他人に笑われても、自分の人生を生きる。
俺と由美の記念すべきお弁当タイムは終了した。
なんというか……うん。
苦節三十年、女の子と食事をともにしたのは初めてかもしれないな。職場にはおっさんしかいなかったし。
しかも、目の前には。
「ほわぁぁぁぁあ……」
昼飯の余韻に浸っているのか、昇天しきった顔で変な声を出す由美。かなりのド変人だが、その美貌は言うまでもない。
「ほぁぁああああ……」
「う、うるせえな……」
余計に目立つからやめてほしいんだが、たぶん、言ったところで直らない。
まさに台風のごとき女。
それはこの数分間でもよくわかった。
「ありがとな……」
ぼそりと呟く俺。
彼女はたしかに台風そのものだが、俺にとっては太陽。暗い陰に閉ざされた俺の人生を、明るく照らし出してくれた女性だ。
昔はそうと気づいていなかっただけで、俺はかなり彼女の好意に救われていた。クラスでもどこでも、俺はひたすらにひとりぼっちだったから。
「ん……? なにか言った?」
「いや。なんでも」
俺はかぶりを振ると、弁当箱をしまい始める。
あと二十分ほどで授業開始。
学生時代の勉強なんぞほとんど頭に残ってないから、すこしくらい復習しておきたい。
……こんなの、俺の柄じゃないんだけどな。
長時間ずっと机に拘束されるのは嫌だが、それでもクソ寒ィ職場で働くよか数倍マシだ。
大人になって初めてわかる、学生のありがたみってやつだ。
「そういえば……えっと。桜庭は進路どうするんだ?」
「ん? 進学するよ。目指すは早稲田!!」
「げっ……」
マジかよ。
早稲田って、あの早稲田?
俺がどう背伸びしようが届かない大学じゃないか。
そういえば由美、こんな言動してる割には学力めっちゃ高かった気がする。
しかもいま思い起こせば、たしかに合格してたもんな。口だけの女ではない。
ん? 待てよ。
正確な時期は不明だが、由美はおそらく高校卒業後に事故に遭う。すくなくとも在学時に事故は起こしていなかったはずだ。
であれば……大学への進学以降に事故に巻き込まれる可能性があるのだ。
もし彼女を守り、人生をやり直すのであれば、俺も必然的に勉強せねばならない……
「マジかよ……」
いまの俺なんて、学力のがの字も知らないのに。しかも家の問題も抱えているのに。
……いや。
だからといって諦めていては、十二年前と一緒だ。
かつての俺は、あまりに高すぎる壁に絶望し、みずから腐る道を選んだ。
今度は、どうすべきなのだろうか。
また、最初からできるわけがないと諦めるのだろうか。
「由美。その……俺も早稲田を目指そうと思う」
「え? よ、良也も?」
嬉しそうに目をパチパチする由美。
「ああ。無理かもしれないが――」
「無理じゃないよっ!!」
ガタン! と由美が椅子から立ち上がる。
「私もできる限り協力するから、一緒に頑張ろうよ! そんで、ずっと一緒……に……」
そこまで言いかけて、セリフの後半が完全に余計だったことに気づいたのだろう。彼女はまた「わああああああ!」と叫びだした。
まさに台風。
だけど、俺にとっては、間違いようもなく太陽のような存在で。
そんな彼女が、どうしようもなくありがたくて。
「ありがとう。由美」
もう一度、俺はぼそりと呟くのだった。
親父とお袋に――改めて話をしないとな。
大学に進学するには、どうしても親の助けがいる。俺ひとりの力ではさすがにどうしようもない。
あとはもちろん学力の向上だな。これが大前提となる。
いままで自分の人生をどこか傍観者のように眺めていたけれど。
ここが踏ん張りどころだな。
そうと決まれば話は早い。
昔は退屈に感じていた午後の授業を、俺は人生で初めて真面目に取り組んだ。
ただ板書を写すのではなく、教師の言葉ひとつひとつをしっかり頭に刻み込んで、大事なところはメモを取る。後でノートを読み返せるよう、雑に書くのではなく、丁寧に残していく。
ふと過去のノートを見返したとき、あまりのやる気のなさに失笑しそうになった。殴り書きすぎて読みとれない。これでは勉強した気になっているだけで、なんの意味もなしていない。
このとき初めて、俺は自分が底辺にいる理由を悟った。
「……ん? おまえ、飯塚、か?」
授業の合間、教師にそう尋ねられる一幕があった。
真面目に勉強している俺が不思議だったらしい。
「早稲田に行きたいから」
と告げると、生徒たちに笑われた。
それでも教師はどこか微笑ましいものを見る目で、
「そうか。わかったよ」
と、俺をより気にかけてくれるようになった。
昔は泥臭い努力なんてかっこ悪いと思っていた。
だから適当に手を抜いて、要領よく切り抜けるのがかっこいいのだと思っていた。
けれど――これでも三十年生きてきた身。
他人に笑われるのはもう慣れたから。
他人に馬鹿にされようと、俺は。
自分の信じた道を突き進みたい。
「なんか、飯塚くん、雰囲気変わったよね……?」
「うん。よくわかんないけど……」
放課後。
ヒソヒソ話をする生徒たちを尻目に、俺は学校を後にした。