ヒカリちゃん
ある日。女子トイレで髪を梳いていた愛人は同級生のヒカリという女の子から声をかけられた。美人の姿をした愛人のように整った顔ではなかったが、愛嬌のある笑顔で蛇口をひねると小さな手をこすり合わせて手を洗っている。話を聞いてみると彼女には彼氏がいたようだった。
「ねぇ、美人ちゃんには彼氏いないの?」
ヒカリの言葉に目を丸くする愛人。確かに、せっかく女になれたのだから恋愛もしてみたい。愛人にとって、ごく普通の恋愛が。しかし誰と――
浮かんだのは、もう一人の自分の姿であった。
だが、これは許されることなのだろうか。本から出てきた美人と入れ替わり、なりたい自分になって、なり替わった自分に恋をする。こんなこと、おかしいのではないだろうか。でも実際に美人は愛人の姿で強く格好よく生きて自分を守ってくれる存在。そばにいてくれたらどれだけ心強いか。愛人は悩んだ。
「ねぇ、今日美人ちゃんの家に遊びに行ってもいい?」
女子の会話は突然変わるものだ。愛人が頭をぐるぐるさせて考えている間に、話題は一緒に下校しようというものになっていた。その場の空気で何となく承諾してしまった愛人。ヒカリが何を考えているかもその時はわからなかった。
下校中。
「へぇ、愛人君って男の子なのに帰宅部なんだ~」
「まぁな。部活に興味ないし」
ヒカリの質問攻めに適当に答える美人。ヒカリはずっと話し続けていて、愛人が話しかける隙がない。数羽のカラスの鳴き声が聴こえる。ヒカリはそれに怯えたような仕草で美人の腕を強引につかんで詰め寄った。今の愛人にない女の武器。それは胸である。ヒカリは大きかった。美人の腕にそれがむにゅっと当たる。この時、愛人は思った。ヒカリは美人のことを男として見ていると。肝心の美人の顔をうかがってみる。表情一つ変わっていない。それに少しだけホッとした愛人。
それと同時に心臓がバクバク激しく動き出した。この矛盾した心の波はなんなのか。愛人はわからなかった。ただ、このままでは非常にまずい。そのことだけは愛人の脳内で認識された。だからか、自分も会話に加わらなければという気持ちが強くなる。
「愛人君にとって、美人ちゃんってどんな存在?」
ヒカリが唐突に美人に尋ねた。その質問に愛人は目を丸くした……気になる。どう答えるのか。美人は自分のことをどう思ってくれているのか。しばらくの間。美人の表情を見ているのはヒカリだけであった。
「……まさか、双子で……?」
ヒカリが嘲笑するように美人に言う。そっと覗き込んだ美人の顔は赤面であった。入れ替わってからいつもすました顔をしていた、もう一人の自分にこんな表情ができるのかと思うぐらい意外である。
「きもちわるい……」
そう言うと、ヒカリは押していた自転車に乗って彼女の家の方角へ向かって走り去ってしまった。ちなみにヒカリは大のうわさ好きである。人脈も多く、明日からの学校生活に支障が出るのは覚悟しなければならないだろう。それにしても、面倒な女だと愛人は思った。美人が自分のものにならなければ、勝手に捨て台詞をはいてその場からいなくなる。
「ねぇ愛人」
「……気にすんな。何があっても俺が守ってやる」
その言葉が愛人にとって、とても嬉しかった。しかし、現実というものは残酷で。愛人が最も逃れたかったいじめが、美人と入れ替わったことによって、今度は女の立場で受けるようになってしまう。