第1章 11『アークトゥルス山脈』
〜東暦八十三年〜
ボルスピを出発して約五時間。アスタ達はラワード草原を越え、アークトゥルス山脈の中間地点にある湧水が美味しくて有名な村『ナモナキ』で休憩を挟んでいた。
「お客さん、ここの湧水の効能と美味しさは他のどの山よりも優れていることで有名なんですよ。なんでも、肩凝りや腰痛に効くとか」
「おお!それは丁度、今のわしに都合がいい効能じゃないか。どれ、アスタも下りて湧水を飲まんか?」
「悪いけど、酔った……。爺ちゃんだけで飲んできて…」
下を向き、今にも吐きそうに顔色を悪くするアスタ。馬車酔いはよくある事だが、車輪に魔石を埋め込む技術が発展して以降は、そのような事は滅多に起きなくなっていた。
「全く、馬車酔い程度で動けなくなるとは。まだまだ軟弱じゃのう」
フライデンはそう言うと、湧水が出ている場所までゆっくりと歩いていった。
「お客さん大丈夫?」
「だ、大丈夫じゃないかも」
「吐くなら向こうの茂みで吐いてくださいね。馬車の中で吐かれたら困るのは此方なので」
そう女性の行商人に促され、茂みまで猫背になりながらナメクジよりかは早い速度で歩く。
「うっ、う……、おええええぇぇ……ぅっ」
地獄のような苦しみと倦怠感に我慢出来ずに吐いてしまった。それどころか、口から出てきた胃液で溶けかけている朝食の残骸を見て、更に吐き気が込み上げてくる。
「──おえええええぇぇぇぇ」
胃の内容物を全て出し切るまで全て吐いた。鳥肌が浮かび、身体の芯から震えが止まらない。
「──おぶあっ、うえ、かっ……はぁ、はぁ
…はぁ、はぁ…………気持ち悪い」
吐き気が収まるまで吐きまくった後、土属性の魔法と水属性の魔法を使い、吐瀉物の後処理をした。その時には身体の調子は百パーセントではないが、大方取り戻せてきた。なんなら、出発前より調子がいいくらいだ。
「口がイガイガする。湧き水…飲みに行くか」
こうやって自分の問題を一つずつクリアしていくのは大事な事だ。しかし、胃の中を洗い流すように嘔吐するこの不快感には、死んだ方がマシだと思える程の気持ち悪さがあった。
胃を痛みつけながら、湧き水をガブ飲みする。
「お、美味しい」
身体にのしかかっていたプレッシャーが全て消えるかのように、湧き水は身体の中に残っていた不調を全て取り払った。
乱暴に口元を濯ぎ、青白い顔で大きく深呼吸をし、肺の中に酸素を入れる。
実は今日、レイドと再会する以外にもう一つ、王都へ行く目的があった。
それは、二日後に練兵場の開放日があり、更にその日は月に一度、国民の前で王国中の騎士や衛兵が模擬戦をする日なのだ。そこには、一般市民参加枠もあり、そこで上手くアピールをして王国騎士に入れてもらい、レイドの旅の仲間になろうという魂胆があった。
「開放日まで後二日。それまでには万全の状態を維持しなくちゃ。そうしないと、きっと歴戦の王国騎士達とはまともに戦えない」
アスタは湧き水を啜った後、袖で口を拭い、馬車へ戻った。
「どうだ?うまかったじゃろ。ここの水」
「そりゃあ、美味しかったけど、こっちはそれどころじゃなかったんだよ」
座席に座り、フライデンと雑談を始める。前の座席の方を見ると、今回雇った御者二人も戻って来ているようだった。
「お客さん、少し早いですがそろそろ出発しますよ」
今回雇ったのは、若い男女の二人だ。彼らは兄妹で長年この仕事をやっているらしく、見た目の割にはベテランと名乗れる程の経歴を持っている。彼らは一度も事故を起こしたことはないらしく、山を登る際も安全な近道を使い、確実に客を目的地まで運んでくれる優良な運び屋だ。
兄の方が馬に鞭を打ち、馬車の車輪が回り始める。
それから数分後、車輪に埋め込まれた魔石の効果が発動し、馬車の揺れを最小限に抑える。
ナモナキを出発し、山を再び登り始め、四十分が経過した。アスタは一度吐いたおかげで、再出発した直後は馬車酔いでグロッキー状態になることを避けられた。
「お客さん、そろそろ山を下りますよ」
今度は兄を補助する妹がアスタ達に向けて声を掛ける。
「おお──!」
気付けば、いつの間にか山の頂上まで来ていた。そこから見下ろす景色は絶景と言う他ならない。
「山を下った後は『ルーフ』で一度休憩を入れて、『ゼーヒャ街道』を通って王都まで向かいます」
兄が馬の手綱を操りながら、アスタとフライデンの二人に今後の予定を話す。しかし、アスタ達は外の景色に夢中になってて他人の話を聞いている暇はなかった。
その様子に兄妹は嘆息を吐いてからクスッと笑い、馬に鞭を打った。
「──え?」
その瞬間、馬車がスピードを上げる。
「ちょっ!まっ、待って!死ぬ!これは死ねる!」
「ほっほっ、これも旅の一興かな」
更に、山を下り始めた急斜面という事もあって、更にスピードを上げる。何故かあの兄妹この揺れでもは平気そうだ。
「なんで魔石の効果切れてんの!?」
そんな大騒ぎの状態でもアスタは揺れを軽減させることが出来る魔石の存在を思い出す。元々、馬車の車輪に埋め込まれている魔石は、馬が暴走した時の抑止力とする為に付けられた物だった。
アスタは、足腰を踏ん張り、馬車に付いている命綱を握りながら車輪を見た。
「なっ!?魔石がない!!」
「おい御者!車輪に魔石がないぞ」
車輪に魔石が埋め込まれていないことを確認し、直ぐに御者台に座る二人に文句と苦情を言う。
「あ、すいませ〜ん。お客さんが人の話聞かないものでしたので、つい魔石を取っちゃいましたぁ〜」
笑みを浮かべながら土の魔石を掌から見せる妹に怒りを募らせる。
「ぐっ…、いつの間に」
出発する前は確かに車輪に魔石が埋め込まれていた。
(まさか、馬の手綱を引きながら、俺達に見つからないように魔石を取り除いたのか!?)
そんな常人の範疇を超えた有り得ない動きを出来る筈がないと思っても、実際にそのような事をやってみせた二人が目の前にいる。これは覆しようがない事実だ。
「ルーフまで最高速度を保ったまま下山します。振り落とされないようお気をつけてくださいね」
「や、やめろおおおおおおお」
助けを求める声は無残にも車輪が回転する音と風の音で掻き消されていった。
△▼△▼
「──ん?」
「もらったぁっ!!」
木剣と木剣がぶつかり合う。木特有の音をたてながら力で勝っているレイドが相手の木剣を払い、素早い突きを鳩尾に入れる。
「いってぇ…」
突きを入れられた、レイドと差程年齢が変わらない少年が腹を押さえながら地面に蹲る。それを気にする素振りを見せず、レイドは雲一つない青空の下、アークトゥルス山脈を眺めた。
「今、アスタの声がしたような…」