不思議な気持ち
「で、できること……?」
戸惑いの声をあげる由美に、俺はしっかりと頷いた。
「ああ。諦めるのはまだ早いさ」
俺の大学受験だって、きちんと早めに問題に向き合ってさえいれば、うまく回避できた可能性が高い。
その現実から逃げて逃げて――そのままずるずる引きずってしまったのが現在の俺。
彼女には、俺と同じ徹を踏んでほしくないんだ。
「ワン!」
なぜかレオが鳴きだし、俺のもとへ飛び込んでくる。素晴らしきもふもふ感を堪能しながら、俺は続けて言った。
「由美。家にパソコンはあるか?」
「え? うん、あるけど……。私、使い方わからないよ」
「いや。あるんなら問題ない」
パソコンの使い方なら慣れてるからな。さしたる問題ではない。
ちなみにパソコンは家族共用で使っているようで、俺が使うのも大丈夫らしい。たしかに視線をずらせば、机上に乗ったデスクトップ型のパソコンが見える。
「で、でも。パソコンを使ってどうするの……?」
由美はまだわからない様子。
「チラシを作るんだ。で、里親を募集する」
これが十二年後であれば、スマホが普及し、ネット環境も大きく変わっている。だからネット上での里親募集が効果的ではあるが、現代ではそうはいかず。
届けたい相手に、こちら側の発信が届かない可能性がある。
もちろん里親募集のサイトもあるにはあるので、念のために書き込んではみるが……効果は望み薄だな。募集の書き込みに対して、返信があまりにも少ない。加えてこちらの犬が老犬ともなれば、難度はさらに上がるだろう。
だからサイトへの書き込みと平行して、チラシを配る必要がある。
ま、もちろん無断でのチラシ配りは違法行為だ。警察に許可を取る必要があるな。
「由美。引っ越しまで……あとどれくらいだ」
「一ヶ月、かな……。五月に引っ越すから……」
「了解」
となると、あまり時間はないな。
それでも――できることはある。
チラシの配布許可も、長くて一週間で降りるみたいだからな。期間は短いが、それでも諦めきれるほどじゃない。
そうとわかれば早速行動だ。
手をこまねいている時間はない。
俺は立ち上がり、桜庭家のパソコンを拝借する。電源を入れたあとは、イラストレーターを起動して記事を作成する。
そんな俺の様子を、由美が不思議そうに見つめていた。
「…………? なんだ、どうした」
「あっ。いや、なんでもないよっ」
クゥ? と。
レオも不思議そうに首を傾げる。
「良也。その、ありがとう。私のために、ここまで……」
「いいさ。俺が好きでやってることだし」
「す、好きで……?」
「うん。なんだよ、そんなに赤くなって」
「う、ううん。なんでもないっ」
いつもならそこで鳳凰拳が一発飛んでくるはずだが――
彼女は珍しくそうせず、俺の右肩に顎を置き、パソコンの画面を眺めてきた。
ち、近いな。
女の子らしいシャンプーの香りが鼻孔を刺激する。
彼女の鼻息がすぐ近くで聞こえる。
――いやいや、いまはそんなこと考えてる場合じゃないだろ。
俺は気を取り直し、チラシ作成に集中する。
「手慣れてるね……良也」
「まあな」
「不思議。こんな一面もあったんだね」
「…………」
よくわからない、なんとも静謐な時間が続いた。俺のキーボードを叩く音だけが、室内に大きく響きわたる。
言ってしまえば、ただの沈黙。
けれどなぜか、俺はこの時間が心地よかった。
よくわからないけど……心地よい沈黙ってやつか。
精神年齢三十にして、ようやくこれを体験するとはな。
由美と、いつまでもこうしていたい……そんな時間がゆっくり流れていく。
――いつまでそうしていただろう。
さすがに眠気を覚えてきた俺は、思わずこっくりと顔を落としてしまった。
い、いかんいかん。
寝ている場合じゃない。
由美の引っ越しまで、時間はもうほとんどないんだから。
「あ、ごめん良也。気きかなかったね」
由美が申し訳なさそうに立ち上がる。
「コーヒー淹れてくるから。あと、おにぎりとかも食べる?」
「あ、ああ……。頼んでいいか?」
「オッケー」
そうしてキッチンに消えていく由美を、またしても俺は不思議な気分で見送るのだった。




