8.百合の姫と桜の鬼
風に花が揺れる。百合の花だ。花は俯いていて、葉っぱが笹に似ている。一面の百合の中、下を向いて考え事をしている女性が座っていた。
困っている様子ではなく、なにかを決意する直前なのだろう。強い意志の宿った目で、緩く開いた手の中を見つめている。凛とした横顔は、しなやかな女性の心を映したようだ。
その女性が俺の方を向く。柔らかい光を帯びた目。その目と目が合った時、視界いっぱいに百合が舞い上がった。
「うわっ!」
顔を腕で庇う。清々しいを通り越した、鼻孔に突き刺さってくる花粉の匂いに顔をしかめる。次に目を開けた時、今度は小さな花片が目に入った。
「……桜?」
チラチラと小さく降ってくる可愛い花。花びらが風を帯びて、自分の周りを囲んで回っている。その白い姿は、雪のようにも見える。
先程の百合とは違い、この桜はあえかな花のように誉には見えた。
花びらの向こう側には、また誰かがいた。今度は、女性ではない。線の細い、未発達の体を持つ少年が座っている。肌が雪のように白く、ふんわりとした唇は桃のように色づいている。光沢のある白い髪は、腰近くまであり、首の後ろで一つに結ばれている。まるで人ではないかのような、不思議な色気を持つ少年だ。
少年の伏せられた瞼が開く。すると、二つの鮮烈な色が見えるようになった。鮮血のような赤色の右目、蜂蜜のような琥珀色の左目。二色の瞳に見つめられた誉は、息をすることも忘れかけていた。
「誉」
ふわりと、花が香るような微笑みを少年が浮かべる。いつしか桜も降り止み、辺りの景色が把握できるようになっていた。
「鬼、神さま……?」
見覚えのある、木と草に包まれた空き地。その少年が椅子代わりにしていたものは、あの黒い岩だった。
「そうじゃ、誉」
澄んだボーイソプラノの声で応えられてやっと、意識を取り戻した。
「あ、会いたかったです」
一歩でも進んだら落ちてしまうかもしれない。現実に戻ってしまうかもしれない。恐れるものはあったが、それでも誉は進まずにはいられなかった。
「あなたにずっと、会いたかったんです!」
黒い岩の近くまで行き、そう叫ぶ。誉を色違いの目で見た少年は、黒い岩の上から離れる。落ちてくるというよりは、体を浮かべてという感じで降りてきた。羽でも生えているのではないかと疑ってしまうような動きだった。
「そうじゃったか」
「はいっ!」
頬を紅潮させた誉が元気よく答えると、少年はくすぐったそうな笑みを浮かべる。
「ちと、腰を屈めておくれ」
素直に腰を屈めた誉の頭に、少年は手を伸ばしてきた。少し癖のついた柔らかい髪を撫でる。夢の中だからか、撫でる手の感触はない。ふいのことに誉は目を丸くさせたが、いい子いい子と可愛がられているのだと気づき、頬を緩める。
「あのっ、鬼神さま」
見目麗しい少年に可愛らしく微笑まれた誉の胸ははずんだ。だが、目の前に小さくて柔らかそうな手が突き出された。首を傾げると、少年の笑顔に苦いものが浮かぶ。
「話はいつでもできる。ちと待つのじゃ」
もう充分待ちましたと言いたい気持ちを抑えて、頷く。
「誉、お主は素直ないい子じゃ。お主が儂に助けを求めてくることがあれば、どのようなことでも手助けしよう」
頬を小さな手で撫でてくれるが、やはり感触は得られない。
「じゃから、今は起きるのじゃ。……よいな?」
そう言い終えた少年は、誉から離れる。誉は引き留めようと思い、手を伸ばしたが、どこを掴もうとしてもすり抜けてしまった。
「鬼神さまっ、鬼神さま!」
少年が透明になって消えてしまったと思った瞬間、また桜吹雪が激しく誉の身に降りかかってくる。
「鬼神さまー!」