前を向いて。
「良也……」
詩織が去ったあと、由美が気遣わしげな顔で見上げてきた。
目を綺麗に潤ませている様は、いつも鳳凰拳を見舞ってきた女と同一人物はまるで思えなくて。
この短い間で、由美の色んな一面を見ている気がするのだった。
「はは……そんな顔するなよ」
彼女の頭を、俺は優しく撫でてみせる。
「言ったことは本音さ。後悔はしてない」
「でも……」
「気にするなよ。俺は大丈夫だから」
いままで――俺は逃げてきた。
自分の家庭問題から逃げて。
受験勉強から逃げて。
恋愛からも逃げて。
そのままずるずると、パッとしない人生を引きずってしまった。
だからこそ、真っ向からぶつかっていきたいんだ。
たとえ俺ひとりでは解決しえない問題であっても、最初から諦めたくはないから。できる限りの行動を起こしたいから。
生きるために生きる。
そんな人生は終わりだ。
俺は――自分の道を歩む。
そうすればきっと、かつての俺――桜庭詩織にも届くと信じている。
「…………」
またしても、由美が俺を見上げてきていた。ぽかんと立ち尽くしている。
「ん? どうした、由美」
「う、ううん」
由美は小さく首を横に振ると、辿々しくも俺の腕に抱きついてきた。
「ありがと。出会ってくれて」
――それこそは。
俺が心のなかで、最も渇望していた言葉かもしれなかった。
いままで、自分の存在意義を見いだせたことはまるでなかったから。
「……ああ。俺のほうこそ、ありがとう」
そうと決まれば――善は急げだ。
あまりにも強大な壁に向かって、できる限り抗ってみせる。
★
チラシ配布の時間だが、こちらは二回に分けることにした。
一回目は正午から二時間。
二回目は夕方から二時間。
普通はターゲット層を定めてから、その層が最も通りやすい時間を選ぶのが定石だ。
しかしながら里親はターゲットが絞りにくい――ある意味ではすべての層がターゲットと言える――ことから、特にはこだわらないことにした。
正午と夕方に設定したのは、その時間に最も人通りが増えるため(可能なら正午ではなく早朝が好ましい)。
空いた時間には受験勉強を割り当て、己の修練も欠かさない。
昔の俺からは到底考えられない、相当にハードなスケジュールだ。正直、学校に行ってたほうが楽なのではという感さえある。
それでも――俺の胸には、不思議とモチベーションが燃えたぎっていた。
そしてそれは、新たに俺の恋人となった由美も同様らしかった。
「お願いしますっ! お願いしますっ!」
大宮駅。東口。
不器用なりにも懸命にチラシを配る彼女を見ていたら、面倒な気持ちなんて一切沸いてこない。
胸中に燃えさかるモチベーションに突き動かされ、俺もチラシ配りを開始する。
「お願いします! 里親募集してます!」
それは、かつて惰性で続けていた派遣の仕事とはまるで違う。
レオのため。
由美のため。
俺は五感を駆使して、ひたすら配布に徹する。
「なんだぁおい、邪魔だよ」
「す、すみませんっ!」
途中、由美が通行人に怒られてしまう一幕があった。
距離感を掴み損ねてしまい、通行人の歩行を妨げてしまったためだ。
「すみません。私慣れてなくて、その……」
「けっ、気ィつけろ!」
唾を飛ばし、中年の男性が通り過ぎていく。
通行人の言動はともかくとして――怒られるのは仕方ない。
やらかしたのは由美だ。
相手にとって、俺たちの都合なんて知ったことではないからな。親や先生たちに保護されている学校とは違い、ここは見知らぬ人の行き交う社会だ。
「…………」
それでも由美は諦めなかった。
数秒だけしゅんとしてしまうものの、すぐに切り替えていく。
このへんのメンタルの強さはさすがである。太陽の太陽たる所以だな。
と――
「あらあら。お嬢ちゃん。それ見せて?」
懸命にチラシを配る由美に、老年の女性が話しかけた。
曲がった腰を杖で支えており、傍目でも高齢だとわかる。多くの者が無言で過ぎ去っていくなかで、その女性は穏和そうな雰囲気を醸し出していた。
「あ、はいっ」
健気な返事とともに、由美は女性にチラシを差し出す。
「あらま。このワンちゃん可愛いわねぇ。ポメラニアンっていうの?」
「は、はい! とても毛がふさふさで、可愛いですよ!」
「そうねぇそうねぇ。とっても可愛いわねぇ。ほら私、もう老い先短いじゃない? あっはっはっは」
「い、いえいえ、そんなことは……」
「もう外にも出られないし、ワンちゃん飼おうか悩んでたのよぉ。私ってばミーハーだからねぇ。あっはっはっは」
「ほ! ほんとですか!」
「うんうん。ちょっと旦那と話してくるねぇ。この番号に電話すればいいの?」
「はい! お願いします!」
深々と頭を下げる由美。
女性はそんな由美に手を振ると、「またねー」と言って過ぎ去っていく。そんな態度がまた、優しさを醸し出していた。
「由美。やったな」
「うん。うん……! やった……!」
彼女は泣いていた。
両の瞳から、ほんのすこしだけ滴が垂れている。
俺は涙を優しく拭い、できる限りの笑顔をつくってみせた。
「さ、まだまだ頑張ろう。できることはやっていくぞ」
「うん……!」
満面の笑顔を浮かべ、由美もチラシ配りに戻っていくのだった。




