第1章 3
「もう! すっかりマチェちゃんったら、可愛くなっちゃったわねぇ。アタシったらすっごく驚いちゃった!」
フライパンを片手に大家さんこと、コポカさんはあははと笑った。コポカさんは青い瞳ですごくガタイが良い男性——もとい、心は女性。所謂オネェ。
元冒険者で、結構有名だったようだ。中央のダンジョンを50Fまで踏破した、とかなんとか。
収拾クエストを主として僻地ダンジョンを潜っている弱小冒険者には遠い話だ。コポカさんは今は目を悪くして田舎に隠居して、大家をしている。
「そっすね……」
HPが半分ほど減った俺は肩を落としながら、返事をした。
俺の頬にはもみじマーク……のような赤い跡。先ほど、俺はコポカさんにマチェとの関係を誤解されて、ビンタを食らった。
弱小冒険者には素手とは言え熟練冒険者の一撃はきつい。死にかけた。だが、マチェとのじゃれあいで天国にイキかけていた俺を現実に引き戻す力はあった。
「あら……。そんな怒らなくてもー! ちゃんと謝って、こうして手作りご飯も作ってるじゃなーい」
裸の美少女と戯れてたら誰だって勘違いもする。それもシーツで美少女を押さえつけようとしている男の姿を見たら、俺だって殴る。
でも、俺は裸のマチェに服がわりのシーツを巻きつけてようとしていただけなのだ。ただそれを全然理解していないマチェは、俺が遊んでくれていると思ったようで、大人しくならなかった。
ちなみにこの中でまともに|回復魔法《|ヒール》を使える人はいない。俺の回復魔法は最弱クラスなので気休めにしかならない。基本前衛の回復魔法はお飾りだ。
……辛い。
「マチェの服も用意したし! あ、ご飯、そろそろできるわよー」
「それに関しては感謝してる。何故、この服があったのか疑問だが……」
「最近、裁縫に凝ってて! マチェが着てくれてよかったわー! 本当によく似合ってる! サイコーよ」
「手縫い!?」
コポカさんの予想外の趣味。
裸だったマチェは現在、水色のワンピースを着ている。リボンとフリルで彩られたそれはマチェによく似合っていた。耳と尻尾も合わさって、人形のように可愛らしい。少し大きいようだが活動に支障はない。だが、
「きゅーん……」
マチェは不機嫌そうだった。
「サマーカットしたのに、洋服着せるとか……。ヒドイです……。これなら毛皮のままがいいです」
「だから、サマーカットじゃないぞ。人間になったら、服を着ないといけないんだ」
「わふ。人間はどうして毛皮を刈っちゃったんですか?」
「いや、刈った訳じゃない。元々人間は決まった部分しか毛が生えない」
「わふ……。ハゲですか? きゅーん……」
マチェは悲しそうな声で鳴いた。そして、マチェはテーブルについて座り合う俺にゴシゴシと頭を擦り付けてくる。
もしかして、これ慰められてる?
……元イヌから見たら、毛がない事が憐れみの対象なのか。今まで同じ屋根の下で暮らしてきたのに、凄まじい文化の違いを感じている。
「はい! お待たせー! コポカちゃん特製サンドイッチよー。お詫びに奮発していい鶏肉使っちゃったー!」
コトンと目の前にお皿が並べられる。お皿の上にはきつね色したパン。パンに挟まれる特大のお肉と皿まで滴るとろけるチーズ。奮発したと言っただけあって、これはベーコンなどの干し肉じゃない! 生の肉をその場で焼いた肉! ヤバイ、豪華。ピリッとしたスパイスの香りが食欲を誘う。思わず、お腹がぐぅと音を立てた。
「すごっ! さんきゅ、コポカさん! いただきます!」
俺は思いっきりそれに噛み付いた。ざくりという新鮮な野菜の食感。口中に広がる肉汁。ピリッと辛いソース。それらが絶妙なハーモニーを奏でている。
美味い!
辛めのソースがまた次、また次へともう一口を誘う。食欲が止まらない。俺はあっという間に半分に切られたサンドイッチを完食する。
さてもう半分も、というところで一つ気がかりが生まれて、俺はマチェの方を見た。
「……きゅーん」
マチェは口からポタポタと涎を垂らして、サンドイッチを見ていた。目はキラキラと輝いており、完全に意識はサンドイッチに向かっている。だが、マチェは手を出そうとしない。
「マチェ?」
「ご主人……、よしはいつですか?」
「あ、やっぱそうか。すまん」
マチェは食いしん坊なので、よしをしないと決して食べないように躾けてあった。拾い食いとかしたら、大ごとだからな。
それは“祝福”持ちになっても変わらないようだ。
「マチェ、よし! 食べていいぞ」
「わん!」
マチェは俺の声を聞くや否や、テーブルの上に手を置いてずいと顔を突き出した。
「あ」
しまった!
今まで犬食いしか知らないマチェは、このままでは料理に顔を突っ込んでしまう! そうすれば、今のマチェの可愛らしい顔はソースまみれになる。下手すると料理も飛んでいって台無しになってしまう。
「マチェ、待——」
「……わふ!」
しかし、マチェは顔を突っ込もうとして、何故かピタリと止まった。
「……?」
マチェは不思議そうにパチクリと瞬きをしながら、サンドイッチを眺めている。
「マチェ?」
「わ、わん?」
何故か、マチェは困惑している。マチェは何度も噛み付く角度を変えて、サンドイッチを食べようとしている。だが、その度に困惑して動きを止めている。なにも噛めない歯がカチカチと音を立てた。
「どうした?」
「ご主人……、マチェのマズルがありません。このままだと顔中にご飯ついちゃいます……。食べる量が減っちゃいます、わん!」
「まず、る? あ、あー」
理解した。
「てか、しょんぼりしている理由が顔が汚れるからではなく、食べる量かい!」
“祝福”産SSRの美形の持ち腐れだな、おい。色気より食い気。イヌか?
……イヌだったわ。
でも、突っ込む前にマチェがちゃんとそれを予想できた事に俺は感動した。
「うぅ、なんでですか? どうして、鼻がないんですか?」
「いや、鼻はある。イヌと違って人間の鼻は低いんだ」
「そんな! 鼻ぺちゃなんて、隣のヤムみたいじゃないですか……。鼻ぺちゃいやぁ……。うきゅうぐるうきゅきゅきゅーん……」
「うわ、情けない声で鳴くな……」
隣の住人の相棒ヤム。ネコ族シャルルペア種。大きな猫みたいな種族。戦闘能力よりも探索能力に長けた魔族。鼻が低く、ペルシャ猫に似ている。
てか、マチェは隣のヤムの事、鼻ぺちゃだとバカにしてたのか。だから、いつも窓越しにちょっかい出してたんだな……。
だから、引っ掻かれるんだぞ。
「あら、マチェちゃんはどうしたのかしらん? まずるってなに?」
「イヌの口の周りから鼻先にかけての部分の事。つまり、いつもと違って食べにくいと」
「まぁ! 確かにイヌと人間じゃ顔の作りが違うからねー」
「きゅーん。どうして、人間にはないものが多いんですか?」
「………」
マチェは涙目で尋ねてくる。
「爪も短くなりました。牙も全然強くないです。わふ……。ご主人、マチェは……、マチェはこの姿でご主人のお役に立てますか?」
俺からは羨ましい限りの“祝福”。神の“祝福”であれ、マチェからすれば与えられたと言うよりも減った感覚が多いのか。
確かに身体が変われば不自由が出る。俺たち人間からすれば、人間の身体は便利だ。でも、“祝福”はマチェからすれば迷惑なのかもしれない。俺らと同じで自分の常識が通用しない知らない世界に放り込まれた異世界転生みたいなもんだ。
“祝福”って、なんなんだろうな?
とにかく、マチェがこう落ち込まれると面倒だ。
「マチェ」
「はい、なんでしょうか?」
「可愛い!」
「わふ!?」
「可愛い! 洋服似合ってる! 素敵だ! 可愛い! マチェにピッタリだ! ずっと着ててほしい。よく似合ってる。可愛い。すごいぞ、マチェ!!」
俺はマチェの頬を両手で包むといつもみたいにわちゃわちゃと撫で回す。髪がくしゃくしゃになってしまうが、構わず撫でる。撫でる。撫で回す。
すっげぇ恥ずかしい。しかし、今は羞恥心はドブに捨てる。女の子にやるもんじゃない。普通の女の子にやったら、確実に殺される。だが、
「わふわふわふ!!」
マチェは嬉しそうに笑っていた。マチェは撫でられるのが好きだ。褒められながら撫でたらもう有頂天だ。つまり誉め殺しは最マチェには有効打だ!
マチェを女の子扱いするのは一旦保留しよう。今まで通りイヌ扱いでいこう。うん、それが俺の心の平穏の為にもちょうどいい。
「あらあら。乱暴ね」
「……言うな」
自覚はある。だが、
「乱暴じゃないです。これが好き! マチェはこれが好き! わんわん!」
姿が変わろうがマチェはマチェだ。撫でられた事ですっかり不機嫌や不安が消え去っていた。
この方法は以前エリザベスカラーをつけられ拗ねたマチェにも有効だった。
「マチェ、できない事が増えたかもしれない。できる事も減ったかもしれない」
「わふ?」
「だから、今出来る事を見つけような」
「今出来る事?」
「そうだ。出来る事って言うより、今の姿——“祝福”持ちになって嬉しい事、楽しい事を探そう」
「……はい! 嬉しい事、楽しい事! どっちもいっぱいだと嬉しいです! 楽しいです!」
マチェは心底そうだと証明するようになる尻尾をバタバタと振った。
「よし! ご飯にしような。じゃあ、練習しよう。マチェ、顔を近づけるんじゃなくて、こうやって手で持って、だな」
俺はマチェに見せるようにサンドイッチを持った。
「……うぎゅるうるきゅるきゅる」
「うおぅ!? なんで鳴いた!?」
「ま、マチェはわかんないです……。どうやって、前足で持つんですか?」
マチェはサンドイッチに手を伸ばしてちょいと突く。その様子はおっかなびっくりで頼りない。
「今は前足じゃなくて手だぞ。変に意識しなくても、持てる気がするが……。あー、そうか。初めてか……」
マチェの手は不自然に拳が握られている。イヌは各指をそれぞれ動かす事はない。おそらく、どこに慣れない事にどうやって力を入れていいかわかんないのだろう。
機能はあれど、使い方がわかんないと無茶か……。今後の課題だな。
「仕方ない。今はいいが、次はちゃんと覚えような。ちょっと、待ってろ。今回は特別だぞ」
俺はテーブルの端に置かれていたナイフとフォークでサンドイッチを切り分ける。小さく切り分けたそれをマチェの口に運んだ。
「マチェ、口開けろー」
「わふー!」
マチェはこれまた嬉しそうに大口を開けた。
「わふわふ——きゃいん!」
笑顔で噛んでいたものの、途中で顔を曇らせた。尻尾も耳もパタンと垂れ下がる。
「マチェ?」
「痛い……」
舌を垂らしながら、マチェはくすんと肩を落とす。
「痛い? ……あ、辛いって事か?」
辛味は味覚ではなく、痛覚と言う。
「あらあら、スパイス入れすぎたかしら?」
さっき俺も食べたが辛いと言う程でもない。スパイスはただのアクセントだ。
「マチェは、こんなに味がいっぱいなの初めてです……」
「あ……。そうか。イヌには薄味が基本だもんな」
そう考えるとスパイスはまだマチェには早いな。
「まぁ! アタシったら、ダメね……。マチェちゃんがフォークとか使えないだろうってサンドイッチにしたのとか、初めての食べ物だから美味しいものをって最近流行りのとびきりのスパイスとか全部裏目に出ちゃったわね……。ごめんね」
コポカさんはその肩を落として、項垂れる。巨体から感じられる威圧がほんの少し消えた。コポカさんは繊細だった。
「わふ? なんで謝ってるんですか? お肉は美味しいです! マチェ、こんなに美味しいの初めてです! 好き! もっといっぱい食べたいです!」
マチェは尻尾をバタバタと振った。基本的にマチェは人が大好きイヌなので、多少変な事されても落ち込まない。むしろ、自ら撫でられにいくタイプだ。
「あら! 嬉しい事言ってくれる! ルクス、この子ちょうだい。娘にするわ!」
「ダメっす」
イヌ時代はよかったが、“祝福”持ちになったマチェのこの人馴れ具合は不安を感じさせる。
「てか、ルクスったら妙に勘がいいっていうか、“祝福”持ちの面倒見慣れてる感じがするわ」
「それは……、うん。そうだな」
一瞬否定しようかと思った。でも、やめた。否定しようと過去は純然たる事実だ。
「昔“祝福”持ちと暮らしてたんだ」
それはもう遠い昔の事。
SSR二枚抜きだからって元がイヌだから、なんでもトントンと行くとは限らない。むしろ、手間がかかる。