第二章04 「不覚」
その夜、陽介は一人で居酒屋のカウンターに座っていた。
視界の隅で揺れる提灯の明かりが、どこか現実感を失ったように見える。目の前のグラスには焼酎が注がれているが、その味も喉を通る感触も、まるで無意味だった。
何杯飲んでも胸の奥に巣食う重苦しさは消えない。むしろ、アルコールが静かにその輪郭を際立たせるかのようだった。
――酒で紛れるほど、現実は軽くない。
陽介は手の中のグラスを見つめた。その向こうに浮かぶのは、会社で過ごした4年間の記憶。努力、希望、仲間との笑い声
――すべてが崩れ去りそうな予感が、背筋を冷たく走る。
頭では分かっている。この状況に立ち向かわなければ、未来などありえないことを。しかし、その未来を切り拓く手段が見つからない。
カウンターの上に置いたスマホが震えた。LINEの通知が画面に浮かび上がる。佐藤の名前を見た瞬間、わずかな救いの光が胸をかすめた。
『今、どこにいる?』
『どうした?』
『おまえを探してたんだ。重要な話がある。』
『五反田のきんざんにいるよ』
『すぐに行く』
ほどなくして佐藤がやって来て陽介の隣に座った。
「今日、気になることがあった。」
「何の?」
「オーグメンタとの統合について、いくつか調べてみたんだ。」佐藤の声は緊張していた。
「来年度末までに、段階的にアクティバ・テクノロジーの各部門をオーグメンタのシステムに統合する計画があるらしい。」
陽介は息を呑んだ。
「来年度末? 1年以上かけて?」
「そうだ。まず管理職の交代、次に業務システムの統合、そして最終的に組織の完全統合。非常に計画的で、段階的なプロセスだ。」
「でも、それって普通の企業統合の流れじゃないか?」陽介は首をかしげた。
「何か問題があるのか?」
「そうなんだ。表面上は『業務効率化』や『シナジー効果の創出』という名目で、一見すると合理的に見える。でも…」
佐藤は苦い表情を浮かべた。
「でも?」陽介は先を促す。
「急に変えるところと、なぜかゆっくり変えるところの区別が、論理的ではないんだ。『新体制だから変える』という理由だけで、必要性や効果を十分に検討しているようには見えない。」
佐藤は続けた。
陽介は考え込んだ。確かに説明を聞く限り、戦略的な意図が見えない。
「それと、もう一つ気になることがある。」佐藤は声を落とした。
「業界の知り合いから聞いた話だが、セントリウム・キャピタル内部でも今回の件については意見が分かれているらしい。
「意見が分かれている?」
「詳細は分からないが、一部では小野寺氏のやり方に疑問を持つ声もあるようだ。ただ、これは未確認の情報だから、あまり期待しない方がいい。」
陽介は慎重に考えた。希望的観測に過ぎないかもしれない。
「いずれにしても、僕らにできることは限られている。」
陽介は考え込んだ。
「佐藤、その話についてもっと詳しく調べられないか?」
「やってみる。だが、おまえも気をつけろ。来月から新しい管理職が配属される。黒井という人物がどんな方針で来るのか、まだ分からない。」
「もう1つ聞きたいことがある。」
「何だ?」
「オーグメンタが土壌分析分野への参入計画があるとか、何か知らないか?」
「オーグメンタが土壌分析? 聞いたことないな。彼らは産業用ロボット一筋のはずだが...なぜそんなことを?」佐藤は眉根を寄せた。
「いや、ちょっと気になることがあって。」
陽介は詳細は伏せたまま、さりげなく情報収集を試みた。
「業界の知り合いに聞いてみてもいいが、時間がかかるぞ。」
「よろしく頼む。急ぎではないから。」
「ごめん、もう1ついいか?」
「なんだよ?」
「中村部長ってセントリウム・キャピタルとか、オーグメンタと何か関係あるって聞いたことあるか?」
「んー?なんだ自分の上司を疑ってるのか?」
「そういうわけじゃないんだけど、少し気になってな」
「わかった、そのあたりも探ってみるよ」
「ありがとう。助かるよ」
二人は深夜まで話し続けた。来月から始まる新しい体制がどのような影響をもたらすか、まだ誰にも分からない。
アクティバ・テクノロジーは変化の渦中にあった。そして陽介は、その変化が自分にとって脅威なのか機会なのか、慎重に見極める必要があった。
性急な判断ではなく、冷静な分析が求められる状況だった。
翌日の午後、佐藤が不安そうな顔で面談の行われる会議室の前に立っていた。
「山崎、おまえの面談どうだった?」
「…何とも言えない話だった…。」
陽介は短く答え、佐藤の肩を叩いてその場を去る。佐藤はその言葉に一層緊張しながら、会議室の扉を開けた。
部屋には、森川、小野寺、そして神谷が座っている。森川の視線が佐藤を値踏みするように動く。
「佐藤さん、どうぞ座ってください。」森川がいつもの無機質な声で促す。
「経理部として、最近の業務効率化プロジェクトにはどのように関与されていますか?」
森川の質問は一見、業務の確認に見えるが、実際には「会社の数字を握る人間として、どこまで状況を把握しているのか」を探るものだった。佐藤は慎重に言葉を選びながら答えたが、森川はさらに深く突っ込んできた。
「現在の収益構造において、どの部門が最もリスクを抱えているとお考えですか?」
「特定のプロジェクトや、部門が負債を増大させている場合、どのように是正すべきだとお考えでしょうか?」
佐藤は即答できなかった。質問の意図が明らかに単なるヒアリングではない。やがて森川は、まるで罠にはめるようにこう切り出した。
「佐藤さん、正直なところ、経理業務を外部委託する方が効率的だと考えたことはありませんか?」
「外部委託…ですか?」
「はい。現在の経理業務を分析した結果、アウトソーシングすることで年間20%のコスト削減が見込めるという試算があります。あなたの経験を他社で生かすことを検討いただくのも、一つの選択肢です。」
佐藤の胸に冷たいものが走った。つまり、自分たちの存在そのものが不要だと言っている。
「ですが、それは現場の業務効率を考慮した結果でしょうか?単なるコスト削減だけで判断されていませんか?」佐藤は冷静を装いながら反論する。
「もちろん全体の効率を考慮しています。」森川は無表情で答えたが、その目には確信に満ちた光が宿っていた。
面談が終わり、佐藤が会議室から出てきた時、彼の顔には明らかな疲労が浮かんでいた。陽介が声をかける。
「どうだった?」
「…経理部全員を切り捨てる気かもしれない。」佐藤の声は震えていた。