。

頬を真っ赤にし、肩で大きく呼吸しながら声を張る。


「セレス様! ライル! たいへん! 弟が……弟が森に入っちゃったの!」


声が裏返り、涙が今にも溢れそうに揺れていた。



「森に?」


セレスが眉を寄せる。

「この時間なら魔獣は少ないはずだけど……」


ライルは少女に駆け寄り、肩に手を置いた。

「落ち着け。どこに行った?」


少女は必死に涙を堪えながら、森の方角を指差した。

「市場の帰りに……草花を摘みに行くって……そのまま戻らなくて!」


クロが「わん!」と吠え、森の方へ駆けだそうとする。



ライルは鍬を放り出し、セレスを振り返った。

「行こう。子どもを一人で森に放っておくわけにはいかない」


セレスの瞳に、わずかに影が差した。

「……ええ。でも気をつけて。森は優しい顔をしていても、牙を隠していることがある」


畑を吹き抜けた風が、今朝までの穏やかな空気を攫い去っていく。

始まったばかりの一日は、すでに不穏なざわめきへと変わり始めていた。



森の入口に踏み込むと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。

木々が陽を遮り、地面にはまだら模様の影が広がっている。


湿った土の匂いと苔の香り。

遠くで小川の音が微かに聞こえ、畑とは別世界の空気がそこにあった。


クロは鼻をひくひくさせながら落ち葉をかき分け、先導するように進んでいく。

小さな爪の音が、静けさの中に確かな存在感を刻んでいた。



「足跡があるわ」


セレスがしゃがみ、指先で地面をなぞった。

小さな靴跡が苔の上に点々と残っている。湿りがまだ新しく、崩れやすい。


「よかった……まだ遠くへは行ってない」


ライルは胸をなでおろした。



少女は不安げにライルの袖をぎゅっと握る。

「弟、無事かな……?」


「大丈夫だ。必ず見つける」


声はできるだけ落ち着いて出したが、心臓は早鐘を打っていた。

森の中は獣道が入り組み、子どもが迷えば帰るのは難しい。


それを知っているからこそ、胸の奥が焦げつくように熱かった。



歩を進めるごとに、森の空気は重さを増していった。

鳥の声が途絶え、葉擦れの音さえ消える。


セレスが足を止め、耳を澄ました。

「……不自然ね。森が静かすぎる」


その一言に、ライルは思わず喉を鳴らす。


クロが緊張を伝えるように低く唸り、鼻先を茂みへ突き出した。


次の瞬間――犬が鋭く吠え、茂みの奥へ飛び込んだ。


「クロ!」


ライルは叫び、慌てて後を追った。



木立の陰、落ち葉の上に小さな人影が立っていた。

土で汚れた服、小枝で乱れた髪。


――少女の弟だ。


ライルの心臓が一気に跳ね上がった。

「いた……!」


だが、その少年は泣きも叫びもせず、呆然と一点を見つめていた。


彼の足元に、黒い羽根がひらりと舞い落ちる。


ライルの背筋に、冷たいものが走った。

「……何だ、これ」


落ち葉の上に落ちた黒い羽根は、昼の光を受けても闇を孕んでいるかのように艶めき、縁がじわりと揺らいで見えた。

ただの鳥の羽とは明らかに違う。


ライルは駆け寄り、少年の肩にそっと手を置いた。

「おい、大丈夫か?」


少年はゆっくり瞬きをし、怯えた瞳でライルを見上げる。

その目は今にも涙が溢れそうで、唇が震えて声を押し出した。


「……お姉ちゃん……」


その名を呼んだ途端、抑えていたものが決壊したように泣き声があがる。

茂みをかき分けて少女が駆け寄り、弟を強く抱きしめた。


「よかった……! 本当に無事で……!」

涙が土に落ち、弟は「ひっく、ひっく」としゃくり上げながら姉の胸に顔を埋めた。



ライルは深く息をついた。

安堵と同時に、あの黒い羽根が視界の隅に焼きついて離れない。


セレスは拾い上げ、指先で慎重に撫でる。

長いまつ毛の下で、琥珀色の瞳が細められた。


「……これは普通の鳥のものじゃないわ。魔力の痕跡が残っている」


低い声に、ライルはごくりと唾を飲み込む。

「魔物の羽根……?」


「ええ。ただ、この辺りに出るはずのない存在よ」


その言葉は、森の冷気よりも鋭く胸を刺した。

この村は穏やかで、畑を耕し、ご飯を囲むだけの日々が続くと思っていた。

だが、外の影は確かに忍び寄ってきている――。



「帰ろう。これ以上ここにいるのは危険だ」


ライルは少女と弟を立たせ、クロを先頭に村への道を戻り始めた。

だが足を進める背後で、カサ……カサ……と落ち葉を踏む音が微かに響いた。


思わず振り返る。

木立の奥、黒い影が一瞬揺れた気がした。


「……見てる」


声が震え、胸の奥で嫌な冷たさが広がった。



セレスがそっとライルの肩に手を置き、囁く。

「恐れる必要はない。今大切なのは、守るべきものを抱えて戻ること」


彼女の言葉は静かだが、芯の強さがあった。

ライルは頷き、歯を食いしばる。


(俺は……この村の暮らしを守りたい)


姉弟の泣き声とクロの小さな足音を背に、ライルは前を見据えて歩いた。

森の奥から追いすがる視線を背に受けながらも、足は止めなかった。



やがて木々の影が薄れ、森を抜けると夕暮れの光が視界を包んだ。

茜色の空の下、村の屋根が見える。


少女は弟の手を強く握りしめ、声を張り上げて駆けだした。

「お父さん! お母さん!」


家の前から両親が飛び出し、駆け寄る。

「マリー! エド!」


母親は泣きながら二人を抱きしめ、父親も必死に頭を撫でた。

「本当に……無事で……!」



ライルはその光景に胸の奥が熱くなるのを覚えた。

人が心から安堵して流す涙は、こんなにも強く胸を打つのか――。


「セレス様、そしてライルさん……本当にありがとうございました!」


父親が深く頭を下げ、母親も感謝を繰り返す。


セレスは微笑んで答えた。

「礼はいいわ。子どもたちが無事なら、それで十分」


しかしライルの目は、彼女の瞳に一瞬だけ鋭い光が走るのを見逃さなかった。


(あの黒い羽根……やっぱりただ事じゃない)



クロは子どもたちに撫でられ、尻尾をぶんぶんと振っている。

「わん! わん!」


その元気な声が、張り詰めていた空気をほんの少し和らげてくれた。


ライルはその光景を胸に焼き付けながら、村の門をくぐった。

夕暮れの光の中、彼の中で静かな決意が形を取り始めていた。


村を後にして歩く道すがら、夕暮れの光が畦道を赤く染めていた。

黄金色に揺れる麦の穂の向こうで、山の稜線が静かに影を伸ばしていく。


クロは先頭で跳ねるように駆け、時折振り返っては「もう大丈夫」と言いたげに尻尾を振った。

少女と弟は両親に連れられ、涙を拭きながら家路についた。

その小さな背を見送りながら、ライルはゆっくりと息を吐いた。


「……危なかったな」


安堵と同時に、胸の奥には重く澱むものが残っていた。



隣を歩くセレスが、声を低めて囁く。

「今日はたまたま子どもを追った影で済んだけれど……あれはもっと厄介な存在よ。いずれ村そのものを狙うかもしれない」


その瞳は琥珀の色を帯びたまま、遠い闇を見据えているようだった。


ライルは拳を握りしめ、前を向いた。

「……畑も、この家も、クロも……そしてセレスも。全部守りたい」


言葉は思わず零れたものだった。

けれど口にした瞬間、心に熱が宿るのを確かに感じた。



セレスは一瞬だけ目を見開き、それから小さく微笑んだ。

「なら、強くなりなさい。恐れに押し潰されるのではなく、恐れを越えて守れるように」


その声は静かだが、深い年月を生きてきた者の重みがあった。

琥珀の瞳に射抜かれるようで、ライルは思わず頷いた。


(俺は……逃げない。畑を耕すだけじゃなく、この暮らしそのものを守るんだ)


心の奥でそう繰り返す。



夕暮れの畦道を歩く二人と一匹の影は、長く伸びて田の端を覆っていった。

その影はどこか頼りなくもあり、同時に確かに結ばれている絆の形にも見えた。


やがて村の家々が近づくと、炉の煙が屋根の上で揺れ、夕餉を告げる匂いが漂ってきた。

煮込みの香ばしい匂い、焼きたてのパンの甘み、油に揚げた野菜の香り。

それらが風に混じって鼻をくすぐる。


ライルの胸に、ようやく「帰ってきた」という感覚が広がった。



小さな家の扉を開けると、ふわりと温かな空気が迎えてくれた。

煮込み鍋がことことと音を立て、野菜と豆の香りが広がっている。

炉の火は赤く揺れ、木の壁を優しい橙色に染めていた。


「今日は少し早めに仕上げておいたの。……ちょうどいいわね」


セレスは上着を脱ぎ、慣れた手つきで器を並べていく。

その姿は、魔女というよりどこか家庭的で――ライルの胸に不思議な安心感を与えた。


「俺も手伝うよ」


ライルは籠から野菜を取り出し、ぎこちないながらも包丁を握った。

切り口は不揃いで、指先が危うく刃に触れそうになる。

「慣れてきたら形も揃うわ。焦らなくていい」

セレスが笑って横から言い、さりげなく切り方を整えてくれた。


クロはその足元をくるくる回りながら、「わん!」と鳴いた。

湯気の立ちのぼる匂いに目を細めて、尻尾を振る音が床板を叩いた。



やがて食卓に並んだのは、野菜と豆の煮込み、香草パン、そして村で買った果実を使った甘いデザートだった。

「……いただきます」

三人と一匹の声が重なり、温かな食卓が始まった。


スープを口に運ぶと、体の芯まで温かさが染み渡り、ライルは思わず息をついた。

「やっぱり……セレスの料理はうまいな」


「そう? 魔女の術より、こういう暮らしの方が向いているのかもしれないわね」

セレスは笑いながら、ライルの皿にもう一杯よそってくれる。


クロはパンのかけらをもらい、嬉しそうにかじっていた。

その丸い瞳でライルをじっと見上げ、「大丈夫」と言っているかのようだった。



だが、ふとした瞬間、昼間の黒い羽根の記憶がよみがえる。

家の温もりに包まれていても、あの影の存在は心から消えなかった。


「……ライル?」


セレスの声に、思わず肩が揺れた。

「ごめん、ちょっと考え事してただけ」


「無理をしないことね。恐怖を隠しても、守りたい気持ちまで隠す必要はないわ」


その言葉は穏やかに響き、胸の奥で波紋のように広がった。

ライルは小さく頷き、スプーンを握り直す。


(守るべき日常がここにある。その重みを、忘れちゃいけない)


火のぱちぱちとはぜる音と、クロの咀嚼する小さな音が重なり、家の中に穏やかな夜が満ちていった。


夜が深まると、窓の外は澄んだ星々で満たされていた。

昼間のざわめきや子どもの泣き声も遠く、村全体がようやく安堵の眠りに包まれている。


炉の火は小さくなり、ランプの炎だけが部屋を照らしていた。

木の壁には橙の光と影が揺れ、クロの丸まった背を柔らかく包み込んでいる。

規則正しい寝息が、家の中の静けさをさらに強めていた。



ライルはベッドに横たわり、天井を見つめていた。

一日の出来事が次々と頭をよぎる。


畑での爽やかな朝。

弟を探しに入った森での不穏な影。

そして抱きしめ合う家族の涙と、戻ってきた食卓の温もり。


思い返すたび、胸の奥がじんと熱くなる。

「……これが、守りたい日常なんだな」

声に出すと、静かな闇にすっと溶けていった。



「ライル、まだ起きてるの?」


柔らかな声が聞こえた。

窓辺の椅子に腰掛けていたセレスが、本を閉じてこちらを振り返る。

銀の髪がランプの光を受けて淡く揺れ、琥珀色の瞳は夜空の星を映していた。


「……ちょっと眠れなくて」

「そう。なら少し、夜空を見てごらんなさい」


促されるまま視線を窓に向けると、果てしない星の海が広がっていた。

一つひとつが冷たく瞬き、けれど不思議と胸を軽くするように感じる。



セレスは静かに言った。

「怖れは消えない。でもね、空を見上げれば心が少し軽くなるものよ」


その言葉に、ライルは深く頷いた。

昼間の黒い羽根は不安の象徴だった。

けれど、こうして星を仰げば、その不安はほんのわずかでも遠ざかる気がする。


「……ありがとな」

小さく呟いて、クロの背を撫でた。


ベッドに飛び乗ってきたクロは、足元で丸くなり、すぐに静かな寝息を立て始める。

その小さな温もりが、胸に確かな安堵を灯した。



セレスの声が再び届いた。

「ライル。明日も畑が待っているわ。だから――生きることを忘れないで」


その言葉は不思議な重みを持ち、胸の奥にゆっくり沈んでいく。

王都で過ごした日々では、一度も誰かからそんな言葉をかけられたことはなかった。

だからこそ、心に強く響いた。


「……ああ。忘れない」


目を閉じると、まぶたの裏に浮かんだのは、昼間見た黒い羽根ではなく、畑を照らす朝日の光だった。


やがて意識は星の瞬きに溶け、深い眠りへと落ちていく。



しかし、森はまだ眠ってはいなかった。


木々の奥で、風に乗るざわめきがひそやかに広がる。

黒い羽根が一枚、夜空を裂くように舞い落ちた。

その影は輪郭を持たぬまま、じっと村を見下ろしている。


誰も気づかない闇の奥で、囁くような声が重なった。

それは獣の声でも、鳥の声でもなく――冷たい影そのものの吐息だった。



小さな家の中では、クロの寝息と炉の火がはぜる音だけが響いていた。

時間はゆっくりと流れ、守るべき日常は今もここにある。


だが同時に、その日常を見つめる“目”が確かに存在していた。


夜空に星々が冴え冴えと輝き、静寂が村を包む。

その下で、暮らしと影との均衡は、少しずつ揺れ始めていた。


翌朝。

東の空が薄桃色に染まり始めたころ、ライルは鳥の声で目を覚ました。


昨夜の出来事が一瞬夢のように思えたが、胸の奥には確かに残っている。

黒い羽根と、背後から感じた冷たい気配――。

けれど同時に、セレスの声とクロの温もりも、鮮やかに心に刻まれていた。


「……守る」

小さく呟き、起き上がる。



窓を開けると、外の空気はまだ冷たい。

けれど朝露に濡れた畑は、今日も変わらず光をまとい、瑞々しい香りを放っている。

昨日と同じ畑。

昨日と同じ空。

昨日と同じ生活――。


だが、ライルの胸にはひとつだけ違う決意が芽生えていた。



居間に降りると、炉にはすでに火が入っていた。

セレスは鍋に手をかけ、ゆったりとスープを温めている。

その横顔は、いつもの穏やかな魔女の顔だった。


「おはよう、ライル」

「おはよう、セレス」


互いに交わした言葉は短い。

けれど、その中に昨夜の余韻が静かに流れていた。



「クロ、起きて」

セレスが声をかけると、丸くなっていた黒い毛玉が大きなあくびをして飛び起きた。

「わん!」


尻尾をぶんぶんと振り回しながら、クロはライルの足に頭を擦りつけてくる。

まるで「今日も一緒だ」と言っているようで、思わず笑みがこぼれた。


「……よし、今日も畑を頼むぞ」



食卓には黒パンと昨夜の残りのスープ、そしてハーブを浮かべた熱い茶。

湯気が立ちのぼり、体の芯からじんわりと温めてくれる。

穏やかで、何気なくて、けれど何よりも大切な時間。


パンを裂いて口に運ぶと、ほんのり甘く、噛むほどに麦の香ばしさが広がった。

「いただきます」

声を揃えるその瞬間、胸の奥が静かに満たされていく。



朝食を終えると、ライルは畑に鍬を持ち出した。

昨日と同じように、土の匂いが鼻をくすぐる。

だが、昨日と違うのは――。


「守るって、こういうことなんだな」

土を耕すたび、心の奥に決意が重なっていく。


王都で生きていた頃には、想像すらしなかった自分の姿。

畑を耕し、パンを食べ、犬と遊び、魔女と共に暮らす。

ただそれだけのことが、こんなにも尊く、守るべきものになるとは思わなかった。



遠くで風が森を揺らした。

その音は昨日よりも柔らかく、畑の上に心地よく流れていく。


セレスが背後から近づき、静かに囁いた。

「ライル。恐れを忘れる必要はないわ。大事なのは、その恐れを抱いたままでも、前へ進むこと」


ライルは鍬を止め、深く息を吸った。

朝の冷たい空気が、肺の奥まで澄んでいく。

「……ああ。俺は進むよ。守るために」



空には一羽の鳥が飛んでいた。

その羽は黒ではなく、陽を受けた純白の羽根。

光を浴びてきらきらと輝きながら、ゆるやかに村の空を横切っていった。


ライルはそれを見上げ、強く拳を握る。

(大丈夫だ。この日常は、簡単には壊させない)


そう心に刻みながら――。


今日もまた、畑とご飯と魔女と共に、一日が始まっていった。



ちょっとしたハプニングのはずが、不穏な影を残して終わった第10話でした。

セレスやクロと共に過ごす「日常」の温もりと、背後に潜む「異質なもの」を同時に描いたことで、少しずつ世界の広がりを出せたかなと思います。

次回は、村人たちとの交流を中心に描きつつ、ライルがこの土地で「どう受け入れられていくのか」を掘り下げていく予定です。

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