第二章01 「不安」
翌朝、陽介がオフィスに到着すると、既に空気が変わっていた。
昨日まで聞こえていた同僚たちの雑談は影を潜め、代わりに重苦しい沈黙が支配していた。コピー機の前で立ち話をしていた営業部の面々も、今朝は足早に自分の席に向かっている。
「おはようございます」
三浦が小声で挨拶してきた。彼女の表情は昨夜からの不安をそのまま引きずっているようだった。
「おはよう。眠れた?」
「あまり…。山崎さんは?」
「同じだよ…」
陽介は正直に答えた。昨夜は1人で会社帰りに呑みに出かけたものの、酒は漠然とした不安を助長させるだけだった。
布団の中で昨日の説明会の内容を何度も反芻し、結局ほとんど眠れなかった。アクティバの買収、オーグメンタとの提携、神谷英明の派遣、そして個別面談。どれも彼の心に重くのしかかっていた。
「山崎くん、三浦さん。」
中村部長が二人の席に近づいてきた。いつもの穏やかな表情に疲労の色が濃く表れている。
「部長、おはようございます。」
「おはよう。じつは、君たちに話しておきたいことがある。」
中村は周囲を見回し、他の社員たちに聞こえないよう声を落とした。
「昨夜、田島社長と話をした。」
陽介と三浦は身を乗り出した。
「社長は何と?」
「正直に言うと、社長も苦渋の決断だったようだ。」中村の声には重みがあった。
「ここ半年、オーグメンタとの競争が激化している。彼らは積極的な価格戦略と大規模な設備投資で、着実にシェアを奪っている。」
陽介は眉を寄せた。確かに最近、大口の受注でオーグメンタに負けるケースが増えていた。
「それで、セントリウム・キャピタルから提案があったそうだ。資金調達の方法として、二つの選択肢があった。」
「二つの選択肢?」
「一つは、業界3位のテクノビジョンと4位のイノベート・システムズとの業務提携。もう一つが、オーグメンタとの資本・技術提携だった。」
陽介は息を飲んだ。
テクノビジョンとイノベート・システムズ。どちらも中堅企業だが、技術力は確かだ。アクティバと似たような企業規模で、企業文化も近いと聞いたことがある。
「なぜオーグメンタを選んだんですか?」
「それが…」中村は困った表情を見せた。
「小野寺氏が強く推したらしい。『業界トップとの提携こそが生き残りの道』だと。」
陽介の心に疑念が芽生えた。確かに論理的には正しいかもしれない。
しかし、なぜ小野寺はそこまでオーグメンタとの提携を推すのか。投資ファンドの役員として、もっと多角的な視点から判断すべきではないのか。
「でも部長、オーグメンタは競合他社ですよ。僕たちの技術が向こうに流れることになりませんか?」
「それが一番の懸念事項だ。」中村は深いため息をついた。
「社長もその点を心配していた。だが、小野寺氏は『技術統合により、より強固な競争力を構築できる』と説明したそうだ。」
三浦が不安そうに口を開いた。
「私たちの土壌分析センサーの技術も、オーグメンタに渡ってしまうんでしょうか?」
「まだ分からない。来週から始まる個別面談で、詳しい話があるはずだ。」
陽介は複雑な気持ちだった。
3年前に開発した土壌分析センサーは、アクティバ・テクノロジーの誇る技術の結晶だった。それが競合他社の手に渡ることを想像すると、胸が締め付けられる思いだった。
「部長、神谷英明という人物について、何かご存じですか?」
「ああ、神谷氏か。」中村の表情が曇った。
「オーグメンタの営業部門を統括している人物だ。非常に優秀だが、同時に非常に厳しい人物としても知られている。『結果がすべて』という考え方で、効率を最優先する経営スタイルだ。」
陽介の不安は深まった。アクティバ・テクノロジーの温かい企業文化とは正反対の人物が、副社長として派遣されてくる。
「僕らの働き方も、大きく変わることになりそうですね。」
「おそらくな。」中村は重々しく頷いた。
「ただ、君たちには頑張ってもらいたい。どんな変化があっても、技術者としての誇りを失わないでくれ。」
部長が去った後、陽介と三浦は顔を見合わせた。
「山崎さん、私たち、どうなるんでしょうね。」
「分からない。でも、とりあえず今できることをやろう。」
陽介はそう言いながら、パソコンを立ち上げた。しかし、画面に映る開発中のプロジェクトファイルを見ても、以前のような情熱を感じることができなかった。
昼休み、陽介は一人で休憩スペースの隅のテーブルに座っていた。
食事はほとんど喉を通らず、ただ考え事に没頭していた。小野寺の思惑。オーグメンタとの提携。そして来週から始まる個別面談。先の見えない不安は尽きない。
「山崎」
振り返ると、経理部の佐藤が立っていた。彼は陽介と同期入社で、プライベートでも親しい間柄だった。
「佐藤、どうした?」
「ちょっと気になることがあるんだ。」佐藤は周囲を見回し、陽介の向かいに座った。
「昨日から経理部にも変化があった。セントリウム・キャピタルから財務アナリストが派遣されてきたんだ。」
「財務アナリスト?」
「森川という女性だ。朝から晩まで、過去3年分の財務データを詳細に分析している。」
陽介は眉を寄せた。買収後の財務分析は当然だが、それにしても素早い動きだった。
「何か気になることがあったのか?」
「それが…」佐藤は声を落とした。
「彼女が特に注目しているのは、取引先別の利益率と開発費用の配分だった。特に、オーグメンタとの直接競合案件について、詳しく調べている。」
陽介の背筋に冷たいものが走った。
「直接競合案件?」
「そう。過去3年間で、オーグメンタと競合して受注を逃した案件のリストを作成している。そして、その案件の技術的な詳細についても資料を求められた。」
陽介は息を呑んだ。それは単なる財務分析を超えた、戦略的な情報収集に思えた。
「森川さんは、どんな人?」
「30代前半、非常に聡明で効率的。でも、感情を表に出さない。まるで機械のように正確に作業をこなす。昨日の斉藤さんと似たタイプかもしれない。」
陽介は不安を感じた。セントリウム・キャピタルが送り込んできた人物たちは、皆同じような冷徹さを持っているように見えた。まるで、感情を排除した純粋な効率性だけを追求しているかのように。
「他に何か分かったことはある?」
「実は、もう一つ気になることがある。」佐藤は更に声を落とした。
「森川さんが調べているデータの中に、社員の給与体系と人件費の詳細が含まれていた。」
「人件費?」
「そう。部署別、職種別、勤続年数別の詳細な分析だ。特に、技術部門の人件費について、かなり詳しく調べている。」
陽介の胸に嫌な予感が広がった。人件費の詳細分析は、往々にして人員削減の前段階で行われるものだった。
「佐藤、これは…」
「僕も不安だ。もしかすると、個別面談は単なる配置転換の相談ではないかもしれない。」
二人は重い沈黙に包まれた。食堂の周りでは、他の社員たちも似たような不安を抱えているようで、いつもの明るい雰囲気は完全に消えていた。
「とりあえず、来週の面談まで様子を見よう。」陽介は努めて冷静に言った。
「今は憶測で動いても仕方がない。」
「そうだな。でも、山崎、何かあったらすぐに連絡してくれ。」
「ああ、佐藤もな。」
午後、陽介は自分のデスクに戻ったが、集中することができなかった。
佐藤から聞いた話が頭から離れない。財務アナリストの森川。人件費の詳細分析。オーグメンタとの競合案件調査。
すべてが、単なる買収後の通常業務を超えた、何か大きな計画の一部のように思えた。
「山崎さん。」三浦が小声で話しかけてきた。
「技術部の田村さんから聞いたんですが、今日から外部のコンサルタントが技術部門の業務フローを調査しているそうです。」
「コンサルタント?」
「はい。どの技術がどのプロジェクトで使われているか、詳細にヒアリングしているそうです。特に、特許技術や独自のノウハウについて、かなり詳しく聞いているとか。」
陽介は立ち上がった。これは偶然ではない。経理部での財務分析、技術部での業務フロー調査、そして来週からの個別面談。すべてが連携した、組織的な調査活動だった。
「三浦、ちょっと技術部の様子を見に行こう。」
「はい。」
二人は技術部のフロアに向かった。すると、見慣れない男性が田村の席で熱心に何かを聞いている光景が目に入った。男性は40代前半、スーツ姿で、手には厚いファイルを持っている。
「田村さん、お疲れ様です。」
陽介が声をかけると、田村は困ったような表情を見せた。
「あ、山崎さん。実は、こちらの高橋さんから、開発プロセスについて詳しく聞かれていまして…」
高橋と名乗った男性は、陽介に向かって軽く会釈した。
「初めまして、高橋と申します。業務効率化コンサルタントとして、今回のプロジェクトに参加させていただいております。」
「業務効率化…ですか。」
「はい。各部門の業務フローを詳細に分析し、より効率的な組織運営を提案するのが私の役割です。」
高橋の説明は丁寧だったが、陽介には何か違和感があった。業務効率化というには、あまりにも技術的な詳細に踏み込みすぎているように感じた。
「具体的には、どのような分析をされているんですか?」
「各技術の開発コスト、市場価値、そして競合他社との比較分析です。特に、御社の強みとなる技術について、詳しく調査させていただいております。」
陽介の疑念は確信に変わった。これは業務効率化の調査ではない。技術評価であり、技術移転の準備作業だった。
「山崎さんは開発部の方ですね。」高橋が興味深そうに言った。
「実は、土壌分析センサーの件で、ぜひお話をお聞かせいただきたいと思っていました。」
「土壌分析センサーですか?」
「はい。非常に優秀な技術だと伺っております。開発の経緯や技術的な特徴について、詳しく教えていただけませんでしょうか。」
陽介は警戒心を抱いた。自分たちが誇りを持って開発した技術について、なぜ外部のコンサルタントがそこまで詳しく知りたがるのか。
「申し訳ありませんが、技術的な詳細については、部長の許可なしにはお話しできません。」
「もちろんです。では、後日改めてお時間をいただければと思います。」
高橋は笑顔を浮かべたが、その目には冷たい光が宿っていた。
陽介と三浦は、重い足取りで自分たちの席に戻った。
「山崎さん、何か変ですよね。」三浦が不安そうに言った。
「ああ。これは単なる業務効率化調査じゃない。」
陽介は確信していた。セントリウム・キャピタル、オーグメンタ、そして派遣されてきた各種の専門家たち。すべてが一つの大きな計画の下で動いている。
そして、その計画の中で、アクティバ・テクノロジーの技術と人材がどのように「活用」されるのか。来週の個別面談で、その一端が明らかになるだろう。
陽介は時計を見た。まだ午後3時だったが、今日という日がとても長く感じられた。
明日も、そして来週も、彼らの知らないところで着々と準備が進んでいくのだろう。そして、その準備が完了した時、アクティバ・テクノロジーという会社は、もはや彼らの知っている会社ではなくなっているかもしれない。
陽介は深いため息をつき、パソコンの画面に向かった。しかし、いつものように仕事に集中することは、もうできなかった。




