三度の飯よりタックル
由美の家に到着したのはそれから数分後だった。
時間にして21時ほどか。
周辺には民家が所狭しと並んでいるが、ほとんどの家庭が明かりを消している。夜の内野本郷は静かなものだった。
そのなかにあって、由美の家はちょっと異質だった。壁と地面の隙間に生えている雑草や、そこらに散らばっているゴミ。手入れされていないのが一目でわかる。
機会があったら、いつか掃除も手伝わないとな。レオの件が落ち着いたらになるが。
――と。
「ワワワワン! ワンワン!」
家にそこそこ近寄ったところで、聞き覚えのある鳴き声が響いてきた。
俺は後頭部を掻きながら苦笑する。
「……はは。気づかれちまったようだな」
「うん。レオはすごい敏感だから」
――レオ。
会うのは三回目になるな。
柄にもなく、犬との再会を楽しみにしている自分がいる。
「それじゃ……ちょっと鍵開けてくるね」
そう言いつつ、繋いでいた手を離す由美。バッグをまさぐり、キーケースから家の鍵を取り出した。
「…………」
由美の温かな手の感触が、いまだに右手に残っていた。いま俺は――名残惜しさを感じているのだろうか。またしても柄じゃないな。
「よいしょ、っと」
由美がドアを開ける。
レオのいるリビングを除き、室内はほぼ真っ暗だった。詩織がいる様子もない。
……というより、そうだな。
詩織はたぶん夜の仕事をしてるんだ。
いつも朝方に帰っているのはそのため。いまの時間は業界的には稼ぎ時だし、家にいることはまずもってないだろう。
「ヘッヘッヘッヘ」
下を見ると、当然のようにレオが駆け寄ってきていた。いつものように、純粋に輝いた瞳を向けてくる。ただただ俺の登場を嬉しがっているような――そんな気さえした。
「そうだ。良也、レオにご飯あげてみる?」
「お……そうだな」
悪くない提案だった。
たぶん腹を空かしているだろうし、きっと喜んでくれるだろう。
俺は由美に案内されるがまま、リビングに入っていく。そしてバッグを降ろしたあと、彼女からドッグフード入りの皿を渡された。
「はい、ビーフ&バターミルク味。レオの大好物だよ」
「バ、バターミルク味……」
ドッグフードにも色んな味があるんだな。全部同じようなもんだと思ってたわ。
「ちゃんと三秒くらい《待て》をやってからあげてね。すぐ飛びついちゃうから」
「お、おう」
しつけってやつですか。
人生30年、初めてのことだ。
「ヘッヘッヘ」
俺の眼下では、レオがひたすら口呼吸を繰り返している。
俺が飯を持っているのは既に察しているようだな。
さっきから動きが忙しない。
老犬とはいえ、飯は嬉しいものらしい。
俺は由美と一瞬だけ目を合わせると、片手を突き出し、
「待て」
と言ってみる。
すると――すんなり言うことを聞くではないか。
尻を落とし、下半身部分をぴたり地面につけている。
「おおお……!」
ちょっと感動した。
きっちり躾られてるな。
俺はきっちり三秒後、皿を地面に置き、オーケーサインを出す。果たしてレオは動きだし、そのまま食事タイムに突入するかと思いきや……
「どわっ!!」
なんと俺の懐に飛び込んできた。
「おいおい、こうくるかよ!」
「ヘッヘッヘ」
そのまま俺の頬を優しく舐めてくるレオ。
「あ、あはは……本当に懐かれてるね、良也」
俺の隣では、由美が微笑ましそうに俺たちを見つめていた。
★
レオの食事姿を見守りながら、俺たちは勉強に徹することにした。
色々と課題はあるけど、いまの俺たちは受験生。
本業を忘れちゃ仕方ない。
そうして勉強を行いつつ、俺は由美に訊ねる。
「そういえば……里親のメールは来てるか?」
「ううん。来てない」
「そうか……」
もしかしたら、今日中にもチラシを受け取った誰かから連絡があるかも――という期待があった。
だが、反応はゼロ。
さすがにそこまで甘くないか。
「まあ、気にすることはないさ。時間はまだまだある」
なににおいても焦りは禁物。
いまできることを確実にやっていくしかない。
この30年において、それくらいの心構えは承知している。
実際にも、チラシ配りは申請すれば一ヶ月間できるらしい。本来は最大15日までだが、ちゃんと手続きを踏めば延長可能だとか。
――一ヶ月。
桜庭家が引っ越すまでの期間に、絶対にやり遂げないとな……
「よいしょーっと」
しばらく勉強に熱中していると、由美が上半身をゆっくり伸ばす。
「さ、さすがに疲れたかもー。お風呂入ってきてもいい?」
「は……? べ、別にいいが……」
なんかめっちゃ棒読みだったな。
なにを考えてるんだか。
今日は警察署に行って、チラシ配って、さらには原っぱで話し込んだもんな。
たしかに汗流しとかないと気持ち悪いだろう。
「なあ、終わったら俺も風呂借りていいか?」
「う、うん。いいよー」
またしてもぎこちない返事をする由美だった。




