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いままでの人生が、初めて肯定された気がした。

 ★


 一方、その頃。


 飯塚香苗は、たったいまリビングを飛び出していった息子の言葉を、ずっと脳内で反芻していた。


 ――あ……ありがとう。俺を育ててくれて。辛くても、苦しくても、こんな俺を見てくれて――


 良也。

 いったいどうしたのだろう。

 いままでこんなこと言う子ではなかったのに。


 こちらがいかに手を尽くしても、「ああ」とか「うん」くらいしか返事がなかったのに。


 なのに。

 なのに……

 わからない。


 どうして――涙が、止まらないのだろう。

 どうして――涙を止められないのだろう。


 ソファにうつ伏せ、香苗はひたすらに感情を吐露する。


 旦那や息子の裏では何度も泣いてきた。


 だが、これは今までとはまるで異質。温かな涙が、頬をすっと撫でていく。


 この四十二年間、平凡なれど幸せな日々を過ごしてきた。


 高校卒業。

 就職。

 結婚。

 出産。


 良也が生まれたときはもちろん嬉しかった。


 親になったという不思議な感慨と、ひとつの命を託された責任感。旦那と協力して、この子を立派に育てあげると決めた。


 現実の厳しさを知ったのはその後だ。

 バブルが崩壊し、日本に不景気が訪れた。香苗が就職した当時は職がいっぱいあったし、働けば働くだけ収入をもらえた。


 時代は変わった。


 いままで夢見ていた裕福な生活が一転した。

 将来を考えないまま、ここまで歳を重ねてしまったことに後悔した。


 家計が逼迫ひっぱくし、生活が苦しくなった。旦那もいまは相当にストレスをため込んでいる。


 いまは大学に行くのが当たり前らしい。高卒と大卒では収入に違いがあるうえ、大卒でないと入れない会社もある。


 当然のごとく、良也も進学を希望しているようだ。


 だけど。

 うちにそんな経済的余裕はない。

 旦那もまた給料が下がってしまった。


 息子には立派になってほしい。

 だけど……無理なのだ。現実的に考えて。


 息子もそれを薄々感じ取っていたんだろう。

 香苗に対する態度がかなり激化した。


「貧乏!」

「こんな家に生まれなきゃ良かった」

「なんでもっと貯金しておかなかった」

 など、痛い言葉の数々を突きつけられた。


 そしてそれは正論でもあった。

 好景気に浮かれ、一時的な快楽を求めて散財したのは事実。


 だから息子の言葉になにも反論できなかった。


 もっと、働かねば。

 もっと、頑張らねば。


 立派な母親になるために。

 立派な息子に育てるために。


 仕事による疲労で、夕食をカップラーメンで済ませる日もあった。


 これにも文句を言われた。

 だって仕方ない。


 私はダメな母親。

 考えなしに結婚と出産をした女なのだから……


 そんなときに、言われたんだ。

 ――あ……ありがとう。俺を育ててくれて――


 その言葉を思い出して、初めていままでの人生が肯定された気がして、香苗はまた涙を流した。


 

 ★



 下の階から聞こえる香苗の嗚咽を、俺は意識半分で聞いていた。

 俺も……しばらく涙が止まらなかったから。

 

 自室。


 どれほど泣いただろう。

 俺はタオルで思いっきり顔を拭く。


 言いたくて、言えなくて、ずっと胸にわだかまっていたもの。


 親の有り難みを知ったときには、すでに俺の両親は修復不可能な関係になっていた。


 親の心子知らず――とはよく言ったものだ。


 でも、やっと言えたんだ。

 社会に出てようやくわかった。

 決して楽とはいえない仕事に従事し、上司に気を遣って残業して、帰宅しても休まることなく子どもの世話……


 そんな両親に、俺は怒鳴り散らしていた。

 理由はかくも単純だ。

 夕飯がカップラーメンだけ、冷たい弁当だけ、お小遣いが友達より少ないだけ……


 いま思えば馬鹿馬鹿しい。

 でも当時の俺には大問題だったんだよな。


 そんな俺も社会に出た。

 派遣社員になった。

 部品を取り付けるだけの簡単な作業を、淡々とこなすようになった。


 正直、仕事はそこまで難しくない。


 だが拘束時間が長いうえに、休憩時間がほとんどない。定時のうちにノルマを達成することはほぼないので、きまって数時間の残業があった。そして帰宅時には、死んだ顔のおっさんと一緒に送迎バスに揺すられる。


 帰ったら爆睡するか、だらだらスマホかゲームをするだけ。

 自炊なんてとんでもない。


 そんな毎日に嫌気が差したんだ。

 クソったれで、つまらない日々。

 何事にも無気力で、死なないために生きている自分。

 歓迎しない朝を迎え、おっさんと並んで車の部品を眺めるだけの毎日。


 社会の荒波に揉まれて、俺は完全に腐っちまったんだ。


 そこで気づいた。

 いままでコケにしていた、親の背中の大きさに。

 そんな親に暴言を吐き散らした、自分の愚かしさに。


 ――コンコンと。

 ふいに扉がノックされた。


「…………」


 俺はもう一度涙を拭う。

 ノックの相手は――考えるまでもない。


「……良也。あんたの気持ち、伝わったよ」

 気を遣っているのか、母が扉を開けることはなく、扉越しに言ってきた。

「お母さんも頑張ってお金をつくる。いっぱい仕事を増やすから。もっと頑張るから。いままで迷惑かけて、ごめん。ごめんね……!」


「…………っ!」


 そんな。


 違う。

 愚かだったのは俺だ。


 いまでも明確に覚えている。

 母親に対して、決して、決して言ってはならないはずの言葉を――


 なのに。

 どうして。

 どうして――!


 俺はもう、まともに言葉を発することができなかった。

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[良い点] 全て [一言] 全部読んでないけどもうダメです。泣きます。
[一言] 頭ひとつ抜けて面白いです。 ファンになりました。 続きが気になります。
[良い点] つかみおけ [気になる点] なし [一言] タイムスリップ大好き 泣ける話大好き 個人的最高
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