母
南銀通り。
大宮駅東口にほど近い繁華街。
遊興施設や飲食店が至るところに立ち並び、夜になればキャッチがしつこく通行人に声をかけまくる。俺も成人した後はかなり付きまとわれたもんである。
つまりは夜の商売が盛んな場所でもあり――桜庭詩織がそこにいるのも、なんら不思議ではない。
のだが。
ちょっとだけ、違和感があるんだよな。
いまは正午近く。
いつもの彼女であれば、この時間には帰宅していたはず。
なぜ今日に限ってまだ大宮にいるのか……。まあ、仕事が遅れたか、同僚と食事でもしていただけかもしれないが。
と。
「…………」
一方の詩織も、俺の視線に気づいたようだ。
慌てたように目を逸らし、人混みのなかに消えていく。
――子どもは、いつまでも光褪せない宝物よ――
香苗から聞いたその言葉を、俺はふいに思い出していた。
さて。
今日も昨日と同じく、勉強とチラシ配りを交互に行った。
夕方のチラシ配りには、浩二や須賀、あとは渡辺たちも合流してくれた。そのおかげで相当数のチラシを出すことができた。
そして。
「お待たせー」
香苗――俺の母も助けにきてくれた。仕事を切り上げたあと、すぐに来てくれたようだ。
「良也。この人は……」
怪訝そうに耳打ちしてくる由美に、俺は真顔で答えた。
「母親」
「えっ!? 良也の!?」
「ああ」
「ちょちょちょ!」
突然パニックになる由美。
動転のあまり、さらっととんでもない発言をしてしまう。
「お、おおおお世話になってますお母さん」
「あら……」
苦笑を浮かべる香苗。
俺は他人のフリを決め込みたかったが、さすがにそうはできず。
ため息をつきながら、ぼそっと言う。
「……ま、こういう奴なんだ。温かく見守ってくれ」
「うー、子ども扱い……」
唇を尖らせる由美に、香苗がまたも苦笑いを浮かべる。
「そっか。あなたがね……」
そう呟く香苗は、優しげに由美を見つめていて。
きっと、すべて感づいているんだろうな。詩織のことや、レオのこと。それらがすべて、由美の事情を指すものであると。
「初めまして。飯塚香苗。良也の母です」
ぺこりと頭を下げる香苗に、由美もやっと正気を取り戻したか、同じく頭を下げる。
「は、初めまして。桜庭由美です。え、えっと……」
「ふふ、大丈夫よ。あなたが良也の大切な人ね」
「た、大切な人……!」
これでもかと頬を赤くする由美。
俺はといえば、早くこの場から逃げたかった。
「あなたのおかげで、良也は明るくなった気がします。ありがとうね」
「そ、そんなそんな。逆に私が元気もらってるくらいですからはい!」
「ふふ、そうですか」
微笑ましげに頷く母。
まあ、さすがに経験を重ねているだけあるな。この状況においても、母はいつも通り平常心を保っている。
香苗はその後、浩二たちにも改めて挨拶をしたあと、宣言通りチラシ配りを手伝ってくれた。
さすがに初めてみたいで、最初は覚束なかったけどな。それでも少しずつスムーズな配り方になっていた。
俺と由美、須賀、浩二、渡辺とその友達、そして香苗。
これだけの大人数が揃えば、チラシ配りも捗るというものである。
途中からチラシの増刷をしにいったほどだ。さすがに昨日の今日で香苗が参戦してくれるとは思っていなかったからな。
おかげで、また結果に近づいたと思う。里親になってくれそうな通行人も何人か見つかった。
「やるじゃん。良也」
途中、香苗が俺にこう耳打ちしてくる一幕があった。
由美を指してのことだろう。
……まあ、容姿の良さは言うまでもないし、いまも小さい身体を一生懸命に動かしてチラシを配ってるからな。頑張り屋であることは初対面の香苗にも伝わっているだろう。
「嬉しいわね。友達にも恵まれてるみたいだし」
「ああ。そうだな……」
「うんうん。お母さんももうちょっと頑張るよ!」
自分だって仕事帰りで疲れているだろうに、たいしたもんだ。
これも――親心のなせる技なのだろうか。
そんなことを考えているときだった。
「お……お母さん!」
俺は思わず肩を竦めた。
いまのは由美の声。
――まさか。
慌てて振り向くと、思った通り――数メートル先には桜庭詩織の姿。
いまから出勤ということか。
南銀通りに行くにはここ東口を通らねばならないから、なんら不思議ではないが……
「ゆ……」
「――待って」
駆けつけようとした俺の肩を、香苗が優しく掴んだ。
振り向くと、小さく首を横に振る母親。
行くな、ということか。
「……あんた、またチラシ配ってるの?」
数メートル先では、詩織が威圧的な視線を由美に送っている。
「う、うん……」
「勉強は? してるの?」
「し、してるよ! ちゃんと合間縫って、やることはやってるから……!」
「…………そう」
詩織はそう言ってバッグからりんごジュースを取り出すと、なんと由美に差し出すではないか。
「……これ。飲みな」
「え……」
大きく目を見開く由美。
「いい? ちゃんと学校にも行きなさいよ」
「う、うん。わかってる……」
「……じゃ、行ってくるから」
そう言って、詩織は南銀通りに消えていく。大人たちの欲望が渦巻く、夜の街へ。
その後ろ姿を、由美がぽかんと見つめていた。
「…………」
親子の様子を眺めていた香苗が、俺に耳打ちする。
「あの方が、例の……?」
例の、というのは、俺が先日相談した母親のことを指すのだろう。
親が子への愛情をなくすことがあるのか。
それを、由美や詩織の名を伏せて相談したことがあるからな。
「……ああ。そうだ」
小さく頷く俺に、香苗も首肯する。
「そっか。あの方がね……」
切なそうに目を閉じる香苗。
「懐かしいわね。良也が授業参観のとき……一度だけ見たことあるわ」
「え……」
そうか。
俺の記憶にはなかったけれど、一度だけ、小学校に来たことがあったのか。
「よく覚えてるな……そんなの」
「うん……こう言っちゃ悪いけど、ちょっと浮いてたから」
「…………」
「他のお母さんより断然若くて、浮いた格好で。……それでも、由美ちゃんをすごく愛してるのは伝わってきたわ」
「そっか……」
いまも正直、意外だったもんな。
あの鬼のような詩織が――由美を気遣ってジュースを渡すなんて。
昼間からチラシを配っていることに心配していたんだろうか。
そしてろくに休む暇も時間もないまま、すぐに夜の街へと消えていった……
「良也。あのお母さんもきっと、辛い状況だと思う。……あんまり、責めないでね」
「ああ……わかってるよ」
母の提言に、俺はしっかりと頷くのだった。




