第2章 49『密談』
──痛い。顎が痛い。腕が痛い。冷たい風が今は憎い。
月光に当てられる二人はまるでクライマックスのアクション映画宛らの役者であった。
「離してくれないか?痛いんだが」
関節技を決められたアスタはコードの脚をペシペシと叩き、闘う意志はないとサインをした。すると、コードはそれを受け取ってか、直ぐに関節技を解いた。
「やけに素直に離してくれたな」
「ふん」
意外にも素直な反応に多少の戸惑いこそあれど、いつも通りだ。
「じゃあ、急いでるから俺はこれで……」
「待ちなさい」
上手く言いくるめれば、何事もなく立ち去れると思っていたが、やはりそう簡単にはいかない。
「なに?」
「あんた、こんな所で何してたの?まさか、脱走だなんて馬鹿な真似じゃないでしょうね」
「いや、脱走とはちょっと違うかな」
「じゃあなに?」
「人に呼ばれて…」
「人?誰よそれ。まさか、講師の誰かなんて言うつもりじゃないでしょうね」
呼び出された相手が講師なら、こんなコソ泥みたいな事をしなくても寮長なら外出の許可を取ってくれるだろう。だが、今回アスタを外に出るよう誘ったのは此処の講師ではなく、王国全体でも有名な最強の騎士を肩書きに持つ男だ。相手からすれば、到底信じられる話ではない。
「……ヘルド・K・メイヴィウス」
しかし、アスタは正直に答えた。この返答にコードがどのような反応をするかは分からないが、ここで嘘を吐いて後々になってバレて、面倒臭い事になるくらいなら、今此処で素直に白状しようと思ったからだ。
嘘とは一時の強い効力があるとは言え、それが長く続くとは限らない。しかもそれなりのリスクを背負う事になり、信頼を失うかもしれない。いや、それだけでは事足りない場合もある。
「……あんた、それ本気で言ってる?」
「ああ、嘘だと思うなら、一緒に来るか?」
「……いい」
「──?」
何か妙だ。ほぼ全国民が憧れている最強の騎士と会えると言うのだ。普通ならヨハネのような反応をする筈である。しかし、コードの反応は素っ気ないと言うべきか、普通じゃない。そう、今でこそ、アスタはヘルドに恐怖しているが、それはほんの一瞬だけである。二年前のレイドの出発式で顔を合わせた時にはヘルドは大きく、今の自分では超えられない存在だと実感させられた。そうなると、コードの反応は今のアスタに近いものなのだろう。
「そ、そうか」
違和感は残るが、時間がない。アスタは再び影属性の魔法を使って姿を消し、この場を後にした。
「……なんで彼奴が来てるの」
* * * * *
時間を喰ってはしまったが、無事に寮から離れ、校庭の隅にある倉庫の影に隠れた。
「あっ、でもあの人俺が此処にいるの分かるのかな?校庭で待っていろとは言われたけど……」
月が雲に隠れ、月光が遮られる。結果として、再び闇夜が周囲に広がり、アスタにとっては身を隠す絶好の衣にはなったが、逆にこれではヘルドからアスタを視認出来ないだろう。それはアスタからヘルドに対しても同じ。それ程にこの世界の夜は暗い。
「暗い……静かだ」
何も聞こえない。鳥の囀りも人々の足音も時計の音も、常人ならこの状況に不安を覚える者もいるだろう。だが、アスタは何処かズレている。
「気持ちいい……」
アスタは今の状況に安心感を覚えていた。暗く、冷たい空気と頬を摩る風が心地良いのだ。
(こんな気持ちいつぶりだろう)
これは、過度な緊張と睡眠不足、疲れ、そして高揚感。これらが合わさった事により、起こる身体現象である。これはアスタが可笑しいから起こる訳ではなく、日常生活の中で誰しもが起こるかもしれない現象である。これを脳内麻薬と言い、過度な運動をし過ぎると起こる、脳が苦痛を訴える為の合図を無視した先に起こるものである。
今回の場合は、授業、シンナー関連の事による東奔西走、急に向けられた殺意からの緊張感、そして、昨夜の作戦会議による睡眠不足によって、今日の午前十時時点でアスタの身体は苦痛を上げていた。その結果、アスタの脳は身体を無理に休ませようとしている為、今、アスタは快楽のようなものを得ているのだ。
「……今ならなんでも出来る気がする」
こう言う事は前にもあった。──そう、コーヒーを飲んだ日である。あの時、アスタが初めて経験したカフェインによる身体の高揚感と集中力、それに今の感覚が似ているのだ。
身体を休ませてはいられない。考えるより先に身体が動いた。
(なんでだ?疲れてる筈なのに、身体が軽い)
校庭に設置されている鉄棒で少し身体を動かしただけでも自分の身体がいつも以上に動く事を実感出来る。これが脳内麻薬の良い所でもあり、悪い所でもある。アスタ自身は気付いていないが、おそらく、これが切れた瞬間、泥のように眠るだろう。
「待たせたね」
涼やかで凛とした声がアスタの耳に届く。その声が聞こえた瞬間、消えていた街灯も点灯し、冷たく鋭い風が頬を撫でた。
「……全然、貴方こそ、僕に何のようですか?ヘルド・K・メイヴィウスさん」
「はは、そんな畏まらなくてもいいよ。僕の事は気軽にヘルドと呼んでくれ」
実の所、お互い面と向かって話すのはこれが初めてである。最初にヘルドがボルスピに来た時はヘルドがフードを被っていて、顔を確認出来ず、二度目にレイドの出発式の日に王都で会った時は顔を合わせた程度で話をしていない。だから、決して初対面ではないものの、お互いの事はまだ理解していない。
「君の話はお兄さんからよく聞いていたよ。その歳で無詠唱魔法と複数属性同時で魔法が使えるんだって?」
「…前者はそうですが、後者は違います」
「え?そうなの?エグゼくんも君が複数属性同時に魔法使えるって言ってたけど……」
複数属性同時魔法、これは無詠唱魔法よりも高等技術なのは承知の事実。何故かと言うと、複数属性同時魔法は両手で別々の魔法を使う為、つまり、複数属性同時魔法を使う為の最低条件として無詠唱魔法が使える必要があるからである。アスタも無詠唱魔法が使える為、最低条件は揃っている。だからと言って、完璧な複数属性同時魔法が使える訳ではない。アスタが稀に使う複数属性同時に使っているように見せ掛けている魔法は、ビットを動かして錯覚させているにすぎない。おそらく、本物の複数属性同時魔法を使える者は今の王国内に存在し得ないだろう。
「それはそう見えているだけです」
「見えてるだけ?」
「これです」
アスタは左手の掌から風属性を司るビット、ウイを出した。
「これはっ……精霊!!」
「──!知っているんですか?」
「……ああ」
これで三人目だ。ビット、精霊の事を知っている者は。
(それにしても、この人は何処で知ったんだ?信じ難いけど、アンジェさんは五百年以上前に実在していた賢者マーリンから、サムさんは……そう言えばあの人は何でビットを知っているんだ?)
「しかし、精霊か……」
ヘルドが言葉を発した途端、ウイがアスタの周りを旋回し始めた。そして、そのまま風の渦でアスタを包んでしまった。
「お、おい!どうしたんだ!?」
アスタが何の命令もしていないのにビットが突然動き出した。
「……!!」
「こんな事初めてだ。おい、一体どうしたんだ!?」
その風の渦を前にヘルドは一歩後ろを下がる。まるでこの風はアスタを守り、外敵から身を守る衣のように更に風力を強める。
「おいやめろって!!──えぇ!?」
アスタがウイに止めるよう命じるが、止めないどころか、アスタの身体から他のビットも全て飛び出した。
(拙い、この風もそうだけど、これじゃビットの光で人が集まる)
「……分かったよ。今はまだやめとくよ」
「──え?」
ヘルドが小声で何か言った。その言葉はアスタの耳には届かなかったが、ビット達は意味を理解したようで、突然アスタの身体の中に戻り、アスタを包んでいた風の渦も止んだ。
「ごめんね。どうやら、精霊達を驚かせてしまったみたいだ。残念だけど、僕はこれで失礼するよ」
「はぁ…」
ヘルドの言葉の意味は分からないが、何故かアスタの前から去ろうと反対を向いた。どうやら、此処にはいられないようだ。
(兄さんの事、何も聞けなかったな)
話題がビットの事になってしまった為に肝心のレイドの事は聞けなかった。アスタにとってはこの結果は非常に残念と言うべきか、リスクを取った割には望むリターンが得られなかった事から、肩を落とし、寮へと戻ろうと元来た道を歩き出した。
「ああ、そうだ。君のお兄さん、生きてるよ」
脚が止まる。瞬間、脳内に何か異物が入ったかのように頭が揺れる。その言葉に自信の耳を疑いもした。
「──────え?」
長い沈黙の後、ポッカリと開いた口から言葉が出た。次の瞬間には踵を返し、再びヘルドと対面していた。
「それ、どう言う……」
「言った通りだ。君のお兄さんは生きている。本当は、ただそれだけを伝えたくて今日は此処に来たんだ」
「そう…なんですか…」
ヘルドの顔をまともに見られなかった。
──何故か?
理由は単純だ。目から溢れる塩分を含む水分、涙で視界が確保されてなかった。
僅かではあるが、レイドが生きていると言う希望が見えた。それは、アスタにとって復讐をしなくてもいい理由にもなる。つまり、復讐と言う概念からアスタは解放されるのだ。
「じゃあね。君ともまた会える日を楽しみにしてるよ」
アスタは泣き崩れ、ヘルドはこの場から去る。ヘルドの表情は、心なしか穏やかに笑っているようだ。
* * * * *
しかし、アスタの姿が完全に見えなくなった暗闇の中、こう一言呟いた。
「まあ、アレが生きていると断言できるかは、僕も分からないけど」
人は、一人になった時、本心を曝け出せる。自分が世界で一番信用できるのだから。




