過去の自分
朝になった。
ゆっくり上半身を起こすが、隣に由美はいなかった。
ガラケーを開き、時間を確認する。
午前7時。
登校までにはまだ時間があるな。
学生生活を送ってきて、生活も規則正しくなってきたように思う。腐ってた頃は夕方頃に起床するのもザラにあったからな。
「ん……」
耳を澄ませば、一階からなにか聞こえてくる。
これは――調理の音か。
火が食材を炒めていく独特の音と、そして鼻をつく香り。気のせいか、「るんるんるん♪」という歌声までが聞こえてくる。
あいつ、まさか。
慌ててリビングに向かうと、予想通り、キッチンに立つ由美の姿が。エプロンなんかをつけていて、悔しいがなかなかに様になっている。
「ゆ、由美」
「あ、良也。おはよ!」
俺を見つけた途端、由美の瞳がキラキラ輝き始める。
「おはよう……って。そうじゃなくて。わざわざ作ってくれてるのか」
「うん。これでも料理は得意なんだ」
マジか。
失礼を承知で、脇に置かれた皿を見る。
俺は衝撃を受けた。
「こ……これは。全部おまえが作ったのか!?」
「う、うん。変かな」
「いやいや、変じゃない。むしろすげえよ」
綺麗に形作られた卵焼きに、ふっくらと炒められた鮭、きんぴらごぼう。
さらに味噌汁も作ってくれているようで、ぐつぐつ煮えられた葉野菜と豆腐、油揚げに思わず腹が鳴ってしまう。
――なんというか、うん。
俺とは天と地の差だな。
「悪いな。俺も手伝えたらよかったんだが……」
「ううん。いいんだよ。良也はいつも私のために動いてくれてるじゃん。申し訳ないのは私のほうだよ」
「由美……」
その健気な姿に、俺は彼女の美しさにもう一度見取れてしまう。
「だから気にしないで座ってて。ね?」
俺に軽く抱きつきながら呟く。
そこまで言われては強く出られないな。
俺の腕前では、手伝いどころか足手まといにしかなりえない可能性がある。
「わかった。じゃあ頼む」
「うん!」
甘えた声で返事をすると、由美は料理を再開する。
「あと、いつかお願いしたいことがあるんだが」
「え?」
「卵焼きの作り方を教えてくれ。いつか」
「う、うん。いいけど……」
よし。
これで俺も脱スクランブルエッグである。
ひとり満足した俺は、リビングのソファに戻ろうとした――その瞬間。
ぐにゃり、と。
突如として、視界が暗転した。
★
俺は真っ暗闇のなかにいた。
周囲にはなにもない。
ただただ、地平線の彼方まで暁闇の世界にいた。
「また、ここか……」
この感覚は通算で三度目だ。
一度目はタイムリープしたとき。
二度目は由美の半生を垣間見たとき。
今回はいったいなんなんだ……?
「それで……飯塚くんの進路はどうお考えでしょうか?」
ふいに聞き覚えのある声が聞こえ、俺は肩を竦める。
振り返ると――突如として、まわりの風景が変異した。
大宮西高等学校。3年7組。
その教室に俺はいた。
部屋の中央部には机と椅子が寄せてある。三者面談用の配置だ。
そこに俺と香苗、そして今井先生が座っている。
例によって三名とも透明がかっており、話すことも触ることもできない。みな俺の存在など最初から見えていないかのように、会話を続けていく。
「すみません。進学させてあげたいのは山々なんですが……」
「……そうですか」
香苗と今井先生が暗い表情で会話を交わす。
その二人を、半透明の俺は不機嫌そうに眺めていた。
――ああ、これは。
12年前の秋頃にあった三者面談だ。
俺の進路について先生が訊ねたところ、香苗が涙ぐむ一幕があった。
俺が大学への進学を希望していることは、香苗も先生もわかっているはず。
それでもなお「進学させられない」という現実を突きつけることは、香苗にとってさぞ苦しかったことだろう。
「俺は就職なんて考えてないです」
そんな二人に向けて、半透明の俺はきっぱりと言い放った。
このシーンにも心当たりがあった。
俺は自分の人生を生きている。
親に人生を左右されたくはない。
なにがなんでも、大学に進学して、叶うことなら安定した職に就きたい。
そう思っていたものだ。
「ごめんね良也。私も大学に行かせてあげたいんだけど」
「…………」
謝る香苗だが、半透明の俺は無視に徹する。
信じたくなかったんだ。
みんなは大学に行ってるのに。
憧れのキャンパスライフに向けて前に進んでいるのに。
俺だけ、それが許されないってのか……?
「飯塚くん。先生もいい勤務先探すから。いいところ見つけよう? ね?」
今井先生もフォローしてくれるが、当時の俺は納得できなかった。
就職? 勤務先?
ふざけんな。
なんで俺まで、親の人生のレールに従わなくちゃならない。
人生を俺に強要するな。
――こう思っていたはずだ。
もちろん、いまの俺なら香苗の苦しみもよく理解できる。けど、当時の俺にはわからなかったんだよな。金のない親を、ただただ憎むことしかできなかった。
「ごめんね。良也……!」
いつまでも謝り続ける香苗。
無視する俺。
そのやり取りを見たとき、俺の視界は再び暗転した。




