終止符
目を開けた。
見慣れた部屋で、目が覚めて起きた。
「あたし―――?」
デジャブのような感覚にあたしは周囲を見回した。
昨日のことは手に取るように覚えている。
最後の葛葉の表情を細部まではっきりと思い出すことができる。
――――――だけど、あたしはそれよりも前のことも思い出せた。
別に脳の損傷があったわけでもないし、突発的な事故や事件があったわけでもない。
7か月間の記憶は突如、失われた。
それが、前触れなく戻ってきても不思議ではなかった。
―――――――馬鹿だ、あたしは。
不意に戻った7か月間の記憶と、数時間のあたしの記憶が入り混じって、あたしは自己嫌悪に襲われた。
“誰が一番のクズかなんて蓋を開けてみないければわからない”
不意に葛葉の言葉が聞こえた。
あの時はわからなかった答えを、今ははっきりとわかっていた。
「ばかだ、あたしは。だれよりも、クズはあたしじゃないか」
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記憶をなくす前のあたしは、慎先輩に彼女がいることを知っていた。
慎先輩とつばさ先輩の姿を遠くから、何度か見たことがあった。
慎先輩を見ているのは幸せな気持ちになるのに、となりにつばさ先輩を見るとどうしようもなく苛立った。
慎先輩の可愛い後輩ポジションは獲得したのに、傍にいることが苦しくて仕方がなかった。
“篠崎って慎之介のことが好きなんだね”
不意に呼び止められて、大森葛葉に言われた。
あたしは言葉の真意がわかなくて、困惑して葛葉を見た。
葛葉は面白そうに笑って続けた。
“慎之介に、伝えてあげようか”
“馬鹿言わないでよ!”
かみついたあたしに、葛葉はさらに面白そうに笑った。
“なんで、気持ちなんて伝えなきゃ意味ないじゃない”
“伝えたって意味のない気持ちもある”
“ふーん。じゃぁ、篠崎は慎之介に気持ちがバレたくないんだ”
弱みでも握ったかのように笑う男に、腹が立った。
睨みつけたあたしを軽く鼻で笑って流している。
“あっ、慎之介だ。慎之介―!”
“あれ? 杏ちゃんも一緒?”
慎先輩はいつだって、あたしを見て穏やかに笑ってくれる。
日常がゆっくりと流れる慎先輩の空気が、何よりも好きだった。
“そうだ、葛葉。おまえのファンがまた、うちの教室で騒いでたぞ”
“あっ? おれのせいじゃないだろ?”
“まぁ、そうだけどな。あれは度を過ぎてるからね。困ったね”
慎先輩の眉間に皺が寄った。
穏やかで、他人に苛立ちをぶつけることが少ない慎先輩にとって、普段あまり見たことがない表情だった。
そんな表情の原因となる葛葉に腹が立った。
葛葉は、慎先輩の影で、にらみつけるあたしに気が付くと、鼻を鳴らした。
“ごめんね、生徒会室に行くところだったから”
“あっ、慎先輩。生徒会のお仕事、頑張ってください”
あたしの言葉に、片手をあげて返事をしてくれる慎先輩はさわやかだった。
模範的な素敵な先輩だった。
“篠崎さ、俺の親衛隊に入りなよ”
“はっ? 何の悪夢よ、それ”
“言ってくれるじゃん。だからさ、交換条件だよ”
“交換条件?”
“俺の親衛隊に入って、ファンのことたちの凶行を止めてほしいんだ。さっき、慎之介も困ってただろう”
“そんなの自分でやれば?”
“俺が出ていくと、いつも、悪いほうに作用するんだ”
“それでもあたしが、出ていく謂れもないよね”
“その代わりに、慎之介に篠崎の気持ちを言わないで上げる”
“それって、脅迫じゃん!”
“だから?”
葛葉は、名前のとおりの”クズ”だって分かった。
笑う葛葉は、悪役そのままだった。
あたしは従うのは嫌だったけれど、慎先輩に気持ちがバレるのはもっと嫌だった。
慎先輩の可愛い後輩ポジションを揺るがされるのが、ひどく怖かった。
あたしは葛葉の親衛隊に入って、改革を始めた。
中を変えるならと親衛隊長になって、どんどん改革を始めたら、いつのまにかカリスマ隊長と呼ばれるようになっていた。
季節が移り替わる中で、葛葉があたしのことを”杏”って呼ぶようになっていた。
一緒にいる時間が長くなるほどに、葛葉はことあるごとに、あたしに手を伸ばした。
触れる指先が、とても優しくて最初は戸惑った。
だけど、それに慣れてきて、葛葉との時間が自然になっていった。
ある時から、葛葉の瞳があたしを愛おしく見つめていることに気が付いた。
あたしが慎先輩をみる瞳と同じような瞳で、あたしを見ていた。
あたしは葛葉の気持ちを悟って、眩暈がした。
あたしはもう、後戻りができないところまで来ていた。
慎先輩は、あたしをいまだに可愛い後輩として見てくれている。
その距離感はちょうどよいもので、それを与えてくれた葛葉はあたしを愛おし気に見ている。
彼の気持ちに気が付いていれば、あたしは葛葉を利用しているにすぎないって思った。
そこで葛葉から離れれば結末は違っていただろう。
だけど、あたしはもう、後戻りができないところまで来ていた。
ずるずると、奇妙な関係を続けてしまった。
叶わない慎先輩に対する気持ちは、時間を置くごとに落ち着きを持ち始めていた。
葛葉の目はいつでも、あたしを追いかけていて、それの視線をうざったく感じるよりも、気になって仕方がなかった。
だけど、慎先輩が好きな気持ちはすっかり消え去ることはなくて、どうしていいかわからなかった。
だから、ではないかと思う。
この奇妙な関係に、終止符を打つ。
―――――――そのために、あたしは記憶をなくした。
まっさらになって、葛葉と対峙するために。
馬鹿なあたし。
「だから、クズというのはもっと他にもいるってこと」
葛葉の言葉が蘇ってくる。
――――――そうだね、誰よりも、クズはあたしだ。
自分のことしか考えていない。




