第2章 7『魔犬病』
「──てください」
胸の中の黒い何かが足先を蝕む。そこから徐々に煙のようなものが押し寄せ、少しずつ身体を支配していく。まるで、獲物を見つけた蟻のように。
「──きてください」
声が聞こえる。暗闇の中に差し伸べられた手。僅かな力を振り絞り、それを掴んだ。
──離すものか。
死に物狂いでその手を掴み取り、そして、引き上げられる。
「起きろ!!」
「いっ!?」
大声量で叫んだ声は、華奢なアンジェからは想像もつかない様な声でアスタの耳元に響いた。
「あ、おはよう御座います」
「おはよう御座いますじゃないですよ。何時だと思ってるんですか?」
気怠い身体を起こし、窓からの景色を見る。
すると、外はもう真っ暗になっていて、目を瞑る前に見た明るい景色は闇夜に染まっていた。
「もう夜ですか…」
「夕食の準備は出来ています。直ぐに下りて来てください」
アンジェが部屋を出てから、ベッドから起き上がった。
「ゴホッ」
喉が痛み、一つ咳払いをした。
「……風邪かな」
△▼△▼
一階に下り、食事場で夕食を食べてから十五分程経った頃、アスタがふと気になった事をアンジェに聞いた。
「そう言えば、アンジェさんって誰から魔法教わったんですか?」
一年前、アスタに見せた氷属性の魔法。
氷で空中に道を作ったり、一編に一回の魔法で複数の氷柱を作ったりと、アスタにも出来ない芸当をやって見せた。
「俺も、ボルスピに帰ってからアンジェさんのやっていた魔法を自力で習得しようとしたんですが、どうも上手くいかないんです……。アンジェさんにも魔法の師がいる事はヤーフさんに聞いていますので、よければ、紹介して貰えたらと……」
アンジェはハンカチで口元を拭き、アスタの目を見た。
「魔法ですか……。確かに、私にも魔法の師はいましたが、あの人は会ってくれませんよ」
「どうしてですか?」
「……私も顔を知らないから」
「えっ?じゃあ、どうやって魔法を教えて貰ったんですか?あんな魔法、ちょっとやそっと練習しただけじゃ、身に付きませんよ」
「そこら辺の記憶が曖昧なだけです。まあ、師の名前は覚えてるけど……」
「その、名前は…?」
アンジェは少し不機嫌そうに口調を変え、師の名前を出した。
「マーリン」
「──えっ、その名前って……」
「はい。この話は終わり。食器片付けてから寝てくださいね」
アンジェは席を立ち、そそくさと自分の食器を洗いに厨房へ行ってしまった。
* * * * *
時計の短針が九を越えた頃、アスタは屋敷の大浴場で身体を洗い流していた。
(…どう言うことなんだ?アンジェさんの魔法の師匠があの、賢者マーリン?マーリンは五百年前に死んだ歴史上の人物の筈なのに……。今も生きているのか?)
アスタは石鹸を洗い流した後、熱いお湯へ片足を入れた。その時である。
「──ゴホッ」
痰が喉に引っ掛かると、食道菅が刺激され、急な咳き込みと共に喉の奥に詰まる痰を手に出した
「──え?」
自分の手を見て、血の気が引いていくのが分かった。
「これ、血痰?」
痰を吐いた掌が赤に染まっていたのだ。偶に、祖父がこの痰を吐き出す時がある。そういう時は、大抵次の日に体調を崩す。
だから、アスタは、自分の身体が不調な事に気が付けた。
「駄目だ。明日は試験だから休む訳にはいかない」
しかし、明日はアインリッヒ大学の入試試験だ。追試があるとは言え、おめおめと試験を休んで不合格になる訳にはいかない。
「今日は早めに寝て、明日の朝に追い込もう」
アスタは、少しでも体調が良くなる事を願って、布団に入った。
「此処が、アインリッヒ大学か」
次の日、朝食を食べ終えた後、アンジェに馬車でアインリッヒ大学まで送ってもらい、試験開始一時間前に会場入りをする事が出来た。
試験は二日間あり、一日目は筆記。二日目は実技の試験となる。
「此方の席にお座りください」
在校生のスタッフに案内され、アスタは筆記試験を行う教室に入室し、前から二番目の中央の席に座った。
教室の中にはアスタ以外にも四人程、既に入室していて、最後の追い込みの為に予習の問題に目を通していた。
アスタも、持ってきた予習用のテキストに目を通し、最後の追い込みを行う。
それから一時間後、試験官がやっくると同時に、アスタは予習用のテキストを鞄の中にしまい、本番用の羽ペンとインクを机の上に出し、試験官から試験の説明を受ける。
「君達は受験生とは言え、本試験を受けるに当たっては、身分も立場も関係はない。不正行為を行わず、正々堂々と試験に臨むよう。以上」
試験官から短く試験中の注意を受け、一人ずつ配られたテスト用紙を裏に返し、問題が見えないようにする。
「始めっ!」
試験官の合図と同時にテスト用紙を表にし、問題を解き始める。
* * * * *
「はあ〜、疲れた…」
百二十分の試験時間が終わり、アスタはアインリッヒ大学の校門前まで戻って来てた。
(合格点は言われてないけど、自己採点だと百六十点は取れてる筈だから、筆記で落ちる事は無さそうだな)
明日の実技試験のために直ぐにでも屋敷に戻って身体を休めたかったが、思うように足が動かない。
「──っ、やっぱり疲れてんのか?目眩がするな…」
アスタは、校門を出て直ぐのベンチに腰を掛け、一度休憩を挟んだ。
「はあ…、はあ…」
激しい運動をしていない筈なのに息切れが起きる。
心臓の鼓動がいつもより激しい。耳にまで心音が伝わる。
「──ゲホッ、ゴホッ」
右手で口を押さえ下を向いて咳き込む。
「──うっ!?」
昨晩と同じような感覚に襲われ、掌を見る。すると、掌には昨晩、浴場で出した血痰よりも赤黒い血の塊が広がっていた。
(まずいな…。なんかの病気に罹ったのか?)
アスタは、フラフラの足でどうにか屋敷まで帰り、雑に荷物を床に置くと、ベッドへと倒れた。
「寝れば治る筈だ。だけど、一応治癒魔法を……。いや、明日の実技試験の為にもここで魔力を使う訳にはいかない」
体調の良し悪しで魔力の回復量や魔法の精度が変わる時もあるため、迂闊に魔法を使う訳にはいかない。それに、この身体の不調が治癒魔法で治るとは考えにくかった為、治癒魔法を使わなかった。
「あ〜、どうすりゃいいんだ」
今の時間は十五時。どうしようか暫く悩んだ後、アスタはこの身体の不調を抑える為にアンジェから薬を貰おうと一階へ下りる。
「あれ?いないな」
しかし、一階には人の気配がない。
「庭にいるのかな?」
外に出て、花壇の方へ歩く。太陽が少し傾き始め、長くなった木の影が先にアンジェの姿があった。
「あ、いた」
アンジェは、花壇の花に水やりをしている最中だった。
「アンジェさん、ちょっといいですか?」
「何でしょうか?」
「あの、何か薬とかありませんかね?」
「薬?風邪薬でいいなら……。──ん?」
アンジェは鼻を動かし、周囲の臭いを嗅ぐ。
「すんすん。なんか変な臭いしますね」
「えっ?俺、臭いますか?」
「いや、そうじゃなくて…」
アンジェはアスタに近付き、アスタの首筋辺りに鼻を近付ける。
「んー、少し獣臭い……。アスタくん、最近、犬系の魔獣に噛まれませんでしたか?」
「え?あ──、そう言えば、一昨日の夕方にキラーウルフに脇腹を噛まれましたね」
「……最近になって、血痰が出たりしませんでしたか?」
「はい。昨日と今日出ました」
アンジェはその言葉を聞くと、持っていたジョウロを落とし、アスタの方を見て言った。
「ついて来てください。事は一刻を争います」
アンジェから並々ならぬ緊張感が溢れ出る。その空気に、アスタは只事ではないと感じ、言われるままにアンジェの後ろをついて行った。
そうして、ついて行った先は、屋敷に入って直ぐの2階に上がるための階段だった。
「確かここに…」
アンジェは、下から三段目の階段の段差の端の壁に触れ、強くスイッチのような物を押し込んだ。
ガコンッ
鈍い音が屋敷内に響いた。
「おっ、おお…」
すると、階段の隣にある物置部屋の床が開き、中から隠し階段が現れた。
「さあ、行きましょうか」
アンジェは蝋燭を持って、地下への階段を下りる。
アスタも、アンジェに続いて階段を一歩、一歩ゆっくりと小股で下りる。
「ここは……」
階段を下りた先にあったのは小さな小部屋だった。部屋の中央に少し大きめのベッドが置いてあり、部屋の周りは医者が使いそうな道具や本が並べられていた。
「アスタくん、ここに寝てください」
「は、はい」
アスタはベッドの上に横たわる。視界に映るのは、蝋燭に照らされた灰色の天井とマスクを付けるアンジェの姿だった。
「あの、今から何をするんですか?」
「詳しい説明は後です。気休めにしかなりませんが、これを嗅いでください」
アンジェから小瓶を渡される。
小瓶の中には緑色の薄い液体が入っていて、言われた通りにその液体の中を嗅ぐと、薔薇のような甘い香りが鼻の中に入った。
「…嗅ぎましたよ」
「……眠くありませんか?」
「──?いえ、特に…」
「そうですか…。少し、我慢してください」
「え?──むぐっ!?」
口を猿轡のようにタオルとベッドで固定された。
(な、何を──)
何をされたのか聞く前に器用な手付きで手足にも枷を掛けられた。
「確か、脇腹でしたよね。それならまだ間に合う。最初は痛いですが、男なら頑張ってください!!」
アスタの脇腹に切開用のメスが入る。
「──────!?」
尋常じゃない痛みに身体のあちこちが震える。生命への危機反応だ。
アンジェは慣れない手付きで脇腹の傷を少しずつ広げていく。
傷が広がる度、絶叫したくなるような痛みが身体を襲う。だが、声は出せないし、身体を動かす事もできない。
「麻酔が効くまで耐えてください!」
布が唾液塗れになり、生暖かい唾が歯の隙間から出る。
地獄すら生温い程の激痛に悶えながらも、しだいに痛みが無くなり、完全に身体の感覚が無くなるまで10分も掛からなかった。
その間も、アンジェはアスタの脇腹に何かをしている。時折り、脇腹に注射を打ち、何かの液体をアスタの身体に注入する。特に、痛みはなかったが、その箇所には違和感のようなものが残った。
「精霊よ舞い踊れ!力を失くした者に慈悲の光を『サーナシュリン!』」
アンジェの掌が発光し、静かにゆっくりと切開したアスタの脇腹を治してゆく。
「はあ、はあ……。これで大丈夫かな」
アンジェはアスタの口に固定させたタオルと手足に付けた枷を外した。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
アスタは、身体を起こそうとするが、片手でアンジェに止められる。
「まだ身体を動かさないでください」
「はい」
アンジェは、蛇口から水を出し、それをコップに入れてからアスタの口に軽く含ませた。
喉は水分を求めていたらしく、口の中が潤される。
「ところで、俺に一体何をしたんですか?」
「……魔犬病の治療です。荒治療になってしまったのは謝りますが、こうする以外、方法がなかったんです」
「魔犬病……」
「魔犬病は、キラーウルフやシャドードック等の犬系の魔獣を媒体にする病原菌です。その病原菌を移された者は、次の日から血痰を出すようになり、最終的には身体中の血を吐血し、出血多量で死に至ります」
命の危険が知らず知らずの内に迫っていた事に恐ろしくなり、身体を身震いさせる。
「本当なら、特効薬で治療したかったのですが、生憎、魔犬病の特効薬は王都にはありません。仕方なく、身体から菌を死滅させる為にアスタくんの身体を切開して、病原菌を殺すくらいの更に強い、病原菌を直接打ち込みました。打ち込んだ病原菌で二〜三日は高熱が続きますが、おとなしくしていれば治る風邪のようなものです」
長々と魔犬病を治療するためにやった事をアンジェは説明した。アスタも、それに納得はしたが、一つ、不安材料があった。
「あの、二〜三日高熱が続くって事は、明日の実技試験はどうすればいいでしょうか?」
そう、アインリッヒ大学の入試だ。一日目の今日は身体に鞭を打ってどうにか出来たが、高熱確定の明日は身体を無理には動かせないだろう。
「大丈夫ですよ。四日後に追試がある筈なので、それまでに体調を治せばいいだけの話です」
「そうですか…」
「あっ、そう言えばアスタくんは一昨日、キラーウルフに噛まれたんですよね?」
「──え?はい」
「その時、他の誰かも噛まれませんでしたか?」
「あ……」
記憶の中で熱を出したカールが浮かんだ。
「噛まれてました。カールさんです。今、ナモナキにいます!」
「──っ!」
(魔犬病に罹る確率は低いとは言え、実際に目の前に罹った人がいる)
アンジェは、急いで外出の準備をしてから、アスタを2階のベッドまで運んだ。
「私は今からナモナキに行ってきます。一応、明日はヤーフ様が屋敷に来る予定なので、それまで安静にしていてください」
アンジェは、机の上に置き手紙を残し、屋敷を出て行った。
アスタは、広い屋敷に一人きりとなった。
その日の夜、三十九度の熱を出したのは言うまでもない。
【豆知識】
王都は、ヘクス運河の最下南にあり、王都付近は魔獣の数が他の場所よりも少ない。魔獣は色々な所にいるが、王都とヘクス運河を囲む4つの都市は一方向だけ警戒していればよかった筈なのだが、最近になって、ヘクス運河の内側に魔獣が現れるようになった。




