第二十一話
『動植物課』から渡された子ギツネと、その説明を受けていた時、ピピッ! と青年の胸元から音が鳴った。
「あ! 研究室から呼び出しだ! 今、新人の子たちに簡単な実験を任せてきたんです。ちょっと行ってきてもいいですか?」
「あぁ、構わないよ。私はもう少し、この子を観察したいから」
青年は「あとでまた来ます!」と言って部屋を出ていった。
『この子のこと、どう思う?』
「…………知能指数を高くしたのか。でも、データが不安定だから……要観察……と。研究所内の生物観察施設に預けるのがいいかな……」
青年に渡されたデータを確認していると、その様子を【472】がじっと見ている。まるで、キツネよりも彼を窺っているような視線だ。
『あ、そうじゃなくて』
「ん? 何が……」
『可愛いよね?』
「へ?」
彼が何かを図り兼ねている間、隣りでは『リリ』が子ギツネを抱きかかえて喜んでいた。
『本当に、毛がフワフワで可愛い~! ぬいぐるみみた~い♡』
『キャウン!』
「『リリ』は動物のぬいぐるみ好きだったね」
『うん、よく【844】と作ってるよ。あ、でも最近は作り過ぎないようにしてるけど……』
昔、ホームへ戻った時に『リリ』がぬいぐるみ作りにハマって、作ったクマやらウサギやらのぬいぐるみを実体化させて持ってきた時がある。
一時期はあまりにも多く作ってきたので、研究所の職員に配ったこともあったほどだ。
『そうなんだ? じゃあ、実物の動物の方はどうだい?』
『うん、滅多に見られないけど好きよ』
『うんうん、そっかそっか』
【472】が満足そうに頷いた。
『やっぱり女の子はぬいぐるみ好きなんだ。良かったね、スイ』
『キュー?』
「『…………ん?」』
子ギツネの返事と共に、彼と『リリ』は首を傾げる。
『ねぇ【472】……この子に何かするの? まさか、痛い実験とかしないよね?』
『何もしない、ただし環境は変えてみるんだ。スイを【グリーンベル】に連れていくつもり』
「あぁ、環境テストか…………」
『それもあるけど、あそこのチーフって女の子でね。スイを連れてったら喜ぶと思ったんだよ』
「え? 喜ぶ…………って……」
『だって、女の子ってぬいぐるみ好きなんでしょ?』
――――男でもぬいぐるみ好きはいるけど…………個人差だな……。
『え〜と……ぬいぐるみ好きでも、本物が好きとは限らないのよ?』
『なんで? ぬいぐるみのモデルって本物の動物だよねぇ?』
『え…………そりゃ、そうだけど……』
『どっちも可愛いじゃないか』
「『……………………」』
にこにこと子ギツネを抱き上げる【472】。それを呆気にとられながら見つめる所長と『リリ』。
『あ、そういえば所長、さっき図書館に行くって言ってたよねぇ?』
「うん……行くけど…………」
『ついでにこの子、【グリーンベル】へ連れて行く気ない? 自分は回線で移動できるけど、生体は物理移動が基本だろう?』
『無理よ、所長は忙しいの! 予定もまだわからないし!』
『えぇ~、やっぱりダメか…………仕方ないなぁ……やっぱり、あっちの室長の出張に便乗するか……』
『キャウウゥン……』
子ギツネは【472】にかなり懐いているようだ。うるうるとした緑色の瞳で甘えるように見ている。
「……それなら、私はこの子の【グリーンベル】への移送許可を出せば良いのかな?」
『さっすが所長。話が早くて助かるよ』
「『…………?」』
これで何度目か、彼と『リリ』は顔を見合わせる。
にっこりと笑った【472】の表情は、見かけの歳相応の……人間の少年そのものだった。
今日だけは、感情に疎いと言われた【472】が別人に見えてしまう。
『ねぇ……あなた、何かあった? 【グリーンベル】で……』
『う〜ん、今は特に何も。自分もリリの真似して、そこの施設にある“農場”の実験体の子供と遊んだりはするけどねぇ……』
少年の言葉に彼は眉を顰める。『リリ』も何かを考えるように首を傾げた。
「【グリーンベル】で子供の実験体……?」
『あそこに育児機関……前は無かったよね?』
『うん。ここ五年くらいでできたらしいよ。植物と人間の観察が目的って。産まれてから“不適合者”って言われた子供たちらしいね』
「……不適合…………」
それは『上級』『中級』の人間よりも下、『下級』や『低級』と呼ばれて細胞を取られずに生かされる人間たちのこと。
主に生体の実験や、肉体労働者として扱われることが多い。
一時期は人間の価値を不平等にするものだと批判されたが、人類が少なくなった現代では、能力や身体に付けられる格差は、人類繁栄のために仕方のない区別だとされている。
『いつか、私も行って見てこようかな……?』
「そうだね。気になるし」
『リリが来てくれるなら、農場の子供たちも喜ぶよ。それまでに、自分もチーフに会っておかないとね。そこにいる政府のプログラムが厄介なんだ』
「チーフ、つまり施設長だな…………ん? 今の【グリーンベル】のチーフって……」
ついこの間、【グリーンベル】の研究所では責任者の大規模な入れ替えがされた。
勉強と称して【472】が潜入している施設の施設長は、まだ13才の女の子だったと記憶している。
――――天才少女って言われてたな。そうか、あの子が……。
二年以上前に、クリスより前に助手をしていた青年の最期に立ち会ってしまった研究員の子供。
精神的に【中央都市】よりも【グリーンベル】の方が楽だろうと言われ、そちらに彼女を配属したのは彼だ。
その頃からずっと、【472】が密かに様子を見ていたのだと思うと、なんだか不思議な気分になった。
『とにかく、あとは君たちに任せるよ。自分は今から【グリーンベル】に戻って“農場”の様子を見るから。じゃあね!』
子ギツネを彼の胸に押し付け、いい笑顔で手を振り【472】は消えた。残された二人と一匹はア然としながらそれを見送る。
「【472】……なんか、その……ずいぶんとイキイキしているというか……」
以前は笑顔こそ見せてはいたが、どことなく作られた“定型”のような表情だった。それが、今日の少年からは、心底楽しんでいるとわかるものに変わっていた。
「前だったら、人でも物でも『観察するため』って言ったりしていたのに」
『きっと、そこのチーフさんのおかげね。そういえば、【472】は、ずいぶんと気にしてたみたいだしね……』
「気に入っているのかな?」
『そうね。ふふ、恋の力は偉大ねぇ。雰囲気まで変わってるのに、本人がまるで自覚してなさそうなのがまた…………』
ちょっとでも可能性がある場合、『リリ』は自分の“得意分野”に変換するのが好きだ。
「『リリ』、何でもそっちの方向に…………」
そう言いかけて、彼は言葉を止める。
――――“あなたを愛しています。”
熱烈な視線と、絡み付くような言葉が蘇る。
途端にゾクリと、背中へゆっくりと冷水を浴びせられた気分になった。
「……………………」
『……どうかした?』
「あ……いや…………」
――――自分がこれまで見ていたものは、確かに全て『愛情』からくるはずなのに…………
彼を慕って、公私共に健気についてくるクリス。
楽しそうに自ら政府の施設へ潜入する【472】。
急に好きな人から理不尽に引き離され、それでも一途に想う【844】。
相手と死別しながらも、悲しむ暇なく日常に戻らなければならない【915】。
彼に求めたのが記憶へ刻むことと死に場所であり、今際において愛を告白してきた女性。
急に目眩を覚え、眉間を指で押さえる。
『大丈夫? 頭痛いの?』
「うん、少し……でも大丈夫……」
いつも彼を心配する『リリ』。
明らかに彼が心地好く思っていたのは『家族愛』だ。
彼が今まで与えられていたのはそれであり、『愛情』という名から、もっと穏やかで起伏のない、普遍的な優しいものだとばかり思っていた。
しかし現実は一方的で、急に喪失し、危険を伴い、不安を抱えること。
それでいて、恐怖を覚えるほどに激しいものでもあること。
――――これが誰かを“好き”になることなら…………
「やっぱり、自分には無理だ…………」
この短期間で、自分が酷く『欠落した人間』であることに気付いてしまった。
『………………』
ボソッと呟いた彼を『リリ』は何も言わずに見詰めてくる。もしかして、自分の考えを読み取られたのでは? と思った。
勝手に気まずくなっていた時、彼の顔を温かいものが当たる。ふと下を見ると、子ギツネが彼の頬を舐めて膝で座っていた。
『キュウウン?』
「あぁ、ごめんごめん。お前のこと忘れるとこだった。もう、ケージに戻さなきゃな……」
『キャンッ』
子ギツネはケージに入れられる前に、すりすりと彼の手に頭を擦り付けてくる。
「あはは……可愛いもんだ」
『ねー? 動物って良いよねぇ』
「たまにしか見られないのが残念だな。それも、実験動物だけ」
『現代じゃ、愛玩用に生体を飼うのは禁止されてるものねぇ。プログラムは物足りないっていう声もあるし……』
「一般人が安易に飼育すると、すぐ死なせてしまうからね」
こうして、研究所で人工的に繁殖された動物を検査する時くらいしか、生身に触れ合える機会はない。
大昔にあった『動物園』も存在せず、現代ではホログラム上のものである。
『…………本当に自然界にはもう、この子たちみたいな動物は何もいないのかな』
閉められた扉の隙間から子ギツネを覗く『リリ』。子ギツネは中で丸くなって欠伸をしている。
「“外”で最期に観測された恒温動物はかなり前。最近じゃ、変温動物も見なくなったって公式で発表されていた。地表に餌の植物や水が無いんじゃ、生きていけないのは当たり前だよ」
確認されているのは、かつての深海と呼ばれた光が届かない大地の奈落だけ。
地上の哺乳類はとっくの昔に見られなくなっていた。
「そっか……お前は“貴重な存在”なんだな」
『キュウン?』
思わず、子ギツネに向かって呟いた。
ピピピ、ピピピ、ピピ…………
しばらくして、先ほどの青年が戻ってきた。
子ギツネの移送のことを話すと、その青年が自ら運ぶという。どうやら、【グリーンベル】にいるチーフとはちょっとした顔馴染みだったようだ。
『じゃあ、元気でね。また会いましょう』
『ヒャン!』
可愛い物好きの『リリ』は名残惜しそうに子ギツネに挨拶をしていた。
…………………………
………………
少し季節が変わった頃、彼はやっとまとまった休日を取ることができた。
『それじゃあ、そろそろ行くとしましょうか?』
「うん。そうだね……」
彼と『リリ』は磨き抜かれた広い通路を進む。
彼が三十数年振りに【永久図書館】を訪れる日だった。




