早くやる?
放課後。
「ていやぁ!」
急に背後から不穏な気配を察知した俺は、とりあえず全身を右方向にしならせる。
と。
「わわっ!」
間抜けな大声とともに、由美が後ろからずっこけてきた。
右の拳を突き出しているので、言わずもがな、俺に《鳳凰拳》でもやりにきたのだろう。
「……詰めが甘いな、由美」
「むー……」
由美が不満そうに頬を膨らませる。
まあ、昔の俺は社畜として働き続けてきたわけだからな。
危機察知能力には優れているわけだ。
知らんけど。
「……ふふ」
だが次の瞬間、なぜか由美が不敵な笑みを浮かべる。
「甘いのは良也のほうよ。私はまだ、あと二つの攻撃を残している。これの意味がわかるかな?」
「いや、わからん」
「ふふ、こういう意味よ!」
そして再び拳が突き出されるが、それもまた俺には当たらない。
「わわわっ!!」
今度は盛大にずっこけた由美が、前のめりになって転んでしまう。
しかも近くにあった椅子までをも巻き込んでしまったので、もはや大惨事の様相を呈していた。
「……うわぁ」
「元気だなぁあの二人は……」
「って、おい、あの姿勢見えてね?」
近くの生徒たちが遠巻きながら話し合っている。
しかも一部の男子生徒は、由美の際どい恰好に鼻息を荒くしているようだった。
「…………」
それがなんとなく面白くなかった俺は、さりげなく見えない位置にまわりこむ。そしてそのまま、彼女に右手を差し伸べた。
「ほれ、立て」
「う、うん……!」
やや頬を赤らめつつ、由美がその手を取る。
急に恥ずかしくなったのか、もう《鳳凰拳》は撃ってこない。
「……ありがとう。良也」
「これに懲りたらもう危ないことするなよ? 今回は怪我ないようだから良かったが……おまえが怪我したら……あ」
そこまで言って、俺は場の空気に気づいた。
ニヤニヤ笑いを浮かべている生徒。
ヒソヒソ話をしている生徒。
顔を赤くしている生徒。
それぞれの反応は様々だが、俺と由美は間違いなく生徒たちの注目を集めていた。
……やばい、やってしまった……!
「ははは、おまえたちは本当に仲良しだなぁ」
明るい笑顔でそう言うのは渡辺。
今さらながら、下の名前を輝というらしい。
レオの一件を経て、俺は渡辺ともかなり親しくなっていた。
「やっぱりあれだろ? 付き合ってるんだよな?」
肩をまわしながら小声で呟く渡辺に、俺は肩を竦める。
「……さあ、なんのことか」
「隠すなよ。もうみんなわかってるんだぞ?」
げげっ。
マジかよ。
バレないように立ち回ってきたつもりだが、しょせんは非モテの浅知恵。バレバレだったわけか。
「さあ飯塚、用意はできてるか? 俺が最近振られたばかりなの知ってるよな?」
「…………」
「ラーメン一杯。どうだ」
「わかったわかった。後でな」
「言ったな。忘れるなよ」
そう言いながらニヤリと笑い、渡辺が俺から離れていく。
ああ、懐かしいな。
昔の俺は、授業中にやかましいこいつを心底軽蔑していたんだが……
実際に話してみると、なかなかに親しみやすい奴だった。
考えてみれば、当時の俺は人の一面的なところしか見ていなかったのかもしれないな。
「良也……なに話してたの?」
きょとんとした表情で訊ねる由美に、俺は肩を竦めた。
「なに。男と男の話だ」
「むー。なんかやらしい……」
「やらしくはない。青春の話だ」
「ますますやらしい……」
そのままじろじろと見つめてくる由美。
「……ま、なんでもいいだろ。それよりとっとと帰るぞ、由美」
なにはともあれ、俺はこの恥ずかしい状況から一刻も早く抜け出したかった。
「おーおー。今日もラブラブですなぁー」
駐輪場への道すがら、背後から声をかけられた。
振り返るまでもない。
声の主はわかっている。
「珍しいな。今日はもう帰るのか」
「うん。ちょっとねー」
須賀真紀は俺と由美の隣に並ぶと、「ふむふむ!」と芝居がかった仕草で頷いた。
「やっぱり二人はお似合いのカップルですなぁ! 昔は由美の気持ちが全然飯塚くんに伝わってなくて、すっごく心配したけど……!」
「うぐ……」
あったな、そんなことも。
いまにして思えばすごく鈍感だったというか……
まあ、いまでも治ってるかわからんが。
「由美は言わずもがな、飯塚くんも女子の間でモテモテだそうですぞ? 羨ましいなぁこのこのぉ」
「ん……? そうなのか?」
「そうだよ! ひとりの女の子のためにあんなに頑張るなんて……女子の間で評判うなぎ上りだって!」
あんなに頑張る?
なんのことだろうか。
俺が黙りこくっていると、由美がやれやれといった様子でため息をつく。
「須賀っち、良也はやっぱり気づいてないよ」
「はぁー。そういうとこは相変わらずなのねぇ」
須賀はやはり芝居がかった仕草で額に手を当てると、ささっと由美に耳打ちした。
(だから由美も気をつけないと駄目よ? 放っておいたら他の女に取られちゃうから)
(う……うん。わかってる)
(今日び高校生も大人の階段を昇るのは当たり前なんだから。もうやった?)
(ふえっ? や、やったって……)
(はぁ……まだなのね。とにかく早いほうがいいよ)
(須賀っち、なに言ってるの!)
(うふふ。これ以上の話は女子会でね)
以上で密談は終わったのだろう。
須賀は由美から離れると、「じゃーねー」と言って走り去っていた。
「あ、あいつも相変わらずだな……」
由美とは別の意味で天真爛漫。
それが須賀真紀という女だった。
……でも、おかしい。
須賀といえば、漫画研究会――通称まんけん――に所属しているので、夜遅くまで漫画を描いているはずなのだが。
最近、妙に帰りが早いような……
「由美。最近、須賀の様子おかしくな……いか?」
「早くやる……早くやる……」
しかしながら由美は真っ赤な声でブツブツ呟いているのみで、俺の呼びかけはまったく聞こえていなかった。




