第1章 15『馬はもう懲り懲り』
美味しい朝食を食べ終え、アスタと祖父の二人は馬小屋の前まで来ていた。
「アスタ、もう震えは止まったのじゃな?」
「うん、大丈夫……だよ」
朝食を食べ終わった頃から、アスタは口を開くようになり、今日の試合の意気込みや体調の具合等を話していた。
それまでは、誰とも目線を合わせず、食事場の隅で産まれたての子鹿のように震えていた。
「アスタくん、フライデンさん。馬の準備が出来ました」
ヤーフが二頭の馬を連れて、ゆっくりと歩いて来た。
「今日は馬車じゃないんですか?」
「はい、折角ですので、御二方には乗馬を体験してもらおうと思いまして」
手綱に引かれてやって来た二頭の馬。一匹は黒色の毛並みで、いかにも足が速そうで気象が荒そうな雄の馬、『ジャレッド』と、騎手の言う事を聞かず、前提として、滅多なことでは人を乗せて走らないと、ヤーフが話してくれた雌の馬『ドロシー』だ。
「乗馬ですか?」
「はい」
アスタが馬に乗ることを少し戸惑っていると、ぶちぶちと聞こえてはいけない音が馬の方から聞こえた。
「ん?」
二頭の馬は鼻息を荒げ、ジャレッドはヤーフが持っていた手綱を力付くで引きちぎり、フライデンに向かって全体重を乗せた突進をした。
「──!?」
フライデンに馬の大きな体がぶつかり、頭を掬い上げて、軽く空中に放り出した。
「爺ちゃん!?」
「フライデンさん!!」
ジャレッドの突然の行動にアスタとヤーフは驚きを隠せない。手綱を握っていたから油断していたのもあるが、馬の馬力を二人とも完全に侮っていた。
「なかなか元気な馬っころじゃの」
ジャレッドは自由落下する祖父に向かって、すかさず二撃目を入れようと突進する。
「このままじゃまずい!アスタくん合わせてください!」
「はい!」
アスタとヤーフはジャレッドを止めようと、お互いに魔法を繰り出したが、
「──『サラマンダー』!!」
「ふっ」
アスタはいつもの癖で、つい無詠唱で魔法を放ってしまった。その結果、ヤーフの放った火属性の魔法とアスタが足元から出した氷属性の魔法が反発した。更には、発動のタイミングすらも全く合っていなかった為、お互いの魔法を打ち消す結果となってしまった。
「魔法が消えた!?」
「アスタくん、もう一度だ!今度は私が──」
アスタが困惑している最中、ヤーフは直ぐに頭を切り替えて、無詠唱の魔法にどうにか合わせる体勢を整え、アスタに自分が無詠唱の魔法とタイミングを合わせると言おうとした瞬間、ヤーフの身体がフワッと宙に浮いた。
「おっ?お?」
ヤーフの身体はフライデンよりも高く打ち上げられた。
アスタから第三者目線で一目見るだけでも、その高さは、軽く三十米は超えていた。
「ヤ、ヤーフさん!!」
何故ヤーフがあんな所まで飛ばされたのか、焦りながらも疑問を感じ、先程までヤーフが立っていた場所を見ると、そこには優雅に草を食べているドロシーがいた。
「まさか、こいつが?」
「ありえない」と思いたかったが、ヤーフが空中に打ち上げられ、この馬がここで鎮座しているという事実は変わりようのない現実であった。
(くそっ!どうする?ここで二人同時に助けるのは不可能ではないかもしれない。だが……)
アスタは二人の落下速度を見て、直ぐにでも風属性の魔法を使えば、落下の衝撃を緩和させる事は可能だと思った。
しかし、フライデンの方は下でジャレッドが待ち構えている。つまり、例え風魔法を使い、落下の衝撃を緩和させたとしても、フライデンにジャレッドの二撃目が来る事は明白である。
(だったら先にジャレッドを無力化するか?)
ここで氷属性の魔法を使い、ジャレッドを氷漬けにしてしまえば、フライデンを助ける難易度は格段に下がる。
(だけど、連続して魔法をタイミング良く使える保証はない)
氷結魔法を使ってジャレッドを氷漬けに出来ても、数秒後には風属性の魔法を使わなくてはいけない。それも、ヤーフが上空から自由落下を始めている為にニ回連続、もっと言ってしまえば同時に魔法を発動させる必要がある。
この間、約一秒にも満たない時間でアスタは考えた。しかし、時間はアスタの選択を待ってはくれない。
(こうなったら、賭けに出るしかないか)
アスタはジャレッドに意識を配りながら、まずヤーフの落下地点に向かって萌葱色の球体を掌から出した。あの日、レイドが王都へ向かう前日の試合で使ったものだ。アスタはこれを『ビット』と呼ぶ。ビットは、属性ごとに一つずつ球体があり、この球体は一つ一つがアスタの脳内であらかじめ行動を決めて自動的に動かす事で規則的な動きをする『オートマティックモード』と脳内から直接動かし、虫や鳥の様に生物的な動きをする『バイオロジックモード』がある。今回使ったのは、身体と精神への負担が少ないオートマティックモードである。
萌葱色の球体は真っ直ぐと規則的な動きをしながら、ヤーフの真下へと移動した。そして、ビットを中心に渦のように風が回り、落下の衝撃を緩和させた。
「次はあの馬だ!」
ヤーフが無事だと判断し、今度はジャレッドの方に視線を移す。
「まだ落ちてはいないな」
ノーモーションで足元から巨大な氷塊を作り出し、ジャレッドを氷漬けにしようとした。しかし、アスタはまだ馬の脚力と馬力をなめてかかっていた。ジャレッドは素早い身のこなしで直線上に迫って来る氷塊をかわして、此方を睨んだ。
「こいつっ!」
ジャレッドは右の前足を数回動かした後、頭を前に突き出して、此方に突進を始めた。こうなってはもうフライデンを助けるどうこうではない。アスタ自身にも身の危険が迫っていた。
「ん?」
その時、洗濯をしていたアンジェの視界に暴走する馬、それに対抗しようと両手を構えるアスタ、地面に横たわるヤーフ、地面へと自由落下するフライデンを確認した。
「さて、こうなってはわしでも無事では済まないだろう。だが、ただではやられんよ」
フライデンは腰に携帯していた青竜刀を振るい、身体を無理矢理回転させて空気の圧を作った。これでコンマ三秒、地面への接触を遅らせる事を可能にさせた。
「さて、後は神の御心のままにか……」
「なんで馬がこんなに素早いんだよ!?」
鼻息を荒々しく出しながら、アスタに向かってジャレッドが何度も突進を繰り返す。そのスピードは、アスタがこれまでの人生で出会ったどの動物、魔獣よりも素早い。
「アスタくん!ジャレッドは混血種なんだ!純血の馬よりも数段素ばや────へぶっ!」
地面に横たわるヤーフがアスタに向かって、ジャレッドの足がこんなにも速い理由を大声で伝えようと口を開いた。どうやら、ビットが風属性の魔法を使い、落下の衝撃を緩和してくれたらしい。しかし、衝撃を緩和したのは良かったものの、ビット一つの力では完全に落下の衝撃を相殺出来る訳ではなかった。背中を強く打ち、ヤーフは身体を動かすのに苦労していた。おそらく、脊髄付近に強い衝撃を受けてしまった所為である。
そして、悪夢はまだ終わらない。動けなくなり、横たわるヤーフが大声を出すものだから、ドロシーがそれに苛ついたのか、再びヤーフの身体を上空まで突き上げた。
アスタは最早自分の事で精一杯でヤーフとフライデンに神経を割く余裕はなかった。
「こうなったら…、星級の魔法で庭ごと吹っ飛ばすしかないか」
アスタは覚悟を決め、威力の調整など考えずに無詠唱で最大威力の星級の魔法を放とうとした時だった。
「その必要はございません」
近くから中性的な声が聞こえ、真上を見上げると、空中で氷の道を高速で滑って、ヤーフとフライデンを両腕で旅行鞄のように抱えるアンジェの姿があった。
「──『アイシクルウォール』!!」
二人を地面に置くと、短い詠唱の後に一気に馬二匹を氷漬けにした。
「た、助かった…」
アスタは一息吐き、地面に座り込んだ。
「ここまで命の危機を感じたのは初めてですよ」
「そうですね。私がいなかったら貴方方は今頃、ジャレッドとドロシーに遊び殺されているところでしたよ」
アンジェはあの二匹はただ遊んでいただけだと言っている。彼女は亜人族ではあるが、そのベースは獣人に分類される猫の為、動物語が理解出来るのだ。
「あれで遊びですか?」
「遊びです」
──僕はこの時、初めて死の恐怖と言うのを感じた。昨晩、アンジェが僕にやったあの事も霞むかのような出来事だった。
萌葱色のビットがアスタの周りをウロウロしている。アスタを心配しているのだろうか。
「ウイ、もう戻っていいよ」
アスタはウイと名付けたビットを掌の中に収め、ギュッと力強く握った。すると、ビットは一瞬光り輝いた後、ゆっくりとアスタの掌の中で消えていってしまった。
「はぁ、もう馬は懲り懲りだ」
【豆知識】
今回、名前が判明した『ビット』と言う球体。これはアスタが九歳の頃に魔導書を読みながら偶然覚えた魔法?である。この球体は時折り、自我を持った動きをする事があり、アスタもビットとは何かをいつかは解き明かしたいと思っている。因みに、一度だけバイオロジックモードを五分以上使用して、精神が崩壊しかけた事があるので、アスタは普段オートマティックモードでビットを使っている。
【ビットの名前一覧】
サラ(火属性の魔法を使う。ビットの中で一番活発で、日常生活では風呂を沸かす際、火の魔石の代わりにお湯を沸騰させたりと痒い所に手が届くような性能をしている)
クア(水属性の魔法を使う。アスタ曰く、クアが出す水は普通の井戸水よりも美味しいらしい)
ウイ(風属性の魔法を使う。レイドとの試合で勝利の決め手となって以降、戦闘では一番使われるビットである)
グラ(土属性の魔法を使う。他のビットよりも動きが遅く、あまり使用頻度は高くないが、土の初級魔法を応用した目潰しや足元を泥濘ませて動きを封じる等、小技を得意とするビットである)
サダ(雷属性の魔法を使う。ビットの中で一番スピードが速く、敵の撹乱や先制攻撃として使われる)
フラ(光属性の魔法を使う。夜間に行動する際に開光石代わりとして用いられる事が多い)
シド(影属性の魔法を使う。尚、戦闘でアスタがシドを使った事は一度もない)
ポシ(治癒魔法を使う。主にアスタが治癒魔法を使う際に、アスタの補助役として隣にいる。因みに一番可愛がっている)
スン(毒属性の魔法を使う。スンもシドと同じように一度も使った事がない)
アイ(氷属性の魔法を使う。アスタ自身、氷属性の魔法が得意な為、使用頻度は少ないが、暑い日の夜に一緒に寝ると冷んやりとしていて気持ちいいらしい)
ラル(然魔法を使う。アイと同じように使用頻度は少ないが、いい香りがする為、洗濯物を干す時はよくアスタの近くを飛んでいる)
パフ(強化魔法を使う。アスタが強化魔法を使う際に補助に回り、身体への負担を軽減させてくれる)
リミ(アスタ自身にも何の属性の魔法を使うか分からない全てが謎に包まれたビット)
※今後も増えるかもしれません。
【豆知識②】
ジャレッドとドロシーは混血種という設定ですが、このニ匹は王族からの特別な許可を貰った上で馬と魔獣のハイブリッドとして産まれました。
魔獣と普通の動物のハイブリッドを人工的に作る事は、王国の法律で禁止されていますが、ジャレッドとドロシーは騎士の実験的な名目で作られました。