第一話
ひとりの中年の男性がそこに立っていた。
彼は自分の足下がカラカラに乾いた砂の大地だと気付く。
それは360度、地平線まで砂漠。
キャラメル色と濃い青色が、はっきりと世界の上下を分けていた。
――――そうか、私は失敗したんだ。
何故か言葉が頭に浮かび、ボロボロと零れた涙が頬を伝うが、着ている白衣を濡らす前に蒸発していく。
――――いい歳をして泣く訳には…………
そう思って袖で拭おうとした時、
「うわぁっ!?」
彼の身体は一気に砂の地面に埋まった。まるで地中から足を引っ張られたようだ。
「うっ…………」
脇まで埋まって、そこから這い出ようと藻掻くが、砂は流動的で捕らえどころがない。
「だ、誰かっ……!!」
ざぶっ! 少しずつ身体が砂に埋まり始めた。
「助けてっ!! たす……ゲホッ!!」
救いを求めて叫ぶ口の中に砂が入る。
「やだ!! 死にたくないっ!!」
急に、叫んだ声が妙に高くなった。有り得ない事に自分の身体が小さな子供になっている。
「助けて!! ーーーーーっ!!」
ザバッ!!
誰かの名前を呼んだところで、彼は完全に砂に埋まった。
…………………………
………………
「…………………………………………………………………………………………………………」
真っ白な天井の下、大きなベッドに横たわる中年の男性は、眼をこれでもかと見開いたまま黙って宙を見詰める。
「………………朝……?」
いつも通りの朝。
昔からアラームが鳴る三分前に目が覚めてしまう癖があったので、彼は寝坊をするということはほとんどなかった。
すでに眠気は微塵も無く、二度寝もする気はない。びっしょりと汗をかいた身体は寝疲れで痛みが走り、彼はすぐに起き上がることができなかった。
ピピピ、ピピピ、ピピピ…………
しばらくすると、音と共に空中に時計の表示が現れ、彼は寝そべったままそれに触れてアラームを解除する。
「………………よいしょ……」
彼がベッドからのそのそと立ち上がり寝室を出ると、廊下で何かを移動させて忙しなく走る少女の姿が視界に入った。
少女の見た目の年齢は十五、六歳。全体的に小柄で、腰までの金髪にリボンを可愛らしく織り込んでいる。
「…………おはよ」
『あ、おはよー! 朝ごはんできてるから、さっさと着替えて顔を洗ってきて!』
「はいはい…………」
促されて洗面所へ向かうと、正面の鏡に寝起きの男の顔が映った。
三ヶ月前に切った白髪混じりの黒い髪はボサボサだ。頬はこけていて目の下にはクマがある。しっかり寝たはずなのに全然疲れが取れなかった時の顔だ。
「この頃は毎朝ひどい顔だ……髪も切らないとな。ま、来年40になるならこんなものか…………」
ひとり鏡の自分に向かって、侮蔑と慰めを口にしてアゴや頬を撫でる。
「なんか……変な夢、見た気がする……」
洗面器に水を貯めながらため息が出た。
髭を剃り髪の毛をできる限り整え、寝巻きから出勤用のシャツとスラックスに着替えて、食事を摂るための部屋へ移動する。
廊下にある焦げ茶のドアを開けると、そこはまるでロッジのような木目を基調にした造りの部屋で、家具も装飾も木と布でできていた。
正直、家主である彼の雰囲気にはあまり合っていないが、毎日見慣れているので少しも気にはならない。
『はいはい、すぐに準備できるよー!』
キッチンに繋がっている部屋の端の木のテーブルに、先ほどの少女が料理の乗った皿を並べていた。
少女は可愛らしいエプロンとスリッパを身に付けている。どうやら、この部屋の趣味は彼女のもののようだ。
「改めて、おはよう……」
『おはよう。さっき思ったけど、そろそろ髪の毛切ってあげようか?』
「うん。次の休みに頼む……」
『了解。はい、じゃあ朝ごはん食べてね!』
元気の良い声に急かされ席に着く。
テーブルには焼きたてのパンをはじめ、スープ、サラダ、チキンの香草焼きなどが“一人分”並んでいる。朝からけっこう豪華だ。
「あぁ、今朝はパンか……」
『そーよ。ちゃんと小麦粉とかイースト菌なんかを使って、昨晩から仕込んだのを今朝焼いたの。お昼はそのパンで作るサンドイッチだから楽しみにしててね!』
「そっか。ありがとう…………ふぁ」
彼は意気揚々と話す少女を、軽く欠伸をして微笑みながら眺めた。少女が自分の作った食事を、誇らしげに紹介するのは毎朝の日課だ。
だが、今朝は彼はまだ眠そうにしていた。いつもより極端に口数が少ないく、欠伸ばかりがでてしまう。
「ふぁ…………ふぅ……」
『なんかテンション低い。パンよりライスの方が良かった?』
「いやいや、毎日毎食、作ってくれるごはんはどっちでも美味しいよ。ただ、最近はちょっと朝が弱くなってきたかな……昔ほど、シャキッと起きられない」
彼の発言に少女は眉間にシワを寄せた。
『何を年寄りみたいに……まだ39なのに』
「来年は40だし、もう年寄りだよ。平均寿命も今や45・8才だからな」
『世間ではまだ50才になってたね?』
「……混乱が生じるから、政府としてはまだ事実が言えないらしい」
『ふぅん。あ、わたしも食べよっかな♪』
少女は棚から自分用の皿を出して並べる。
皿は空だったが、少女の手から離れてテーブルに置かれた瞬間に、勝手に彼と同じ料理が皿の中に出現した。
それを微塵も気にもとめず、彼は少女と向かい合って食事を始めた。
「じゃ、いただきます……」
『はい、どうぞ。いただきまーすっ! んー、我ながら美味しそうにできたわ!』
二人は他愛ない世間話をしながら、朝食をゆっくりと楽しんだ。
食卓のある部屋の窓の外。朝の柔らかな光に照らされ、可愛らしい花壇やプランターが並ぶ庭が広がっていた。
…………………………
………………
「ん……そろそろ行くよ」
そう言って彼は壁に掛けてあった白衣に袖を通す。その姿にはベテランの風格がある。
『後で行くけど…………今日こそ帰りは早くね』
「善処する。だから、職場で帰るまで待つなんてやめてくれよ?」
『分かってるわ。善 処 し ま す !』
「ん。じゃ、いってきます『リリ』」
『はい、いってらっしゃい。所長さん』
彼は自室から来たとは違う扉の前に立った。
「…………『執務室』へ」
一言、前方に向けて言い放つと、シュッという音を立てて扉は横へスライドした。その中はまるで青い光が壁のようになっていたが、彼は迷うことなくその壁をすり抜ける。
トン。
彼が床に足をついた。
その途端、彼の体に入る空気は一変する。
ふんわりとパンの良い匂いを漂わせた暖かいものから、目の覚めるような澄んだ涼しさに。
そこは先ほどとはまるで違う部屋だった。
磨き抜かれた真っ白な床と壁。置かれている物も無機質でモノトーンのデザインに囲まれている。
真っ先に目に付くのは正面奥の壁一面の大きな窓。
薄暗かった部屋は彼の入室を待っていたように、その窓に掛かっていたカーテンを巻き上げていく。
明るい光が入ってくる窓から見えるのは、恐ろしく青い空と細長い幾つもの建物が並んでいる景色。
まるで等間隔に生えているヘアブラシのように、ビルの一本一本の見分けはつかない。ビルの隙間に、樹木やその他の植物のようなものは一つも見当たらなかった。
彼のいる部屋はこの建物の最上階である。ビルの隙間から覗くタイルで舗装された地上では、歩く街の人間が胡麻のように小さくしか見えなかった。
――――まだ、街の中は人間が歩けるだけ良いか。
街から一歩でも“外”へ出れば、動植物もいない乾ききった砂漠の大地である。
この世界において、現在の人類の活動領域は“都市”だけになっていた。