まだ、できること。
翌朝。
ガラケーの目覚まし機能で起床した俺は、寝ぼけ眼をこすりながらリビングに向かった。
「んお……?」
思わず目を見開く。
トーストと目玉焼きが、テーブル上に用意されていたからだ。
「……いただきます」
俺は合掌すると、無心で朝食を口に放り込む。
そうしながら、昨晩の会話を思い出していた。
――子どもは、いつまでも光褪せない宝物よ――
ほんと、俺みたいな親不孝者ですら宝物なんてな。どんだけ偉大なんだか。
由美の母親も、心の片隅では同様のことを考えているのだろうか――
「……ふう」
ため息をつきながら、ソファの背もたれに身を預ける。
今日は里親募集のチラシが全校に配られる日だ。
今井先生の計らいで、すべての生徒にチラシが行き渡るはず。
これでもし里親を名乗り出る声があったら、問題は解決だ。由美もきっと喜んでくれるだろう。
俺は皿洗いを済ませ、荷物を確認したあと、清々しい気分で家を出る。
「……よし、行くか!!」
暖かな陽光を身に受けながら、俺は学校に自転車を走らせた。
今日は天候が不安定らしい。
大宮西高校に着いたときには、すでに曇り空になりつつあった。
たぶん雨は降らないはずだが(天気予報で言っていた)、念のため傘を自転車の後輪部分に差し込む。このあたりも自転車通学あるあるだよな。
俺は駐輪場に自転車を停めると、校舎へ向けて歩き出す。
そうしながら、背後から忍び寄る気配を如実に感じ取っていた。
「桜庭流、暗殺術――」
後ろから聞こえる声に、さしもの俺も呆れてしまう。
暗殺術って。
攻撃前にターゲットに気づかれてますがそれは。
「鳳凰拳!!」
結局その技名かよ。
という突っ込みを入れる間もなく、俺は横方向に避ける。
「わ、わああああああっ!」
勢いよくスライディングしてきた由美が、行く宛もなく過ぎ去っていく。
やばいな。丸見えだったぞ。なにがとは言わないが。
――ガッシャン!!
けたたましい破砕音が響きわたり、俺は思わず肩を竦める。由美は見事、学校の塀に鳳凰拳(という名のキック)を見舞ったようだ。
俺は由美のもとへ歩み寄ると、由美――ではなく壁をさすってみせた。
「おー。すごいすごい。壁ちゃん大丈夫かー」
「……って、どっちの心配してんだよっ!!」
「おーよちよち。朝から暗殺されかけるなんて可愛そうに」
「よ! し! やぁぁぁぁぁあ!」
耳元で叫ばれた。
うるせぇ。
今日も今日とて、この女は太陽そのものである。
「……はぁ」
俺はため息をつくと、改めて由美の膝に視線を落とす。
あーあ。擦り傷できてんじゃんか。
「ったく、しょうがねえな……」
俺はバッグからポケットティッシュを取り出し、足にこびりついた砂やら何やらを取り除く。
「いいよっ。それくらい自分でできるからっ」
「駄目だ。女の子なんだから大人しくしてろ」
「い、いいんだってば!」
その瞬間。
ティッシュを奪おうとした由美の手と、俺の手とが勢いよく触れあった。
「「……あ」」
お互いに掠れ声を発してしまう。
精神年齢三十とはいえ、交際経験なしの俺にとって、こういうシチュエーションはダメージが半端なかった。
そのまま二人してイソイソ距離を取ると、俺は小さく呟いた。
「……レオは元気か」
「う、うん……」
そう返答する由美の顔は真っ赤だった。
そしてたぶん、俺の顔も茹でダコみたいになっているだろう。
――なんだこれは。
青春の一幕ってやつかよ。
まあいい。
こんなことに時間を費やすより、教室に入って一秒でも勉強していたほうがよほど有益だ。
俺は頬を掻きながら呟いた。
「……行こうぜ。レオのチラシが配られてるはずだろ」
「うん。そうだね」
レオの話題になったことで、由美の表情に真剣さが宿った。膝についた砂を振り落としながら、俺たちは二人で校舎に入っていった。
――校舎内で思いも寄らぬ光景が広がっているとも知らずに。
「な……!」
その光景を見たとき、俺は立ち尽くして動けなかった。
足が震える。
よくわからない感情が胸中に去来し、なにもわからなくなる。
「…………」
それは由美も同様だったらしい。
真っ白な表情のまま、俺の隣で突っ立っている。
「いくぞー。そーれ!」
「おいおい! おまえ下手すぎー」
廊下内ではしゃぎ回っている生徒がいた。
朝のホームルーム前、集まった友人同士で遊んでいるようだ。
それ自体はよく見る光景だった。
――のだが。
その遊び内容に問題があった。
俺が作成した里親募集のチラシが――紙飛行機に使われていたんだ。
それだけじゃない。
あちこちのゴミ箱に無造作に捨てられていたり、心ない落書きがあったり……それはもう、ひどい有様だった。
「……おいおい、ゴミ箱入ったぞ。その犬死んだな」
「ははははは! マジウケる」
「くっ……!」
両の拳を握りしめる俺。
……考えてみりゃ、当然の話だったんだよな。
新聞部が発行する新聞ですら、同様の扱いを受けている。だから俺のつくったチラシも、それと同じ運命を辿るのは道理だったんだ。
「……くそ」
胸のうちを、やはり正体不明の感情が蠢く。
これは悲しさか。
それとも悔しさか。
両方か。
……わかるんだ。
俺もパッとしねえ学生時代を送ってきた。
だから、このチラシがどこか気に食わない気持ちもわかる。
なにか偽善的に感じられて、馬鹿馬鹿しく思えるんだよな。俺だって新聞部の記事を容赦なく捨ててたし。
これは学校の民度が低いとか、そういう問題じゃない。だけど。だけど……
なんだ。
なんだこの気持ちは。
なんだってんだよ……!!
「それ、もう一回飛ばすぞー!」
「おい、おまえ下手なんだからやめろって」
元気よくはしゃぎ回る生徒たちとは裏腹に、由美の表情は暗かった。顔を落とし、肩を小刻みに震わせている。
「由美……」
ぼそりと呟く俺。
「すまなかった。よくよく考えれば、こうなる可能性はあったのに……」
「ううん。いいんだよ。良也は……なにも悪くない……」
そう言って笑う太陽は、やっぱり身体を震わせていて。
顔が若干引きつっていて。
コミュ障の俺でも、無理して笑っているのがありありとわかった。
「でも……ごめん。トイレに行ってきてもいい……?」
「あ、ああ……」
俺が頷くなり、由美はさっと洗面所に向けて駆けだしていく。その後ろ姿が、いままで見たことないくらい痛々しくて、後を追うこともできなかった。
「くそ…………!」
わかっていたことだ。
世の中そんなに甘くない。
こちらの必死の訴えなんか、まったく届かない連中だっているんだ。
……では、また諦めるのか。
また腐るのか。
自分には手に負えないと、問題から逃げるのか。
違う。
まだ――できることはあるはずだ。




