第2話
「あんた、足もないのに向島に来てどうしようたん?」
1BOXカーの助手席でお姉ちゃんが呆れた口調で言っている。
槙原夏未。二十一歳。市内の地方銀行に勤めている私のお姉ちゃん。顔は私に似て美人だけど、性格がきつい。思ったことは何でも口に出して言ってしまう。でも、おせっかいなところがあるから、年下にはウケがいいらしい。
「別にお姉ちゃんには関係ないじゃんか」
私は膝の上に置いてある麦わら帽子のつばを握りしめた。彼氏のことが忘れられないから、なんて言ったらバカにされるのがわかっているから絶対に言わない。
「デートの最中にわざわざ迎えに来てやったのにそういうかわいくないこと言う?」
「ええじゃんか。家でゲームしてただけなんじゃから」
そう言ってくれたのは、車を運転している村神剛史さん。
お姉ちゃんの現在の彼氏。二十四歳。お姉ちゃんと同じ銀行に勤務している。お姉ちゃんにはもったいないくらい『良い人』。年下ばかり彼氏にしていたお姉ちゃんにしては珍しく年上だったりする。
「だめだめ。この子は甘やかしたらすぐ図に乗るんじゃけえ」
「おせっかいすぎるのもどうかと思うけど」
助手席側の後部座席に座っている私は小声で呟く。
「すんません! 俺のせいで姉妹の絆に亀裂を入れてしまって……」
私の座席の更に後部座席から大げさに謝る声が聞こえてきた。
さっきの早とちり青年である。その横には青年の自転車が積んである。自転車のチェーンが切れて困っているみたいだったから、麦わら帽子を拾ってくれたお礼に自転車屋まで乗せていってあげることになったわけ。
「あー、ええってええって。それより、誰なん?」
と、お姉ちゃん。
そういえば、名前まだ聞いてなかった。
「俺ですか?」
「他に誰がおるん?」
青年の戸惑いに、躊躇なく突っ込みを入れるお姉ちゃん。
「俺は渡壁将仁」
そこで青年――渡壁くんが私に何やら期待の眼差しを向けてきたような気がした。けど、私が無反応なのを確認して、ガッカリした表情を見せる。
「何歳なん?」
「十六歳」
私と同じ年だ。
「瀬戸田から自転車で来たんじゃけど、因島大橋を渡っとる時に急にチェーンが切れてしもうて。で、向島で自転車屋がないか探しようたんです」
「それで美波に会ったわけ? ラッキーじゃったね、渡壁」
出た。お姉ちゃんの初対面なのに年下とわかったらいきなり呼び捨て、が。
「うち、自転車屋なんよ」
自慢げに言うお姉ちゃん。まあ我が家が自転車屋だから、こうしてお姉ちゃんを呼んで家まで自転車を運んでもらおうとしたわけだけど。
それに十一月の寒空に濡れたジーパンをいつまでもはかせておくわけにはいかないもんね。まあ元の原因は渡壁くんの早とちりなんだけど。
「にしても、チャリでわざわざ尾道まで何しに来たん? あ、瀬戸田ももう尾道か。ややこしいなぁ」
と、お姉ちゃん。瀬戸田は数年前に合併して尾道市になっている。
「まさかベッチャーを見に来たわけじゃないんじゃろ?」
ベッチャーっていうのは、毎年十一月三日にやる尾道に昔からある伝統的な祭り。ベタ、ソバ、ショーキーっていう武悪面、般若、天狗の面をかぶった人たちが、祝い棒と言われる棒で子供たちの頭を叩いたり体を突いたりするという一風変わったお祭りである。ベタたちに叩かれた子供は一年間病気をしないと言われているだけど、子供たちにとってはただ泣き叫ぶだけの恐怖のお祭りでしかない。私も子供の頃はお父さんに連れてこられて怖くて大泣きした記憶がある。あまり好きなイベントではない。
「知り合いに頼まれたんです。千光寺で縁結びのお守りを買うてきてほしいって」
「千光寺に縁結びのお守りなんかあるん?」
私は聞いた。
「美波、知らんのん? ご利益があるって、けっこう有名じゃのにい」
「ホンマにい?」
私は半信半疑でお姉ちゃんを見る。
車がちょうど尾道大橋の料金所で一旦停まる。
「ここに証人がおる! お姉ちゃんは千光寺で縁結びのお守りを買って、良い彼氏に巡り合えたんじゃから。ねぇ、剛史」
お姉ちゃんが村神さんに通行料金を渡しながらにっこりと微笑みかける。
それって何個目の縁結びのお守り? って、聞きたかったけど、村神さんは今までの彼氏の中で一番やさしいから別れられても困るので黙っておこう。
「何、その疑いの眼差しは? ロマンの欠片もない子じゃねえ。そんなんじゃけえ、男に愛想つかされるんよ」
「違うわ! 愛想つかしたんは私の方よ!」
思わずムキになって大声を上げる。膝の上の麦わら帽子が私の拳で潰れる。
一瞬にして車内の空気が凍りついたのがわかった。けど、言ってしまった以上もうどうすることもできない。私はバツが悪くなり、窓の外に目を向けた。
車が尾道大橋を渡っていた。この尾道大橋と並行して架かっているのが新尾道大橋。尾道と向島を結ぶ双子橋なんて言われている。週末になると新尾道大橋はライトアップされて、尾道水道の夜景を彩る。
眼下の波止場にはいくつもの漁船が連なっている。私はそんな港町くさい尾道が嫌いじゃなかった。
「美波ちゃんはかわいいからすぐに彼氏できるって」
尾道大橋を渡り切ってから村神さんがフォローしてくれた。
「だめだめ。この子は私と違って男を見る目がないんじゃけえ」
お姉ちゃんの言葉に反論する気にもなれなかった。でも、お姉ちゃんの言うことにも一理あるかもしれない。
周りが見えなくって、友達の忠告も聞こうとしないから、こういう結果を招いてしまったのだ。そこは反省すべきだと自分でも思う。
「渡壁は彼女とかいるん?」
「おったら、せっかくの連休なんじゃけえ彼女とデートしてますよ」
お姉ちゃんの遠慮のないストレートな質問に、渡壁くんは気を悪くした風でもなく笑顔であっけらかんと答えた。
「そりゃそうじゃね。じゃったら、この子なんかどう? まあ見た目しか取り柄のない子じゃけど」
「ちょっとお姉ちゃん! 知り合ったばかりの子に何失礼なこと言おうるんね!」
私は後ろからお姉ちゃんの首を絞めた。ったく、いつも何の考えもなく突拍子もないこと言うんだから。
「そ、そんなことなあですよ! 槙原さんは顔だけじゃなくて……」
渡壁くんは後部座席から立ち上がって急にいきり立った。
唖然とする私とお姉ちゃん。
「あ、何でもないです」
自分の言動に気付いた渡壁くんは真っ赤な顔をして再び後部座席に腰を下ろした。
「よく見てみいや。渡壁、ええ男じゃんか。お姉ちゃんの直感だと性格も良いとみたね」
「あれで?」
お姉ちゃんと私は小声で話す。
私は後ろをチラ見する。
渡壁くんはまだ真っ赤な顔をしていた。そういう顔をされると、私もどう対応したらいいのかわからなくて困るんだけど。
車が停まった。
「はい、到着」
村神さんが今までの微妙な空気を取り払うような、清々しい笑顔で言う。この人、癒し系だなぁ。
マキハラ自転車店。久保の海岸通りにある古びた店だった。
ここが私の家でもある。都会とかならともかく、自転車なんて今じゃホームセンターかスポーツ用品専門店で買うのが主流のご時世に自転車だけ扱っている店も珍しい。っていうか、潰れない方が不思議である。固定客が何人かはついているみたい。
ガラス張りの引き戸を開けると、店内には持ち主を待ちわびている自転車が数台並んでいた。
「ただいまぁ」
「おかえり」
住居になっている奥からお母さんが顔を見せる。
娘の私が言うのも何だけど、四十三歳のおばさんとは思えないほど若々しい。お姉ちゃんと三人で歩いていると、いつも三姉妹と勘違いされる。あの昔堅気なお父さんにはもったいないくらいの美人である。『美女と野獣』という言葉はこの二人のためにあると言っても過言じゃないくらい、不釣り合いな夫婦だった。だから、私は小さい頃に一度だけ「どうしてお父さんみたいな人と結婚したの?」って質問したことがあった。お母さんはニコニコ笑って「おバカなところがかわいかったから」って答えた。その時のお母さんは菩薩様のように見えた。あんなお父さんだからきっとお母さん以外に面倒見てくれる人がいなかったのだと思う。
「お父さんは?」
「ベッチャーの手伝いに行っとるけえ、帰ってくるのは夕方じゃないんかねえ」
って、お母さんは言っているけど、帰ってくるのはたぶん夜。打ち上げとか言って夜遅くまでみんなでお酒飲んで大騒ぎするに決まっている。
正直、私はお父さんのことが好きじゃなかった。高校だって、本当は陸と同じ私立の進学校に行きたかったのに、「勉強する気があるんじゃったら私立なんか行かんでも学費の安い公立でえかろうが」とか言って受験させてもらえなかった。
自分は好き勝手なことばっかりしているっていうのに。
「珍しいね。美波がお父さんに用事があるじゃなんて」
「私じゃない! ちょっと知り合いの自転車を直してもらおうと思うただけじゃけえ」
「急ぐんね?」
「えーっと」
私が返事に困っていると、渡壁くんが車から降ろした自転車を店の中に持って入ってくる。
「こんにちは」
軽く会釈する。
「たっだいまあ」
「お邪魔します」
続いてお姉ちゃんと村神さんが入ってくる。
「どうせお父さん、おらんのんじゃろ」
「お姉ちゃん、わかっとたんなら早く言ってくれればいいのに」
「何言おうるんね。お父さんがベッチャーの手伝いに行くんは毎年のことじゃんか」
確かにそうだった。最近、お父さんの存在を気に掛けないようにしていたからすっかり忘れていた。
「渡壁、時間は大丈夫なん?」
「ここまで来れば泊めてくれる所はあるんで、明日までに修理してもらえたら大丈夫ですから」
「何だったらうちに泊まればええが」
と、お母さん。
出た。お母さんの困っている人は放っておけない癖が。
「そうじゃね、その方が手っ取り早うてええじゃん」
と、今度はお姉ちゃん。
どこまで人が良すぎるのよ、うちの母と姉は。年頃の娘がいるっていうのに、同世代の、しかも今日知り合ったばかりの男の子を泊めるなんてありえない。
普通の人ならここは辞退するはずね。
渡壁くん、断るよね?
私は渡壁くんの返答を待った。
「でも、そこまで甘えたら」
そうよ、そのまま断るのよ。
「気にすることないって。これも何かの縁じゃん」
もうお姉ちゃん、何ってこと言いだすのよ。これじゃあ渡壁くんが断れなくなるじゃないの。私は心の中で叫んだ。
そして、渡壁くんの口から出た答えは。
「ホンマですか? まさに地獄に仏とはこういうことを言うじゃろうなぁ。日帰りのつもりじゃったけえ、ホテルに泊まるだけの金もないし、正直どうしようか焦っとったとこじゃったんです」
「渡壁、若いのに年寄りくさいこと言うんじゃねえ」
「周りにそういう人が多いもんで、つい」
渡壁くんとお姉ちゃんは笑っていた。
何、そこで和んじゃってるわけ?
そうだ、村神さん。村神さんなら止めるよね。大事な彼女の家に若い男が泊まるなんてこと、反対だよね。
「じゃあ、今晩はごちそう作らんとね。もちろん、剛史くんも食べてってえね」
「当然じゃんか。ね、剛史」
「はい」
村神さんは笑顔で答えた。
私は脱力した。
村神さんが最後の砦だったのに。
あ、そっか。私が反対すればいいんだ。どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。
「私、反対!」
その言葉に和んでいた空気が重たくなった。
のも、一瞬だった。
「あ、そういやあジーパンが濡れとったね。ちょっと待っとって。確か剛史のジーパンがあったけえ。背格好似とるから、合うじゃろ」
お姉ちゃんは早口でまくしたてると、自分の部屋へ上がっていった。
「じゃあ、お母さんは買い物に行ってくるけえね。将仁くん、遠慮せんとゆっくりしていきいね」
お母さんはそう言って、そのまま出かけた。
私の言葉はまったく無視されていた。
あれ? お母さん、今渡壁くんのこと下の名前で呼んでなかった? お母さんにはまだちゃんと紹介してないはずなのに。聞き間違い?
「親切なお母さんとお姉さんじゃね」
「おせっかいなだけじゃろ」
私のことは無視してさ。私と渡壁くんとどっちが大切なのよ?
「そこがナッちゃんとお母さんのいいとこじゃけえ」
村神さんが小さく呟く。
私にはゴーイングマイウェイな家族のことなんか理解できなかった。でも、私はまたこの家族に振りまわされるんだ。
そんな嫌な予感がした。