偉大な母
「ただいまー……」
挨拶とともに、俺は家の扉を開ける。
例によって父は不在のようだった。昨日は帰宅してたみたいなんだが、間が悪いというか。
俺の記憶によれば、父が荒れ始めるのはもっと経ってからのはず。早めに手を打つべきではあるが、必要以上に焦ることもなかろう。
「お、良也。おかえり」
母は居間でクリームパンを食べていた。5個入りの小さなクリームパン。母の好きなやつだな。
「良也、ご飯食べてきた?」
「いや……食ってない」
実は昼以来、なにも食べてない。
だからわりかし腹が減っていた。
「チヂミ残してあるよ。食べな」
「お……ありがたい」
台所に向かうと、たしかにチヂミがラップがけされていた。しかも唐揚げまでついている。
家に帰って、なにもしなくても飯がある。この有り難みを、今更ながら痛感したのだった。
「すまん……。助かるよ」
皿をリビングに持っていき、俺は改めて礼を述べる。
「ふふ、いいのいいの。一人分も二人分も手間は一緒だしね」
昔の俺なら、おかずが冷えていることに関して文句を言っていたかもしれないな。
けど――母は決して手を抜いているわけじゃない。
きつい介護職を終えて、すぐにでもベッドに逃げ込みたいところを、わざわざ俺のぶんまで作ってくれたんだ。
母は『手間がかからない』と言ってくれているが、これもきっと母なりの気遣いだろう。
であれば――詩織はどうなんだろうか。
子どもは、いつまでも光褪せない宝物。
以前に香苗がそう教えてくれたが、詩織も果たしてそうなのだろうか……
「良也。いま彼女のこと考えてたわね」
「…………」
見抜かれた。
「ふふ。そういうとこ、お父さんにそっくりね。私と良也を守るために、一心不乱に走りまわって……」
「父さんと……?」
じゃあ、いまも。
父は社会で戦っているんだろうか。家族を守るために。俺と香苗のために。
「だから良也も、彼女さんを助けるために頑張ってるんでしょう? 昨日も今日も……」
すげぇな。
そこまで気づくもんかね。
やはり母は偉大――ということか。
驚きっぱなしの俺に、母は苦笑いを浮かべる。
「ふふ、さすがにびっくりしてるわね。実はね、昨日の夜、あんたの高校に行ってきたのよ」
「高校に……?」
「うん。もう良也が帰った後だったけど」
「じゃあ、『ちょうどよかったわね』っていうメールは……」
「そ。学校に行ってたのよ」
昨晩、急遽お泊まりが決定したとき、俺は香苗に帰れない旨をメールしておいた。
それに対する返信が『ちょうどよかったわね』だった。
なるほど――母もあのとき外出していたのか。
「でも、なんで学校なんかに……」
「担任の先生に会いにいったのよ。良也が、たったひとりで大きなものを抱えてる気がしたから」
思わず息を呑む。
そうか。
先日、詩織のことを相談したから。
母として、なにかしら感じ入るものがあったのだろうか。
「今井先生……だっけ? その先生がね、良也のことすごく褒めてたのよ。いま……これを頑張ってるんだって?」
そう言って一枚のチラシを差し出してくる。
見間違えるはずもない。
里親募集のチラシだ。
「たったひとりの子のために、遅くまでチラシをつくって、配って……その傍らで勉強もして。今井先生、すごく偉いって言ってたよ」
そして香苗はチラシを折り畳むや、大事そうにテーブルに置く。
その瞳が――ちょっとだけ潤んでいた。
「お母さんはね……すごく嬉しかった。良也が、ここまで良い子に育ってくれて……いままでの疲れが全部吹き飛んだ気がして」
……だとしたら。
それは母や父のおかげだ。
12年前は気づけなかったけれど、二人は深い愛情を俺に注ぎ込んでくれたから。
決して、俺が優れているわけじゃない。
「だからね、良也」
香苗は俺の瞳を見つめると、思いもよらぬ発言をした。
「お母さんも手伝うよ。里親募集」
「なっ……!」
マジかよ。
さすがに予想外だったぞ。
「だって、仕事は」
「大丈夫。さすがに毎日は無理だけど、週に何回かは手伝えるから。――あ、職場の人にも声かけようかしら」
俺の言うことなど聞く耳持たず、すでに協力するのが決定しているような口ぶりだ。
けど。
お願いできるのなら、なりふり構っていられないのが現実だ。
由美が引っ越すまであと一ヶ月を切っている。
だったら――甘えてみるのも手か。
俺がその旨を伝えると、
「任せといて!」
と頼もしく言うのだった。




