一番のクズ
昼休み。
教室にいると、隊長崇拝の隊員の目がうるさくて、今日もやはり校舎裏の階段に逃げ込んだ。
今日は、大村葛葉の姿はない。
必ずしも来るわけではないないんだな、と思うと、なぜか少し寂しい気持ちになった。
何度も会っているうちに、彼に対して何らかの情が芽生えているのかもしれない。
――――――あたしが何者なのかもわからないのに。
たった7ヶ月の記憶をなくしたあたしは、自分の人生の転換期をまったく覚えていないたけで。
あたしは、何を目指していたのかもさっぱりわからない。
もうすぐ、昼休みが終わる頃だと、腰を上げて階段を降りようとしたら、下に人影が見えた。
「会ったんだね」
葛葉が脈絡もなく、言った。
「誰に?」
「誰にって――――――」
なぜか言い淀んだ彼は、言葉を探しているというよりも何か、その先を話すことを拒んでいるようだった。
「葛葉?」
聞き返すように、名前を呼ぶと、彼が顔を上げた。
その表情は、まったく感情を失われたようにまっさらになっていた。
「慎之介に会ったって聞いた」
「慎先輩?」
「はっ、もう慎先輩って呼んでるんだ」
――――――別にあたしが、好んで呼んでいるわけじゃないけど。
慎先輩に、呼べと言われたから呼んだだけ。
なぜか、それを説明するのは腹立たしく感じられた。
「慎之介が、杏が変だったって心配してたけど、何を話したの?」
「――――――別に大した話はしてないんだけど」
「そんな簡単に記憶喪失のことがばれてもいいの? 大騒ぎになっちゃうよ?」
心配しているようにも聞こえる言葉だけど、葛葉は軽く笑っていた。
「葛葉はあたしの記憶喪失がバレたらいいと思ってるの?」
「俺は」
言いかけた葛葉はちょっと、考えるように黙り込んだ。
「どっちでもいいよ」
「どっちでも?」
「俺には関係ないし」
――――――それは、その通りなんだけど。
当たり前の反応にあたしは、それ以上の言葉を失った。
「慎之介が心配していたことが気になる?」
一言も慎先輩のことを言ってないのに、葛葉は何かを気にしているのかやたら慎先輩のことを聞いてくる。
「――――――杏の消えた記憶の欠片、教えてあげようか」
「本当!?」
「知りたいんだ?」
「知りたい!」
あたしが前のめりになると、葛葉は面白そうに笑った。
「杏が俺の話を、こんなに聞きたがったのは初めてだね」
「そうなの?」
「うん、そうだよ。杏は俺に対して、いつも怒ってばかりで」
――――――言いかけた葛葉はふと、言葉を止めた。
「記憶の欠片、知りたいんだよね?」
あたしが頷くのを見て、葛葉が距離を詰めてきた。
二人の距離が手を伸ばさなくても届く距離まで近づく。
「葛葉、なんか距離が近い」
恥かしくなって後ずさりしようとしたあたしに、葛葉は手を伸ばして頬をなでた。
冷たい手が頬をなぞって、唇に触れた。
「葛葉――――――」
それでなくても、色気たっぷりの葛葉のお色気モード全開バージョンにあたしは言葉を失った。
「わかってる。杏の無くしたものを、話してあげるよ」
あたしは葛葉の脅迫のような言葉に、固まった。
動けない。
動くことができなかった。
近づいてくる顔に、目をつぶらずに、あたしは立っていた。
吐息すら触れる直前に、葛葉と目が合った。
「名前のとおり、クズだね」
あたしから漏れ出た言葉は、葛葉の動きを止めるのに十分だった。
葛葉はあとわずかで、唇が触れる直前に固まった。
傷ついたように、顔を伏せた葛葉に若干の罪悪感が浮かんだその時。
「あははは」と弾けたように、葛葉が笑い出した。
「なんだ、記憶がないなんて嘘でしょう?」
葛葉は笑いすぎて、うっすら涙さえ浮かべている。
「なによ! 何を笑っているの? あたし、本当に記憶がないから!」
叫んだあたしに、葛葉は「あれ? そうなの?」と涙を拭きながらきょとんとしている。
「そっか、じゃ、魂は記憶に左右されるものじゃないってことなんだね」
「何それ――――――?」
「杏、確かに俺はクズだよ。君の言葉に一ミリの間違いもない。だけどさ、本当に誰が一番のクズかなんて蓋を開けてみないければわからない」
「一番のクズって、それどういう意味なの?」
あたしの言葉に、葛葉は「ははっ」と乾いた笑いを漏らした。
「だから、クズというのはもっと他にもいるってこと」