三上楓
どれほど熱中していただろう。
気づけば俺は、相当数のチラシを渡すことができていた。
だいたい80枚ほどか。
以前は25枚だったから、もはや歴然たる違いである。
なんと言っても詩織に啖呵を切ってしまったからな。言った以上はやり遂げる必要がある。
季節は春。
過ごしやすい時期ではあるものの、休みなく動き続けたことで体温がかなり上がっていた。流れる汗が止まらない。念のためタオルを持ってきて本当に良かったと思う。
「お願いします! 里親になってくださる方、お待ちしてます!」
由美のチラシ配布もだいぶ形になってきているな。
前回は10枚しか配れなくて、かなり悔しそうにしていたのを覚えている。それから勉強の合間を縫って、俺が配布のコツを教えたからな。
かつて上司から教わったテクニックは、たしかに実践向きではあった。
まさかこういう形で返ってくるとは想像もしなかったけどな。当時の経験が活きたと思う。
まあ、「棚からぼたもち」だと言われればそれまでだけれど。
それでも、自分なりに生きてきてよかったと思う瞬間でもあった。
そうして、配り続けること数十分。
「お? 飯塚くんか?」
ふいに背後から声をかけられた。
見知らぬ女の声。だけど俺の名前を知っている。
誰だ……?
そんな疑問とともに振り返るも、そこにいたのはやはり見知らぬ女性だった。
黒髪ショートヘア、吊り目。
なんだか勝ち気っぽい人だ。
相当の美人ではあるが、こんな人と知り合いだった覚えはない。
年齢もかなり若そう……と言っても、いまの俺と同い年くらいか。おそらく高校生だろう。
「すまん。……誰?」
俺のすっとぼけた質問に、女の子は「なに……」と額に片手をあてがう。
「くっ、なんてことだ……。会ったことはあるはずなんだが……」
「すまんすまん。記憶力がないもんでな」
「いやいやいや。謝ることではないよ」
女の子は気を取り直したように表情を整える。
そして腰部分に片手をあてがい、改めて俺を見据えた。
なんだろう。
威風堂々――という言葉がそのまま当てはまりそうな女性だな。
「三上楓。生徒会で副会長を務めている」
「三上、楓……」
思い出した。
――ま、とにもかくにも、俺はその三上にまったく相手にされてないんだ。だから羨ましいんだよ、飯塚――
上尾道路の土手で、浩二が好きと言っていた女子生徒だ。
そうか。
この人がそうなのか。
「悪い悪い。やっと思い出したよ」
「そ、そうか……」
正確には浩二の話を思い出しただけだが、それはこの際言わないでおこう。
三上は
「ちょっといいか?」
と言って俺のチラシを指差した。
「ああ……はいよ」
俺の差し出したチラシを、三上は眉根を寄せて読み込む。目が悪いのかもしれないな。
「里親募集……。そうか、これを学校で配ったのは君たちか」
「ああ。あそこの……桜庭の犬なんだが」
そう言って、俺は遠くでチラシを配っている由美に目配せする。
「お願いしますっ! お願いしますっ!」
当の由美は一生懸命チラシを配っている真っ最中だ。
「どうだ。老犬だが、なかなかに可愛い奴だぞ。里親にならないか?」
「いやいや。うちはアパートだ。すまないが難しい」
「そうか。そりゃ残念だ」
まあわかってたけどな。
そう簡単に解決すれば苦労しない。
「それにしても感心だ。なにしているかと思えば、桜庭のために里親募集を手伝ってるのか」
「ま、そういうことだ。あんまり時間がないんでね、三上も飼ってくれそうな人がいたら紹介してほしい」
「ああ、それはもちろんだが……ふむ」
ひとり思案げに腕を組む三上。
「なんだよ。どうした」
「いやいや、なんでもない。この様子だと、ひそかに好意を寄せていた女子どもが発狂するかもな」
「は? なんの話だ」
「ふふ、こっちの話だ」
よくわからない笑みを浮かべる三上。
「なんにせよ、私のほうでもできる限りツテを探ってみるよ。これから塾ゆえ、配るのを手伝えないのが心残りだが……」
「いやいや。とんでもないさ。俺のほうこそ、協力感謝するよ」
「ああ……。申し訳ない」
三上はそう言って小さく頭を下げると、そのまま立ち去っていった。




