お世話になっていた人が、たしかにここにも。
決心した後は早かった。
街頭でのチラシ配りは警察の許可を要する。
だが――校内であればその限りではない。
そう。
教師から認めてもらえれば、学校内でチラシを配れるはずなのだ。敷地の所有者は学校だしな。
だから俺はまず、担任の今井先生に直談判することにした。たぶん最終的には校長の許可が必要なんだろうけど、いきなり校長室には行けないからな。
――放課後。
「すみません、先生」
ホームルームを終えて職員室に向かう今井先生の背中に、俺は声をかけた。
「…………?」
振り返る先生の背中に、俺はなんとか追いつく。廊下は走るの禁止なので、早歩きがせいぜいなんだよな。
「どうしたの、飯塚くん」
「あの……これを」
呟きながら一枚のチラシを差し出す。言うまでもなく、里親募集のチラシだ。
「これを校内で配りたいんです。とにかく時間がなくて……もたもたしていたら犬が殺処分されるかもしれなくて……」
「…………」
今井先生は無言でそれを受け取ると、目尻に皺を寄せ、険しい表情でチラシを眺める。
老年の女教師として、威厳が半端ない。
余談だが、今井先生は新聞部の顧問でもある。割と活動的な部活で、毎週のように《電光石火》という記事を発行しているのだ。先生のチェックはかなり厳しく、部員がヒーヒー騒いでいるのを見たことがあった。
そんな先生に記事を見られていると考えると――思いがけず緊張してしまう。
果たして数秒後、今井先生はゆっくりと顔をあげた。
「……これ、飯塚くんが作ったの?」
「は、はい。そうですけど」
「へぇ! よくできてるじゃない!」
「えっ」
さすがに想像もしない反応だった。
「うんうん、レイアウトといい簡潔な文章といい、よくできてるわ。飯塚くん、新聞部に入らない?」
「いやいや。それはちょっと」
受験生になに言ってんだか。
ちょっとだけ、この先生の怖さを垣間見た気がした。
先生は「そう……」と本気で残念がる様子を見せたあと、やっと本題に戻ってくれた。
「この犬は……飯塚くんの?」
「いえ。クラスメイトのです」
「誰の?」
「…………」
すこしばかり迷ったが、先生が相手なら問題なかろう。ギャーギャー騒がしい高校生と違って、秘密は守ってくれそうだ。
「……桜庭です。あいつ、家が――」
「そっか。桜庭さんね」
納得したように頷く今井先生。
なるほど。
担任の教師だし、生徒の事情にはある程度通じているんだな。
「桜庭さんのために、あなたが作ったのね?」
「はい。どうにかしてあげたくて。あいつの暗い表情を……もう見たくなくて」
「……うん。そっか」
今井先生はゆっくり頷いたあと、優しげな瞳で俺を見つめる。
「飯塚くん……あなた変わったわね。顔が明るくなって……それでいて大人っぽくなって……。こんなこと、前までやらなかったでしょ?」
「は、はい。まあ……」
「うん。素敵だと思うわ。これからも……頑張ってね」
「…………」
「配るって言ってたけど、その必要はないわ。今日、全クラスに新聞を配るから……それと一緒にチラシもコピーして置いとくわよ」
「え……」
マジか。
たしかに新聞記事は週1で配られていた。しかも掲示板に掲載されるだけじゃなく、ひとりひとりの生徒に配られるんだ。
「ど、どうして。そこまでやってもらわなくても……」
「決まってるじゃない。頑張ってる生徒のためよ」
「あ……」
そうだ。
俺が世話になっていたのは、家族や友達だけじゃない。
お世話になっていた人が、たしかにここにも。
昔はそうと気づいていなかったんだ。
ただうるさくて――お節介で。
邪魔者だとしか思ってなかったのにな。
社会に出てからわかるんだ。
自分のために世話を焼いてくれる人間が、どれほどありがたいかを……
「先生。本当に……助かります。ありがとうございます」
「ううん。いいのいいの」
先生はまたしても優しげに微笑むと、そっと俺の肩に手を置いた。
「早稲田に行くんだって? 先生も応援してるから。頑張ってね」
そう言って立ち去る先生の後ろ姿は、昔よりはるかに偉大に見えた。




