女々しい「私」と男らしい「俺」
『貴方に最高の幸運を』
ぼろぼろの制服に擦りむいた膝の痛々しい中学生の少年が、泥で汚れた顔をぬぐいながら本に手を伸ばそうとした。それに気づいた書店の女店員は少年に声をかける。
「君、もしかしていじめられてるの?」
「……はい。学校に相談したけど、もっと酷くなってしまって……」
「その話し方、まるで女の子みたいね」
女店員がそう言うと、少年は俯いたまま一言も話さなくなった。何かを感じ取った女店員は、少年の名前と引き換えに彼が手に取ろうとしていた文庫本を手渡す。
「愛人君。本っていうのはね、常に意識している言葉が視界に入って、はじめて手に取ってみたくなる物なの。大事にね」
「お金……」
「いらなくなったら返しに来て。それがこの本の役目だから」
そう言うと、女店員は本の整理に取り掛かった。彼女のネームプレートには「伏見」と書かれていた。不思議と愛人と呼ばれた少年は、そのほかの本には目がいかなかった。ただ一冊『貴方に最高の幸運を』というタイトルに目を引かれたのだ。早速いじめっ子たちに見つからないように、ひっそりと身をかがめて先ほどの本の入ったスクールカバンを両手に、女の子のように走り家まで帰った。
「私、どこかおかしいのかな。みんな私を女々しいとか気持ち悪いっていうけれど、命じゃないか。どうして分かり合えないんだ。それに殴る蹴るなんて……ひどいよ」
泥だらけの服やカバンを玄関に投げ捨て、一番先に洗面台の前で愛人は顔を洗って赤くはれた右頬に手を当てて言う。彼の両親は幼いころに交通事故で亡くなり、今は耳の遠い祖父の宗次郎の家で世話になっていた。しかし、認知症の傾向が出始めているので愛人がいじめられていることを忘れてしまう。
「……宗爺。ごめん、これで変われなかったら私、死ぬから」
痛む傷口に絆創膏を貼って、愛人は二階の自室に籠り
『貴方に最高の幸運を』
という本を開いた。
――貴方に最高の幸運を授けましょう……
一ページ目を開くと、サラサラと文字が流れてくるではないか。思わず出る声。そして慌てた彼はいったん本を閉じた。
(これは何かの夢。そう夢……)
愛人がペンケースに入れていたカッターナイフを手に取り、左手首にあてた瞬間、彼の右腕を握る同じ年ほどの少女が現れた。それは愛人のなりたい自分の姿そのものであったのだ。少女は朗らかに笑み、カッターナイフをスッと取り上げると
「俺を殺すな」
そう言った。
「ず、随分と男らしい方ですね……じゃなくて、誰ですか?」
「俺は美人。理想の姿のお前だ。気兼ねなくスカートも履けるし化粧もできる」
「ただ……」と口を濁す美人。長いまつ毛に健康な肌、フェミニンな服装の彼女を羨ましそうに眺める愛人にため息をつく。
「ない物ねだりってのはこの事かな」
「じゃあ、もしかして……君も?」
「ああ。本当は男になりたいんだ。俺はお前が羨ましいよ」
「私は君が羨ましいなぁ。でもどうして私の部屋に……?」
「察しが悪いからいじめられるんだ」
美人が文庫本のページを再び開いた。すると、二人の体はまばゆい光とともに入れ替わった。まるで雷でも落ちたかのような衝撃が二人に走る。
「な。何事じゃぁあ!?」
宗次郎が階段を駆け上がってくる音がする。美人は愛人をクローゼットの中へと追いやり、汗だくの祖父と会話をし始めた。
「心配しなくていいぜ。俺はこの通りピンピンしてるから」
「いかん、怪我しとるじゃろ。誰にやられた、言うてみ」
「鬼ごっこしてたら転んだだけなんで。まじで」
「そうじゃ、火の始末だけは念入りにせぇよ」
「は?」
クローゼット越しに愛人がひそひそと話しかける。宗次郎は耳が悪く認知症気味であることを。そして長く話していると、亡くなっている祖母の話をしだすので
(スイカが冷蔵庫にあるよって言えばいいの)
と愛人が伝える。実際にさっきの出来事をすっかり忘れたのか、ゆっくりと階段を下りていく宗次郎。その姿を見送る二人。理想の体は手に入れた。しかし、膨らんだ胸部に無くなったモノ。下半身のスース―する感じが妙に恥ずかしくてたまらない。愛人は目の前にいる、かつての自分の姿を見てまだ混乱しているようだった。
「いってぇ、何怪我してんだよ。ほら、行くぞ」
「はい?」
「報復制裁実行決定! 俺を傷付けた奴は誰だ」
「山田君と、中川君と、石井君とえっと……」
「よし、関わってる奴全員やるわ」
「えぇええええ!?」
これは、不思議な本から始まった、奇妙な二人の物語である。