第二章03 「疑念」
翌日の午後2時、陽介は会議室の前に立っていた。
冷え切った廊下の空気が、肌を刺すように感じる。目の前の扉越しに、見えない敵の気配が濃く漂っている気がした。
手には、森川から要求された技術資料が入ったファイルをしっかりと握っていた。土壌分析センサーの開発工程から特許情報まで、3年間の努力の結晶だ。だが、そのファイルが今、単なる武器ではなく、自分たちの未来を脅かす材料になるかもしれないという不安が胸を締めつける。
――ここで怯んではいけない。
陽介は深く息を吸い込んだ。この扉の向こうで、彼を待ち構えているのは、単なる面談ではない。情報戦の幕が切って落とされる場所だった。彼らの狙いを見抜き、こちらの守るべきものを守る戦いだ。
心の奥底で警鐘が鳴り響く。それでも、陽介は足を前に踏み出した。
ドアをノックすると、中から「どうぞ」という声が聞こえた。
扉を開けた瞬間、静寂が一気に押し寄せる。その中で、自分の意志だけが頼りだった。
会議室に入ると、神谷英明、森川美穂、小野寺裕也の3人が座っていた。テーブルの上には厚いファイルが複数積まれており、その中に陽介の人事ファイルらしきものも見えた。
「山崎さん、お疲れ様です。お座りください。」
神谷が冷たい笑みを浮かべながら言った。陽介は指定された席に座る。
「本日は貴重なお時間をいただき、ありがとうございます。」小野寺が口を開いた。
「まず、今回の資本提携について、簡単にご説明させていただきます。」
陽介は黙って聞いていた。三浦から聞いた話を思い出しながら、慎重に相手の出方を見極めようとしていた。
「アクティバ・テクノロジーとオーグメンタは、業界のさらなる発展のため、技術とノウハウを共有することになりました。これにより、両社の強みを活かした新しいサービスを展開していく予定です。」
綺麗な言葉で包まれているが、要は技術の統合だと陽介は理解した。しかし、三浦のケースとは明らかに異なるアプローチだった。
「山崎さんには、その中核を担っていただきたいと考えております。」神谷が続けた。
「あなたが開発された土壌分析センサーは、非常に価値の高い技術です。」
ここで陽介は重要な違いに気づいた。三浦には早期退職が提案されたが、自分には「中核を担う」という話をしている。明らかに扱いが違う。
「具体的には、どのような形で活用されるのでしょうか?」
「オーグメンタの新設部門で、あなたの技術をベースとした新製品開発を進めたいと考えています。」森川が資料を見ながら答えた。
「そのため、来月からオーグメンタへの転籍をお願いしたいのです。」
陽介の心臓が早鐘を打った。
転籍——つまり、アクティバから離れてオーグメンタの社員になるということだった。
「転籍ですか?」
「はい。待遇面では現在より向上します。」小野寺が説明を続けた。
「基本給20%アップ、さらに新製品開発成功時のボーナスも用意されています。」
条件は魅力的だった。しかし、陽介には大きな疑問があった。
「オーグメンタさんの土壌分析技術について、教えていただけませんか?どのような技術と組み合わせるのかを知りたいのです。」
3人は一瞬視線を交わした。
「申し訳ありませんが、新部門の詳細については、転籍後にご説明いたします。」小野寺が慎重に答えた。
「現時点では機密保持の観点から、詳しくお話しできません。」
陽介の疑念は深まった。通常、転籍の話であれば、もう少し具体的な業務内容が説明されるはずだ。
「承知しました。」陽介は表情を変えずに答えた。
「転籍した場合、開発した技術の特許権はどうなるのでしょうか?」
森川が資料をめくった。
「現在アクティバが保有している特許については、適切な対価をお支払いして譲渡していただく予定です。新たに開発される技術については、オーグメンタの所有となります。」
陽介の警戒心は最高潮に達した。これは技術の略奪だった。自分の技術を手に入れるために、自分ごと引き抜こうとしているのだ。
「山崎さん、率直にお聞きします。」神谷が身を乗り出した。
「今回の提案について、どのように感じていらっしゃいますか?」
陽介は慎重に答えた。
「技術者として、新しい挑戦は興味深いです。ただ、アクティバという会社にも愛着がありますし、同僚たちとの関係もあります。」
「ご心配は理解できます。」小野寺が微笑んだ。
「しかし、技術者として更なる成長を望むなら、より大きな舞台で活躍することも必要でしょう。」
「もし、お断りした場合はどうなるのでしょうか?」
神谷の表情が一瞬硬くなった。
「もちろん、それは山崎さんのご判断です。ただ...」
彼は言葉を選ぶように続けた。
「来月から新しい体制が始まります。アクティバでの今後の研究環境がどうなるかは、正直申し上げて不透明な部分もあります。」
これは遠回しな脅迫だった。転籍を断れば、アクティバでの立場が危うくなるという意味だ。
面談は1時間ほどで終わった。三浦とは全く異なる提案
——転籍と技術の略奪——を受けた陽介は、複雑な心境だった。
「それでは、来週月曜日までにお考えをまとめていただけますでしょうか。」小野寺が最後に言った。
「この機会を前向きに検討していただければと思います。」
陽介は会議室を出ると、複雑な心境だった。
三浦の席の前を通りかかった時、彼女が心配そうな視線を向けてきた。
「山崎さん、お疲れ様でした…」
「お疲れ様。」
「どうでしたか?」
陽介は少し考えてから答えた。
「まあ、似たような感じかな。今後の体制についての話とか。」
「そうですか...」三浦は安堵したような、それでも不安そうな表情を浮かべた。
「お互い、よく考えてみようか。」
陽介はそう言って、自分の席に向かった。今はまだ、自分の中で整理がついていない。詳しく話すのは、もう少し状況を把握してからでも遅くはないだろう。
自分の席に戻ると、陽介は面談での会話を反芻した。
転籍——条件だけは魅力だった。給与の向上、新製品開発のチャンス。技術者として成長できる環境。
しかし、何かが引っかかっていた。
なぜオーグメンタの土壌分析技術について説明を避けたのか?
なぜ新部門の詳細を教えてくれないのか?
そして、なぜ三浦とこれほど異なる提案をしているのか?
陽介は静かに考え込んだ。もしかすると、自分は考えすぎているのかもしれない。転籍というのは、確かに大きなチャンスでもある。
でも...
面談での提案を紙に書き出してみた。
「転籍」「給与20%アップ」「新製品開発」「新部門」
魅力的な条件だった。しかし、どこか具体性に欠けている。
陽介は疑問点も書き出した。
「オーグメンタの土壌分析技術は?」
「新部門の詳細は?」
「なぜ三浦とは違う提案?」
考えれば考えるほど、疑問は膨らんでいった。
陽介はパソコンを開き、オーグメンタについて調べ始めた。同社のウェブサイトを詳しく見ると、確かに産業用ロボットと制御システムが主力製品だった。土壌分析に関する技術や製品は一切見当たらない。
事業計画や新規事業に関する発表も探してみたが、土壌分析分野への参入についての情報は皆無だった。
「おかしいな...」
陽介は呟いた。通常、新規事業を始める場合は、何らかの発表があるはずだ。特に、専門性の高い技術者を引き抜くほどの規模なら。
もしかして、新部門というのは存在しないのではないか?一方で希望的に考えれば、新部門というのは土壌分析事業の部門なのかもしれない。
単純に自分の技術が欲しいだけなのか? それとも...
陽介は別の可能性を考えた。もしかすると、アクティバの技術を外部に流出させるための罠かもしれない。
だが、それは考えすぎだろうか。
陽介は頭を抱えた。確証がない。全ては憶測に過ぎない。
でも、この違和感は何なのか?
翌朝、陽介は会社に向かう電車の中でも考え続けていた。
もし転籍を受け入れたら、自分はどうなるのか?
もし断ったら、アクティバでの立場はどうなるのか?
そして、三浦はどうなるのか?
陽介は三浦の席を見た。彼女は黙々と作業をしていたが、時折不安そうな表情を浮かべていた。
自分だけが好条件を提示され、三浦は退職を勧められた。これは偶然なのか、それとも意図的なのか?
陽介は決心した。もう少し調べてみよう。
昼休み、陽介は一人で外に出た。考えを整理するために、近くの公園のベンチに座った。
面談から一夜明けても、疑問は解消されなかった。むしろ、調べれば調べるほど違和感が強くなっている。
もしかすると、自分は被害妄想に陥っているのかもしれない。転籍の話は本当に良い条件で、素直に受け入れるべきなのかもしれない。
でも、それなら三浦への扱いはどう説明するのか?
陽介は三浦のことを考えた。確かに彼女の技術も価値があるはずだ。制御システムの専門家として、十分な実績もある。
なぜ彼女だけが不要扱いされるのか?
そう考えると、やはり何かがおかしい。
陽介は会社に戻った。午後の作業中も、頭の中では疑問がぐるぐると回り続けていた。
夕方、陽介は中村部長の席を訪ねた。
「部長、少しお時間をいただけませんか?会議室でお願いできますでしょうか」
中村部長はうなずき、会議室へと二人で移動する。
「山崎くん、面談はどうだった?」
「それについてお聞きしたいことがあります。」
陽介は転籍の提案について説明した。中村は深刻な表情で聞いていた。
「転籍か...君に対しては随分と好条件だね。」
「部長は、オーグメンタの土壌分析事業についてご存知ですか?」
中村は首を振った。
「聞いたことがない。彼らは産業用ロボットの会社だと思っていたが...」
「やはりそうですか。」
陽介の疑念はさらに深まった。
「部長、この転籍の話について、田島社長はご存知なのでしょうか?」
「それは...分からない。」中村は困った表情を見せた。
「今日からセントリウム・キャピタルの人たちが窓口になっていて、社長とも直接話す機会がない…。」
陽介は不安を覚えた。社長が知らないところで、様々な人事が決定されているかもしれない。
「部長、僕はどうすべきでしょうか…?」ふいに口をついて出てしまった。
「それは君が決めることだ。」中村は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、急いで決断する必要はない。来週まで時間があるのだから、よく考えてみるといい。」
陽介は会議室を出た後、一人で考え込んだ。
疑問ばかりが膨らんで、答えが見つからない。
しかし、一つだけ確かなことがあった。この状況は、表面的な説明よりもはるかに複雑だということだった。
そして、自分一人の判断だけでは、真実を見極めることは難しいかもしれないということも。