本音
――埼玉県さいたま市。
政令指定都市というだけあって、大宮駅周辺は東京と比べても遜色ないほど栄えている。
が、それは駅まわりだけの話。
上尾市に近寄っていくにつれ、どんどん緑の比率が高まっていく。
特に由美の家は《内野本郷》という地名にあたるらしく、ここが結構自然豊かなんだよな。
施設らしい施設はなにもない。
ちょっと自転車を漕げば薬局があるが、大宮駅と比べればかなりのギャップがある。
だから俺と由美が歩いているこの場所も、緑が多めで。都会の喧噪なんてものは一切なくて。ときおり通り過ぎる車の走行音が聞こえるだけ。あとは静かなものだった。
「…………」
なんだろう、この静謐な時間は。
客観的に見れば、ただの時間の無駄でしかない。
いま俺たちは、なぜか自転車を漕がず、取っ手を持って歩いている。
かといってなにか重要な会話をしているわけでもない。
ただただ奇妙な沈黙が、俺と由美の間を通り過ぎていく。
にも関わらず、俺はこの瞬間が嫌いじゃなかった。
勉強もしていないし、レオのチラシを配っているわけでもない。論理的に考えればもったいない時間の使い方だが――なぜだろう。
永遠にこの時が続けばいいような――そんな気がしていた。
チロリン、と。
俺の携帯がデフォルトのメール着信音を鳴らす。
飯塚香苗……母からだった。
今日は帰れないことを、さっき伝えたばかりである。
『了解! ちょうどよかったわね』
メールの返事はこうだった。
ちょうどよかった……ってどういうことだ?
香苗も今日は残業が長引くのだろうか。それともなにかしら予定があるのか。
母のメールはいつも一言足りないので、よくわからない部分がある。
ま、いっか。
俺が携帯をポケットにしまうと、由美がじーっと見上げてきていた。
「な、なんだよ」
「誰から?」
「は?」
「メール」
「ああ、母さんからだよ。帰れないことを伝えないとまずいだろ?」
「そ、そっか……」
その答えに満足したか、引き続き自転車を漕ぐ由美。
なんか様子が変だな。
さっきも俺を見て顔を真っ赤にして。なにを言うかと思えば、家に泊まってほしいなんて……
まあ、原因はだいたい察しがついてるけどな。
おおかた、須賀の差し金だろう。由美の気持ちに気づいているから、大胆にアタックしろとかなんとか吹き込んだんだろうな。
普段の由美なら、ストレートに泊まってほしいとは言わないし。
そして田端……浩二も一役買っていたわけだ。いつまでもくっつかない俺たちに一石を投じるため、あえて恋愛話をしてきたんだろう。
ったく、これだから学生ってのは……
はっ。いかんいかん。ダークモードに入るところだった。
「……ねぇ」
ふいに由美が話しかけてくる。
「嫌じゃなかった? 急に家に泊まれって言われて……」
「……ずいぶん変なこと聞くな。嫌なわけないだろ」
「ほ、ほんと!?」
「ああ。当たり前だろ」
もし嫌だったらさすがに断ってるって。
しかし……由美のこの喜びよう。
目をキラキラさせて笑ってやがる。
本当に不思議だよな。
こんな俺の、どこがいいんだか……
「でも、由美のほうこそ大丈夫なのか?」
「へ? なにが?」
「母親は《泊まってもいい》って言ってたが……父親はわからんだろ」
由美の父親にはまだ会ったことないしな。
どんな人かもわからないし、いきなり遭遇してなんて言われるか不安なところである。
「あ……そっか。ごめん。言ってなかったね」
由美はそこで一呼吸置くと、こともなげに衝撃の発言をする。
「私んち……お父さんいないんだ」
「な、なに……!?」
思わず立ち止まってしまう。
父親がいない……!?
「まだ私が産まれてない頃……すぐに逃げちゃったみたいで……連絡も取れないみたいで……」
「…………」
そんな馬鹿な。
道理で会わないと思ったら……そんなことってあるのかよ……!
ふと、俺は桜庭詩織との会話を思い出した。
――大丈夫です。娘さんには一切手を出してませんから――
――はっ……本当かしらねぇ――
あのとき、詩織は諦観の表情を浮かべていた。疲れ切っていて、もうこの世の誰をも信用していないような……
「だから、お母さんには迷惑ばっかりかけてるんだ。悪い娘だよね……。もう、ろくに話したこともないよ……」
そう言ってうつむく由美。
そんな彼女の手を、俺は無意識のうちに握りしめていた。
「あ……」
「おまえは、辛くないのか」
「…………」
「毎日のように元気に笑って、愉快そうにしてて……本当はいつも泣いてるんじゃないのかよ……!」
「…………」
そして由美はぎこちない笑みを浮かべる。
「……うん。ちょっとだけ、辛いかも」
太陽が初めて、俺に本音を言った瞬間だった。
家に到着するまでの間、俺はこの小さな手をずっと握りしめていた。
前々話、前話でブックマーク・評価・感想をくださった方ありがとうございました!
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