七
「一体、一体何なんだ、アイツは!」
完全に少年を恐れている男は本堂に向かって走っていた。早くしないと、自分が殺されるということに、男は焦っていた。
あんな今日初めて会った不良気取りのガキにナイフ持って追いかけられるようなことした覚えはない。
「くそっ、くそっ、くそっ」
優子の笑顔が脳裏に浮かんでくる。帰りたい。優子の所に、帰りたい。
男の目に悔しさで涙が滲んできた。走っている男の後ろには少年が歩いて追ってきており、逃げられない。体力がなくなってしまった時点で、男の人生はお終いになるだろう。
「なんとか……」
なんとかできないかと男は必至になって頭の中で考える。
「む? やっと諦めたか」
ピタリと動きを止めた男を見、少年は良い判断だと近付いてくる。
「誰が諦めるか」
だが、男は少年の顔が見えるか見えないかの微妙な地点でまた走り始めた。
「なんと体力の無駄遣いをする奴なのだ。まったく、我から逃げることなど不可能だというに」
ふうと少年は息を吐いたが、男を滅すために足を動かすことに決めた。それを見た男は、前を睨みつけた。
「あそこに、あそこに行けば!」
男は生きるために少年を後ろにつけていた。この化け物のような奇妙な少年をどうにかするために男は連れていていた。
細長い白いもの――三界萬霊供養塔――が男の目に映った。本堂だ!男はその姿を見た時、ほっと息をついて笑う。男は本堂の裏に回り、さらに奥に行こうとしたが、何かに躓き、その場にこけた。
「あった……」
そこにぽつんとある物をすがるように見つめた。
小野篁の持仏を祀る竹林大明神の祠に足を引っかけた男であったが、男が見つめているものはそれではない。
「篁様、どうかお助けください、哀れな子羊を! 私めを!」
草むしりがされていないのか、雑草が斑に生えた地面に男はがばりと額をつけ、頭の上に合わせた手を乗せた。自分が足に引っかけた物が何かも気付いていないからこそとれる行動なのだろう。
「何をしておるのだ、お主は」
少年の呆れた声が聞こえてきた男は膝をがくがくと震わせながら立ち上がった。
「お前を倒して俺は優子のとこに帰る!」
「ほう。我を倒すと申すか、人間」
へっぴり腰ながらも突進してきた男を見、少年は笑んだ。
「よかろう、相手をしてやるゆえ、向かってくるがよい!」
大声を放ち笑う少年の繰り出す拳をすんでのところで避け、男は少年の腰にしがみつく。そして、唸り声と共に体を地面から浮かし、祠の傍にある、男が見つめていた井戸へとだだっと走り、竹で出来た蓋を突き破り、少年を井戸の中へ叩き落とそうとした。その時、
「ぶはあっ!」
ガパン、と井戸を覆う蓋が浮き上がった。
「……へ?」
両方共がそれに呆然として見つめていると、井戸の中から人の頭が出てくる。
「うわあああっ、な、何だあ?! 」
男がそれに顔をひきつらせると、少年はその隙をついて男の胸を押し、離れる。
「ったく、出口が封じられているからって入口を逆流させる奴がいるかよ」
白い手が、井戸のふちにぺたんとついた。まるで、ホラー映画の一シーンのような情景に、男は口をぱくぱくとさせる。
「むむっ、地獄から鬼でもやってきたかっ?」
腕を組み、口を一文字に結んだ少年の姿を見、やっぱりコイツは普通じゃない、と男はその場に座り込んでしまった。
「もしこの鬼がなかなかの腕前を持つ奴であったら……ふむう、困ったな。全力で戦いたくなるではないか」
などと不穏なことを言う少年であったが、ぽんと軽く手を打ち、
「ならばお主から成敗して差し上げよう」
と軽快に笑う。冗談じゃない。
「覚悟せよ!」
少年が猛然と襲い掛かってくるのに、男が大音量の悲鳴を上げた。
「誰か、助けてくれ!」
涙の滲む声を出すと、視界が真っ赤に染まった。
「なっ!」
何事かと思い、男が顔をあげると、自分と少年との間に、珍妙な柄の着物を身に着けた人が立っていた。
「大丈夫か」
腰までの艶やかな黒檀色の髪は高く結い上げており、サイドを顎の下で切りそろえている。紫水晶色の瞳は色素が薄く、その目に射止められた男は驚きに目を見開かせた。肌は陶器のように白く滑らかで、鼻梁は高く華奢なラインを描いており、薄い唇は紅を刷いたように赤い。男とも女ともつかない、不思議な色気を持っている。
男に向かって、手が伸ばされる。近づいてくる赤く染められた指先が男の目に焼き付いて離れなくなる。自分の肩に手が置かれたと思ったら、体が急にふうっと軽くなった。まるで生まれ変わったかのように良い気分だ。
「酷いことをするな」
「ほう。お主、我に歯向かうつもりか?」
「血気盛んな奴だなあ。そんなつもりはないから、ちょっと落ち着けよ」
何で俺がこんなことしなくちゃいけないんだって思っても仕方がないよなあ、と考えつつ男を背に庇っている者――蓮珠――は少年に向かって手の平を見せた。
「我に歯向かう者に会うのは久しぶりだ。存分にお相手致そうではないか!」
人の話を聞いていないのか。一体どういう思考回路をしているのか、わざとすぎるほどに相手の意見を無視し、少年は大きく口を開けて笑いながら蓮珠に突撃をしてくる。
「逃げろ!」
男の背をどんと押し、少年の体を自分の体で食い止める。そのまま突き飛ばされそうになるのを我慢し、
「早くしろ、馬鹿!」
呆然として座り込んでいる男を怒鳴りつけると、ひいぃっ、と情けない声を上げて男はやっと二人から離れてくれた。
「何故逃すのだ。あれは悪。滅さなければいけぬものよ」
「悪って。ただの人間だろ」
「お主の目は節穴か! あれは悪だ、欲に溺れたこの世の亡者であるぞ」
指を差して、唾を飛ばして抗議する相手を半眼で見ていた蓮珠は短くため息を吐いた。
「あいつに憑いていたものは祓った。だからもう滅さなくても」
「我、悪を滅す! ゆえに我あり!」
力任せの一発が左頬にぶつかり、蓮珠は軽くふっ跳び、井戸に腰をぶつける。
「悪を滅すのは我の仕事、我のなすべき最も大事なことよ。それを貴様ごときが邪魔をするとは許されぬことぞ。その罪しかと悔いて業を身に受けよ!」
「ふざけやがって」
「ふざけてなどおらん」
井戸に手をかけて起き上がった蓮珠に近づき、拳を突き出す。蓮珠はそれをしゃがむことで避け、相手の足を蹴り、バランスを崩した相手の腕を掴むことで引き倒す。
少年は舌打ちをし、手に持っているナイフを無造作に動かし、蓮珠の顔を切ろうとしたが、それも回避される。
「悪を滅す、貴様も滅す、全てを滅す」
単調な動きで自分に向かってくる相手の両拳を見、蓮珠は唇を開いた。
「お前、善って顔してないって」
それを聞いた少年のこめかみにビキリと青筋が立つ。
「我は善である。失礼なことをぬかすな!」
「失礼なことだなんて。俺は思ったことを口に出しただけに御座います」
へらりと笑っておじぎをすると少年の顔がかーっと赤くなっていく。頭の上から湯気が出そうだ。
「貴様ぁ!」
少年がナイフを放りだし、腰に差していた物を手に取る。
「剣?」
蓮珠が眉をひそめる。それには、柄の部分にぐるりと何かが巻きついていた。とぐろを巻いた蛇ではなく、漆黒の龍――倶利伽羅くりから――がついていた剣だ。
「え、あ、うそっ。く、倶利伽羅剣ーっ?」