あの笑顔の裏側で
その日の学校はちょっと憂鬱だった。
俺のつくったチラシなんぞ、誰も意に介していない。
みんな紙面をすこしだけ確認するや、バッグにしまうか、ゴミ箱に捨てている。それで終わりだ。
そのあとは、里親のことなど綺麗さっぱり忘れてしまっているかのよう。
誰もがいつも通りの日常を送っている。レオのことなど話題にも上らない。
何度も言うが、これは学校の民度が低いわけじゃないと思う。
さすがに紙飛行機に使われていたのはイラッとしたが、あれは一部の不良生徒だけ。みんながみんなそうではない。
(ちなみにその不良生徒には今井先生がこっぴどく怒っていた)
これが――他人に動いてもらう難しさなんだ。こちらの想いはどうしたって届かない。
俺も人のことは言えないよな。
かつての俺なら間違いなくゴミ箱に捨てていた。冷笑を浮かべながらな。
余談だが、チラシの下部には由美のメールアドレスが記載してある。もちろんサブのアドレスだし、由美の名前も伏せてある。
すこしでも気になる人へ向けて、連絡を促すわけだ。
休み時間に由美に確認を取ったが、現状では一通もメールがないという。
まあこれは仕方ない。
犬を飼うなんて一大事だし、子どもが独断で決められることじゃないしな。
……それにしても、ひとりくらいは気になる人がいてもいいもんだが。やはり現実は厳しいってやつか。
なんにせよ、俺は改めて思い知った。
現実の厳しさを。
自分ではどうにもならない、冷酷なまでの問題を。
――そのときだったんだ。
いつも通り平穏に授業を受けていると、突如として、視界が暗転したんだ。
★
俺は暗闇に立っていた。
周囲にはなにもない。
地平線の彼方まで――ただ、真っ暗闇な空間が続いているだけ。
誰もいない。
なにも聞こえない。
俺以外のすべてが死んでしまったかのような――そんな気がした。
ほどなくして。
半透明に透き通った幼馴染みが、そこに現れた。彼女だけじゃない。桜庭詩織――由美の母親も近くにいる。
「由美!!」
俺は大声で彼女の名を叫んだ。
だが反応はない。
俺の存在など最初から気づいていないかのようだ。
俺が彼女に近づいても、彼女は一切の反応を見せない。
「…………」
これはなんだ?
いまは授業中じゃないのか?
俺はいったい……なにを見ているんだ?
「……引っ越し先、決まったから」
ややあって、詩織がぶっきらぼうに言う。いつも通りというべきか、男の目を惹く服装で着飾っていた。
由美は小さく頷くと、やや怯えた様子で返す。
「レオは? どうするの?」
「保健所に送ってきたわよ」
「…………っ!!!」
由美の表情がぐにゃりと歪む。
「そんな! 保健所じゃ……殺さ――」
「殺されないわよ。飼い主が現れるまで、一週間は待ってくれるはず」
違うと俺は思った。
たしかに保健所に引き取られた犬や猫は、最長で一週間ほど保護される。だが飼い主が持ち込んだ場合はその限りではない。ほとんどが即日に処分される。
詩織はそれを知っているのか。
もしくは――知っていてあえて嘘をついているのか。
由美は母へ詰め寄り、大声で叫んだ。
「嫌だ! 嫌だぁぁぁぁぁあ!!!」
「嫌だってあんた、どうするのよ。新しい家、ペットは無理よ。きっと誰かが引き取ってくれるってば」
「言ったじゃん。ペットも飼える家にしてって!」
「それも無理。ペットを飼うだけで家賃すごい上がるのよ? あんたに払えるの?」
「…………」
「私はね、あんたに――」
「うるさい! 母さんなんてもう知らないっ!!!」
「ちょっと! 由美っ!」
母の制止も空しく、由美はそのまま飛び出してしまった。
場面が変わった。
詩織の姿は消えて、風景は大宮西高校へ。
由美が浮かない表情で自転車を停め、校舎に向かっていた。
だが――その暗い顔もほんの数秒だけで。
「やっほー、由美」
「あ、おはよーっ!」
同級生たちの前では、由美はいつもの元気さを演じていた。陰気な空気などどこにもない。
そして。
「あ、由美。あそこ……」
「え……?」
由美が目を見開いた先には、飯塚良也――俺がいた。
スクールバッグを片手に、我ながらだるそうな顔をしている。うつらうつらとしており、そのまま寝てしまいそうなくらいだ。
気のせいだろうか。
俺を見た瞬間、由美の表情がすこしだけ柔らかくなった気がした。
「桜庭流……鳳凰拳!」
「どわっ!」
突然キックを見舞われ、俺が仰天する。
「いてぇな。なにすんだよ」
「ふっふっふ。見たか、これが東斗流の鳳凰拳さ」
「さっきは桜庭流って言ってなかったか……」
俺はため息まじりに由美を睨むと、やれやれといった感じで教室に向かう。
「いいよなおまえは。いつでも気楽で――悩み事なんてないんだろうな」
「ふっふっふ。もちろんさ!」
由美はそう言って胸を張ると――ほんの刹那だけ、切なげに眉を落とす。
だが、コミュ障の俺が、彼女の微細な変化など気づくはずもなく。こともなげに机に座り、ダラダラとガラケーをいじっている。
「……あ、あのさ」
由美が顔を赤らめ、勇気を振り絞ったように呟く。
「今日、良ければ付き合ってよ。なんか……家に帰る気分じゃなくてさ……」
「はぁ?」
面倒くさそうに返事する俺。
「なんで俺なんだよ。須賀とかと遊べばいいだろが」
「…………」
由美はまたも切なげに下唇を噛むと、数秒後には
「うん! そっか!」
といつも通りの笑顔を見せた。
「はぁ、まったく意味のわからん奴め……」
その傍らでは、俺がいつものようにブツブツ文句を言っていて。
由美は悲しそうな表情を浮かべるも、それ以上はなにも言わなくて。
ただただ虚しそうな表情で身を引くだけだった。
――なんだよ、これ……!――
俺はこの光景に、言葉を発することができなかった。
この日のことは克明に覚えている。
なにしろ学年トップクラスの美少女からデートのお誘いを受けた日だ。結果的には断ってしまったものの、このイベント自体はよく頭に残っている。
――では、これは過去なのか。
俺は過去の映像を見ているのか。
なんで。
どうして――
と思う間もなく、俺の視界は再び暗転した。




