昔の俺
「はいはーい」
明るい声とともに、内側から扉が開けられた。いまどき珍しい、スライド式の扉である。
姿を現したのは、60代と思わしき女性。
大きく腰を曲げてはいるものの、明るい声で話すさまはまだまだ活力の高い様子を窺わせる。
「えっと、飯塚さんに桜庭さん、でいいのかしらね?」
「はい。里親の件でお邪魔させていただきました」
俺が答えると、女性は感心したようににっこり笑う。
「あらあら、若いのにしっかりしてるわね。私の若い頃にそっくり」
「はは、そうですか」
「うんうん。じゃ、立ち話もなんですから、どうぞお上がり」
「はい。失礼します」
頭を下げ、俺は飯島宅に足を踏み入れる。由美もその後に続いた。
その際――なんというべきか、独特の香りが鼻孔をくすぐった。幼い頃になんとなく感じた、『お婆ちゃん家』の匂いってやつだ。
実際、下駄箱の上にはやや古びた写真が置かれていて、なかなかの年季を感じさせた。あとは、子ども――といってもとうに成人しているだろうが――が少年時代に描いたような絵が飾られている。
「それな、琢磨の絵なんよ」
「琢磨……息子さんですか?」
「うんうん。昔は良い子だったんだけど……仕事でストレスを溜めちゃったみたいでね。なんでこうなっちゃったのかしら……」
「そうですか……」
呟く女性は物憂げで、寂しそうで。
その様子から、俺はこの家の状況をなんとなく把握してしまった。
「ささ、案内しますよ。どうぞ」
俺たちは居間に通された。
畳の敷き詰められた部屋に、背の低い丸テーブル、それを囲む色とりどりの座布団……
俺たちに気を遣ってくれているんだろうか。筑前煮の入った小皿が二つ、用意されていた。
「ささ、遠慮なく座って座って。いま琢磨を呼んでくるからね」
「はい……」
ガチガチに緊張した由美が頷く。
そう。
この『琢磨』がちょっと厄介なのだ……と女性が事前に電話で教えてくれた。
ちなみに女性の名を千代子と言うらしい。その息子が琢磨だそうだ。
千代子としては是非とも犬を飼いたいところだが、琢磨がそれを認めたがらないのだとか。
だから飼えるかどうかわからないが、とりあえず話だけでも聞かせてほしい――というのが今回の趣旨。
正直、微妙なところではあった。
千代子によれば、琢磨は偏屈的な性格らしい。だから俺たちに迷惑をかける可能性があるという。それでもよければ……ということだった。
俺と由美は悩んだが、結局お邪魔することにした。
残り時間が少ない現状においては、できることはやっておきたいからな。
ややあって、千代子が息子を伴って居間に姿を現した。
「どうも、この度はお邪魔しています」
俺は立ち上がって一礼するが、琢磨は「ふん」と鼻を鳴らすだけ。そのまま横柄な態度で俺の向かい側に座ると、どかんと頬杖をついた。
ひっ、と由美が小声で悲鳴をあげる。
そんな彼女に対し、千代子が「ごめんなさいね」と言ってテーブルにつく。
「こら琢磨。怖がらすんじゃないよ」
「…………」
千代子の叱責に対し、琢磨はぴくりとも動かない。ただひたすら、だるそうに頬杖をつくのみ。
その風貌。
その雰囲気。
俺はある種の同族感を抱いてしまった。
ボサボサの頭に無精ひげ。
白いシャツがかなりよれている。
誠に失礼ながら、たぶん何日も同じものを着ているのだと思われた。
年齢は推定で30代前半。
つまり――昔の俺だ。
「で? なんの用?」
琢磨がだるそうに千代子に問いかける。
「さっきから言ってるでしょ? ワンちゃんを飼いたいって。だけど私じゃ散歩できないから、琢磨にやってほしいって……」
「はぁ? 馬鹿かよ。なんで俺が」
「琢磨……」
「それに飼うんならペットショップで買うべき。しつけとか大変らしいぞ?」
――厳しいな。
親子のやり取りを聞いて、俺は本能的にそう思った。
俺も過去そうだったからわかる。
インターネットの情報に塗り固められて、世の中の全方位を敵視して。なにもわかっていないのに、すべてわかったような気になっていて。
いまの琢磨を納得させるのは――非常に難しいと言わざるをえない。
よしんば里親になってもらったとしても、これではレオが心配だ。
飼い主募集中とはいえ、さすがに誰でもいいわけではない。
琢磨はぎろりと、今度は俺たちに視線を向けた。
「なんだよDQN。おまえたちなんか呼んでない。帰れ」
「ちょっと琢――」
さすがに怒りが頂点に達したのか、千代子が立ち上がりかける。
「いえ、大丈夫です」
そんな彼女を片手で制し、俺は琢磨をしっかりと見据えた。
「ご迷惑おかけしました。これでお暇させていただこうかと思います」
「良也……」
由美が驚いたように見上げてくるが、彼女も俺と同意見だったようだ。特に反論する素振りも見せず、立ち上がろうとする。
「琢磨さん……でしたか」
俺は胡座を掻いたままの琢磨を見下ろす。
「さぞ大変だったと思います。毎日のように続く残業、理不尽に怒鳴ってくる上司、かといって給料が高いわけじゃない。だから――私はあなたを責めません」
「は……?」
琢磨が驚いたように目を丸くする。
「でも――いつかわかってほしい。苦しみながらも自分を支えてくれた、大切な人の存在を。それでは……失礼します」
「あっ……飯塚さん!」
ひたすらに頭を下げてくる千代子を宥めつつ、俺と由美は飯島家を後にするのだった。




