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第一章 秘密を抱えた〈灰かぶり〉

その日、空には満月が煌々と輝いていた。

ヴィラーシュは、空を仰いで微笑んだ。こんなに月がきれいな日は、仕事よりも月見をしたいものだ。心底思ったが、大人の事情はそれを許さない。仕方ないので、月を見上げて、その美しさを堪能(たんのう)する。すると、束の間ではあるが、ささくれていた心が癒されるようだった。

「隊長、準備は整いました」

「予告の時間まで、あと五分です」

「分かりました。お疲れ様です。持ち場に戻りなさい」

簡単に指示を出すと、ヴィラーシュは視線を映し、金の枠でしっかり固定された窓を見つめた。顔を覆う仮面の位置を指先で直す。それが気合を入れる際の、彼のお決まりの仕草だった。

彼がいるのは、伯爵家の屋敷だった。王都と隣り合わせの貴族街にある小さな別邸だ。屋敷自体はこじんまりとした造りであるが、庭の広大さは有力貴族の本邸にも引けを取らない。豪華な屋敷ばかりが居並ぶこの地区で、これだけの土地を買い付けた伯爵の手腕には舌を巻く。

もっとも、伯爵には密輸貿易の疑いが掛かっている。犯罪で得た大金に物を言わせて得たものだと思えば、感慨もすぐに消え失せた。

ヴィラーシュがこの家から請け負った仕事は、宝石の警備だ。入手ルート極秘。(いわ)くつきのパールのティアラ。これを、最近王都を騒がせている怪盗から守るのが、ヴィラーシュ率いる黒鳥騎士団、通称レイブンスの使命だ。

一癖も二癖もありそうな仕事を、ヴィラーシュが引き受けたのは、この宝石が王城から姿を消した災厄の宝石〈(くろ)()(ほう)〉と類似しているからだ。

〈黒の死宝〉は、建国して間もなく国に災いをもたらした七つの宝石の総称だ。

血よりも深い赤のガーネットの指輪。

湖の暗く澄んだ蒼を思わせるサファイヤのイヤリング。

黄金の輝きを持つトパーズのペンダント。

深緑の葉と同じ色をしたエメラルドの髪飾り。

クリスタルと称されるほど透明な光を放つパールのティアラ。

ヴァイオレットの結晶が特徴のアメシストのチョーカー。

五百カラットを越えるダイヤモンドのついたガラスの靴。

百年以上前、国王がその忌まわしい力を銀の箱に封じ、信頼をおく臣下に渡した登言われている七つの宝石。それが近年、国内外で似たような宝石がオークションにかけられている情報を度々耳にした。

おまけに、その宝石を黒ずくめの衣装を着た女怪盗が盗み出す騒ぎが起き、国中が女怪盗と彼女のお眼鏡にかなった宝石の存在に沸いた。

王国が転覆しかけた歴史を繰り返すまいと、国王は〈黒の死宝〉の存在を信じ、似た姿を持つ七つの宝石を回収せよと命じた。

国王の勅命を受けたのが、国王の息子。つまり王子であるヴィラーシュだった。

国王には娘が数人いるが、息子は一人しかいない。すなわち、ヴィラーシュはいずれ王座を継ぐ運命にある。国王の見習いとして城内で働いていたヴィラーシュは、〈黒の死宝〉と、謎の女怪盗の討伐を快く引き受けた。

陰謀渦巻く城内で、王子の仮面をつける生活にも飽き飽きしていたところだ。毎日のように、心にもないお世辞や称賛を浴び、隙あらば、地盤を崩そうと画策する貴族たち。王子としてのヴィラーシュしか見ようとせずに、薄っぺらい愛の言葉を(ささや)く女たち。束の間でも離れられるならば、昼夜問わず働くのは大した問題ではない。むしろ、騎士団の仕事を口実に、舞踏会を欠席できるのが嬉しい。そんな子供みたいな理由で、ヴィラーシュは今日も並み居る令嬢たちを押しのけて、ここへやって来た。

「さあ、今日こそ捕まえて見せますよ」

私の子猫。誰にも聞こえないように呟くと、ヴィラーシュは懐中時計を開いた。

カチカチと時計が規則正しいリズムを刻む音が響き、長針と短針がぴったり重なったところで、十二時を告げる鐘が鳴った。

瞬間、目にもとまらぬ速さで窓の一部が外れて、女が顔を出す。ヴィラーシュが彼女に目を止めた時には、すでに女は真上の屋根に身を躍らせていた。

膝よりも短い丈のドレスは、上半身は身体のラインにピッタリそう作りで、下にかけて布地が広がっていく。レースを幾重にも重ねたスカートは、女が動くたび華麗に舞う。散りばめられたスワロや赤い薔薇飾りは、満月の下によく映える。まるで女が星屑を纏っているようにも見えた。

「こんばんは、姫君。今宵も美しいですね。黒のドレスが、とてもよくお似合いです」

もっとも、あなたに似合わない衣装など存在しないでしょう―――ヴィラーシュの呟きは風に乗って彼女の元へ届いたらしい。彼女は一瞬だけ身じろぎした。

「こんばんは、隊長さん。相変わらず、お世辞がお上手ね」

「お世辞だなんて、悲しいことを言わないで下さい。私は常にあなたのことを思い、あなたを飾る最上級の言葉を紡いでいるつもりですよ」

「あらそう。でも、いくら褒められても、これは返せませんわ」

彼女の手にあるのは、大粒のパールをあしらったティアラ。金庫の厳重すぎる警備を、彼女はいともたやすくかいくぐったのだとすぐに分かった。

怪盗サンドリヨン。〈黒の死宝〉を狙う女怪盗。数年前、突如現れた彼女は、鮮やかな手つきと思いもよらぬトリックを駆使して、〈黒の死宝〉を奪い去る。神ががり的な手腕に、騎士団が煮え湯を飲まされた回数は知れない。

過去三回。レイブンスはサンドリヨンの罠にはまり、まんまと黒の死宝をかすめ取られた。レイブンスが勝ち星を挙げたのは、ほんの二回ほどしかない。

苦い記憶が脳裏に浮かび上がる。だが、ヴィラーシュは微笑みを崩さなかった。

過去は大した問題ではない。そう、彼女を捕まえてしまえば全て解決する。

ヴィラーシュの目に獲物を狙う肉食獣のような鋭い光が宿った。

「そうですか。では、あなたごと頂きます」

「そう簡単に捕まるものですか。私も〈黒の死宝〉も、あなたには渡しませんわ」

サンドリヨンは、素早くその身をひるがえした。ヴィラーシュはチッと舌打ちした。屋根に軽い電気ショックが流れる仕掛けがしてあることなど、お見通しだったように、サンドリヨンは罠を華麗に回避し、大きな風船のようなものを身体に括りつけて、空へ飛ぶ。

「総員。怪盗サンドリヨンは、西に向かっている。出入り口の警備は続行。残る者は全員で彼女を追え!」

ヴィラーシュが声を張り上げると、数秒もしない内に、隊士たちがものすごい勢いで西へと駆けて行った。出口があるのは東側。西側は伯爵が財力をつぎ込んで作った広大な庭園。薔薇園や、御伽噺に出てくるような迷宮庭園まである。

向こう側に果たして逃げ道などあるのか―――ヴィラーシュ自らが作り上げた落とし穴や、簡易(かんい)爆発(ばくはつ)装置(そうち)に引っかかり悲鳴をあげる部下をよそ目に、冷静に考えた。

そして、慌てて東へと走り出した。西に逃げた女怪盗を追うために警備が手薄になった東側へ。

「くそっ!」

正門を守っていた兵士たちの変わり果てた姿を確認して、ヴィラーシュは壁を叩きつけた。

やられた―――悔しそうに歯噛みするヴィラーシュの近くで、兵士たちの安らかな寝息が聞こえてくる。

西にダミーを向かわせ、守り手が薄くなった東に逃げる。迂闊だった。念には念を入れて張っておいた罠の数々も、全て打ち破られている。

怪盗サンドリヨンの華々しい活躍が新聞の一面を大きく飾ることを想像して、ヴィラーシュは唇を噛みしめた。




〈灰かぶり〉の朝は早い。

暖炉に火を起こして、井戸から水を汲んで、それから朝食の準備をする。九時から始まる露店の仕事に間に合わせるには、陽が昇るよりも早く起きなければならない。

今日も、リリアナは雀が鳴くよりも早く起きて、薄暗い庭から水を運び入れた。昨日の内にまとめておいた洗濯物を洗って、手際よく竿にかけていく。春も過ぎたこの頃だが、早朝は未だ冷える。洗濯を終えたばかりのリリアナの手は、氷のように冷たくかじかんでいた。暖炉の火で僅かばかり暖を取ると、行きつく間もなく食事の支度を始める。

露店で働いた対価で貰った野菜や少しばかりの肉や卵。吟味した上で、少しばかりの野菜とハム、そして卵を三つ手に取った。

卵を割って、手早く溶くと、ハムを焼いたフライパンに注ぐ。熱いフライパンの上で無造作にかき混ぜれば、スクランブルエッグが出来あがる。野菜は適当に手でちぎって、オーブンで温めたパンを皿の隅に乗せる。あとは申し訳程度の肉と、スクランブルエッグを四等分にして盛りつければ朝食は出来あがる。

あとは、継母・継姉たちの皿にはチーズを一欠けら乗せる。出来あがった朝食を魔の前にして、満足げに微笑んだところで、やかんの音がけたたましく鳴り響いた。

火を止めて、あらかじめ用意しておいたポットにお湯を注ぐ。茶葉はティースプーン三杯。湯の中で茶葉が躍り、琥珀色に色づいていくのを確認して蓋を閉める。

すると、今度は真後ろでベルの音が賑やかになる。

「〈灰かぶり〉! 紅茶はまだなの!?」

「早くしなさい、〈灰かぶり〉!」

継母と継姉たちの声だ。三人の部屋には使用人を呼びつけるためのベルがある。彼女たちの声は、調理場にいるリリアナにしっかりと届いてくる。

「はーい!! ただいま!」

リリアナは声を張り上げた。急いで紅茶をカップに注いで、盆に乗せる。背後でベルの音は止むことなく続いているが、リリアナは構わず盆を持って階段を駆け上がった。

継姉の部屋は二階。手前から下の姉、上の姉、継母の順だ。

「おはようございます、ナターシャ姉様」

「おはよう。今日も(みにく)いわね、〈灰かぶり〉」

嫌味のような挨拶を、リリアナは華麗に受け流し、彼女の手元に紅茶のカップを置いた。そして、足早に次の部屋へと向かう。

「おはようございます。シルヴィア姉様」

「遅い! 灰かぶりのくせに、生意気ね。紅茶が冷めちゃったじゃない」

口も付けてない紅茶を前に小言を言う上の姉に頭を下げ、リリアナは駆け足で最後の部屋へと向かった。

「おはようございます。お義母さま」

「あら、おはよう。〈灰かぶり〉。朝から精が出るわね。結構。私や娘たちは到底まねできそうにないわ。庶民の真似事なんて」

「恐れ入ります」

よく似た親子だなとリリアナは思った。三者三様ではあるが毎朝のように同じような言葉を、同じタイミングで口にする。血筋とは本当に色濃いものだと、いっそ感心するほどだ。

継母の言葉をさらりと受け流して、リリアナは颯爽とその場を去った。

ダイニングルームに三人分の朝食を並べ終えると、上から継姉たちの元気な声が聞こえてきた。ドレスで喧嘩をしているらしい。今日とて、仲の良い姉妹だ。毎朝、よく飽きずに同じようなことで喧嘩が出来るものだ。昨日はアクセサリーだったかなと記憶を手繰り寄せていると、家の時計が八時を告げた。

古めかしい柱時計を見て、リリアナはハッとした。

朝早くから洗濯をしていたせいか、時間がない。いつもなら継母たちが降りてくるのを待って給仕を終えてから家を出るのだが、今日はその時間はありそうにない。

慌てて台所に戻って、自分の分の細やかな朝食をかき込む。食事を味わう暇もない。貧しい生活の中で、食事は癒しの時でもある。僅かに寂しさが過るが、それ以上に時間が気がかりだ。

食べ終えた皿を洗うと、エプロンで手を拭いて、再び階段を駆け上がる。屋根裏部屋に到着すると、リリアナは汚れたエプロンを脱ぎ捨てて、簡素なエプロンドレスを身に着ける。青を基調としたシンプルなドレスは、仲の良い仕立て屋の夫人に貰ったものだ。リリアナが持つドレスの中で、一番立派なものだ。

外へ出る時は、決まってこちらの服に着替える。家の中で着ているものは、使用人が着ていた古めかしい茶色のワンピースで、所々破けている。街に下りるだけとはいえ、流石にみっともない。

それから束ねていた髪を解いて軽く梳かす。すると、小さな灰が落ちてきた。昨日、暖炉の傍で寝転がっていたからだろう。〈灰かぶり〉。そう呼ばれても仕方ない。リリアナは鼻で笑って、鏡に映る自分を見つめた。

母親譲りの金髪は汚れて絡まっている。顔には煤もついていた。ため息を一つ(こぼ)してから、濡らしたタオルで顔を拭く。それでも、染みついたいぶ臭さはなかなか落ちない。目立つ汚れがないことだけを確認して、リリアナは家を飛び出した。

リリアナの家は、王都から離れた森の中にある。森の一部を切り拓いて作られた土地は、緑に囲まれた自然豊かな場所ではあるが、王都までは一時間以上。街まで行くにも、徒歩三十分はかかる。馬車があればいいのだが、そんな余裕はない。父親が無くなり、カールストン商会は倒産、今は父親の遺したお金とリリアナの稼ぐ雀の涙ほどの賃金を頼りに暮らしているのだから。

ほとんど休むことなく走り続けて、リリアナは遅刻ギリギリの時間になって街に辿りついた。

「おはよう、リリアナ!」

「おはよう!」

「リリアナ! 丁度良かった! 午後から荷卸しを手伝ってくれないか? チップは弾むぞ!」

「おはよう! 分かったわ! また後で寄るわね」

顔なじみの店主たちが次々と声をかけてくれる。簡単に、しかし笑顔でリリアナは挨拶を返して走り出した。

彼らはその後ろ姿を温かい目で見送っていた。

リリアナは、紺碧の瞳と、太陽の色を映した見事な金髪を持つ美少女だ。灰を被っていようと、その美しさは全く衰えない。おまけに気立てがよく、明るく、一生懸命働いてくれる。街道に店を出す人々の間で、彼女は評判の人物だった。当の本人は、知る由もない。

街は一般市民が暮らす地区のことだ。商店や出店が立ち並ぶ街道と、住居が立ち並ぶ居住区画の二つから成り立っている。王都の御膝下にある貴族街との違いは、街を囲む城壁がないこと。そのため、他国の商人が自由に出入りできる。国内でも指折りの店だけが商いを認められている貴族街とは違い、数多くの品が手に入るのだ。

店の数が多い。働き口も多い。リリアナが自宅から離れたこの場所に来るのは、勤め先を見つけるのに苦労しないからだ。

勿論、それ以外の理由がないわけではないけれど。

「ヴィル!」

「やあ。おはよう、リリアナ」

街道の中ほどに建てられて小さな屋台に、リリアナは軽い足取りで駆け寄った。

青年―――ヴィルは、柔和に微笑んでリリアナを出迎えた。

「ごめんなさい。遅くなっちゃって」

「いいや。大丈夫だよ。この通り、まだ何も出来てないんだ」

穏やかに笑うヴィルを前にして、リリアナの頬が桃色に染まる。それが走ってきた時の熱とはまた違う色であるのは、傍から見ても明らかだった。

「じゃあ、すぐに準備に入るわね!」

「待って、リリアナ」

袖を捲りながら振り返ると、ヴィルの顔が至近距離にあった。

「動かないでね」

そう言って、ヴィルは徐にリリアナの髪を梳く。

ヴィルの指示通り、リリアナは彫像のように微動だにしない。いや、出来なかった。

彼の指先が優しく髪を撫でる。彼の指先が触れた場所が、じんわりと熱を帯びていく。ふわりと動いた毛先が頬や首筋をくすぐる度、恥ずかしさに身を縮こまらせた。

視線を上げれば、すぐ傍にヴィルの顔がある。少しでも動いたら、唇が触れてしまいそうだ。キスのことを想像して、リリアナは真っ赤になって俯いた。

駄目ダメダメ! 絶対に駄目!―――必死に言い聞かせて平常心を取り戻そうとしたが、長い毛先を弄ぶ指先が目に入ると、鼓動は忙しなく鳴った。

「はい。終わり。うん。可愛いね」

「あ…りがとう」

何気ない台詞に、心臓が大きく跳ねた。

灰かぶり―――家ではそう呼ばれている。裕福な商人の娘でありながら、灰に塗れて働く汚い娘。父と母が生きていた頃の幸せな時間は、もう思い出すことも出来なくなっていた。思い出しても、今の辛さが心に傷を増やすだけだ。

可愛いなんて言われたのは、いつ以来だろう。

商売上手で口の上手いヴィルのことだ。大した意味はない。そう思っても、継母たちの言葉とのように気安く受け流すことは出来なかった。

思考を切り替えるために、露店に品を並べて、値札を付ける。もくもくと手を動かし続けたけれど、鼓動はなかなか収まらない。

「ありがとう。リリアナ。少し休憩にしようか」

わき目も振らずに働くリリアナは、ヴィルの声で正気に返った。作業に没頭しすぎて、彼の声すら聞き逃しそうだった。おまけに、数少ない商品は一分の隙もなく並び、値札も全て揃っている。同じ値札が何枚も手元の転がっているのを見て、リリアナはがっくり項垂れた。

これも、一応ミスの内に入るよね―――ちらりと雇い主を見上げると、彼は「気にしないで」と笑った。

露店の内側、店員の作業スペースには二人分のお茶とお菓子が用意してある。品物に目を配りつつ、リリアナは用意された椅子に腰かけて、ハーブのいい香りが漂うお茶を一口啜った。芳香が口一杯に広がる。至福のひとときだ。家でのんびりお茶なんて出来ないので、余計に幸せに思える。

実に優雅な光景であるが、一応仕事中である。お茶は店主の好意だ。客が来れば、すぐさま営業スマイルを貼り付けて、店先に立つ。暗黙の掟を破らない限り、店の中ではある程度の自由が認められている。

「こんにちは。いつものありますか?」

「は~い。こちらで宜しいでしょうか?」

羽を伸ばしている間にも、こうしてお客がやって来る。リリアナは、すぐさま立ち上がり、店先に並べた瓶を一つ取り出す。

中には枯れた草が詰まっている。だが、これはれっきとした乾燥ハーブ。お湯を注ぐと、薬湯が出来る。いわば薬湯(やくとう)の源だ。

ヴィルの露店では、乾燥ハーブを専門に扱っている。彼は故郷で大きな薬草園を営んでいて、そこで採れたハーブを日持ちさせるために乾燥させて、販売している。今は出稼ぎに来ているのだ。

「ありがとう」

代金を受け取ると、女性は上機嫌で去って行った。

すると、今度は小さな男の子がやって来た。

「熱を下げるお薬はありますか?」

ママが風邪ひいたの―――男の子は悲しそうに目を伏せた。

リリアナは並んだ瓶を吟味して、『ルリジサ』のラベルが張られたものを一つ手に取る。

「はい。お熱が下がるお薬よ。これを飲めば、すぐに良くなるわ」

「本当!?」

先ほどの暗い表情が、一転して明るくなった。

リリアナは「ええ」と胸を張って答えた。

「これ、お薬の作り方。よく読んで作って、ママにあげて」

「うん。ありがとう!」

ヴィルが作ったハーブの取り扱い説明書。文字と一緒に絵も書かれているので、小さな子供でも分かりやすい。

嬉しさのあまりお釣りを忘れそうになった少年の手に、しっかりとお金と品物を渡して、リリアナはにこやかに手を振った。

それからしばらく、ヴィルのお店は客足が絶えなかった。行列が出来るほどではないが、一人帰ればまた一人来る。精一杯の笑顔でお客の対応をしていると、時間はあっという間に過ぎて行った。

「リリアナ。お疲れ様。今日はもう店じまいにするから、手伝ってくれる?」

「はい。今日は随分早いのね」

太陽はまだ頭上に差し掛かる前だ。

「ああ。お城の方で別の仕事があるんだ」

「商人も大変よね」

ヴィルが外国からやって来たやり手の商人で、お城への出入りを認められていることは知っていた。忙しい合間を縫って、下町で薬の販売をしていることも承知だ。それにしても、店を早く切り上げることなんて今までなかった。

余程重要な仕事なのだろう。ちょっとした好奇心に駆られて、リリアナはヴィルの背に声をかけた。

「どんな仕事なの?」

「リリアナは知らない? 三日後からお城で舞踏会が開かれるんだ」

「舞踏会?」

聞きなれない単語に、俄然興味がわいた。

街道をずっと下った先に、お城がある。国王陛下と、その家族が住む。国の象徴とも言える場所だ。リリアナの家は、僅かばかり標高が高い。リリアナのいる屋根裏部屋からは、荘厳なお城の姿が見渡せた。

普段見ても、美しい城だ。舞踏会に相応しいライトアップや、軽快なワルツの音楽が流れてくる様はさらに華やかだろう。想像するだけでも胸が弾む。

「王子様の花嫁選びの舞踏会だよ」

花嫁選び。女性ならば誰しもが心躍る言葉だ。もっとも、ヴィルはあまり興味がなさそうだった。

「色々、準備が必要でね。僕も駆り出されることになった」

「じゃあ、しばらくお店は出来ないわね」

ため息交じりに首を振るヴィル。リリアナも残念そうに眉尻を下げた。

貴重な仕事が一つなくなる。僅かばかりの給金が惜しい。

それも一つの理由だ。けれど、もう一つは…。

「しばらく会えないのね」

「リリアナ」

落胆を隠せない声色に、ヴィルの顔つきが少しだけ明るくなった。(うつむ)いたリリアナは全く気付いていない。

「お仕事、頑張ってね」

ほんの少しの間、会えなくなるだけ。時間なんて、きっと、あっという間だ。継母と継姉に命じられるがまま家の仕事を熟して、働いてお金を稼いで、また家の仕事をして。暖炉の片隅に丸まって眠る。忙しなく過ごしていれば、きっと…。

それでも、胸に過った寂しさは、いつまでも内側でくすぶり続けた。

一年ほど前のこと。父親が亡くなってしばらくして、葬儀や雑務でばたばたしていたリリアナは、ようやく家計が火の車だということに気づいた。大黒柱がいなくなり、継母と継姉の必要以上の贅沢が、裕福だった家計を圧迫していたのだ。

継母の独断で、使用人は全て解雇された。父や母の形見も含めて、売れるものは全て売り払った。それでも、お金が足りない。継母たちの生活は何も変わらなかったからだ。

このままでは、父親の遺産が空っぽになる日も近い。人生で初めて、リリアナは働く決意をした。

けれど、十五になったばかりの若い娘を雇ってくれる店はなかなかなくて、街道から外れた道を途方に暮れて歩き続けていた。

ぼんやりしていたら、せり出したレンガにつまずいて転んだ。そのはずみで、履き古した靴が壊れてしまった。

泣きたい気分だった。けれど、涙は一滴も出なかった。

強く優しい子に育ってほしい。死ぬ間際、母の遺した言葉がよみがえったのだ。

本当に泣きたい気分だった。その頃、継母たちの意地悪は加速して、部屋もドレスも全て取り上げられ、屋根裏部屋に追いやられた。家事仕事は全てリリアナに押し付けられ、心も体もボロボロだった。おまけに、父と交わしたある約束が、さらにリリアナを縛り付けた。

継母たちに怒ればいい。そんなこと、私がやる義務はないと、きっぱり言い切ってしまえばいいのに。優しく強い子にと願う母の言葉を無下にすることなんて出来ない。

それだけ、リリアナは優しく強い娘だった。

けれど、この日ばかりは、全てを忘れて逃げ出してしまいたかった。

そんな時だった。

栗色の髪の優しげな面差しをした青年が、リリアナに手を差し伸べてくれたのだ。

それがヴィルだった。

『どうしたの? ああ。靴が壊れたのか』

リリアナが口を開くよりも先に、ヴィルは彼女の華奢な身体を抱き上げた。そして、自分が開いている露店の中に、彼女を連れて行ってくれた。

『さあ。これで良し。よく似合うよ。お姫様みたいだ』

白いリボンのついた靴をリリアナに履かせて、ヴィルはそっと微笑んだ。

お姫様なんて言われたのは、生まれて初めてだった。そんな風に言われる資格なんてないのに。胸が弾んだ。嬉しいと思ったのは、久しぶりだった。

今思えば、あの瞬間、リリアナは恋をしていたのだろう。彼女に温かいお茶と、白い靴と、優しさをくれた彼に。

それが縁で彼の店で働くようになって、リリアナの生活は一変した。働き詰の辛い日々には変わりない。けれど、一生懸命なリリアナの背を押してくれる人が増えた。街道に店を構える商人たちが、彼女の懸命な姿に感銘を受けて、仕事をくれるようになった。

自信がついたし、やる気が溢れた。一生懸命やっていれば、必ず誰かが見ていてくれる。誰かが応援してくれる。母の言葉も、父との約束も戒めではなくなった。

時には強く、時には優しく、そして努力を絶やさない。そうして、リリアナは今日までやって来た。

辛い日は数えきれないほどあったけれど、ヴィルや応援してくれる人がいる。〈灰かぶり〉と呼ばれる日々は、思ったほど悪くない。

灰かぶりの名前を与えられたから、リリアナはヴィルと出会えた。

「リリアナは、舞踏会に来ないの?」

「私は無理よ。お義母様が許さないわ。それにお義姉さまたちも」

「今度の舞踏会は、貴族も市民の関係なく招待状が届くはずだ。君にも参加する権利がある」

「私は…」

言い終えるよりも先に、ヴィルのグレーがかかった緑の瞳が向けられた。不思議な色彩の瞳に、リリアナは吸い込まれるように見入った。

「もし、君が舞踏会に来てくれるなら、僕が一番に君の元へ行く。君に一番先にワルツを申し込みたい」

一番初めにワルツも申し込む相手。この国では、妻や婚約者、それから意中の相手であることは、子供でも知っている。

つまりは、そういうこと…ここで何も分からない素振りが出来るほど、リリアナは鈍くなかった。

「ずっと、この手は離さないよ」

全身を雷に打たれた様な衝撃が走った。

何か言わないと―――と思うのだが、言葉がつかえて全く出てこない。

ヴィルの言葉を素直に受け取るなら、彼はリリアナが好きということだ。

嬉しい。彼に好きだと言ってもらえた。助けてもらってばかりで、お店の手伝いくらいしか出ない未熟な自分を。

だけど、この手はとれない。

父親との約束を果たさない限り。

ヴィルは、固まったままのリリアナの手をとると、甲にそっと口づけた。

瞬間、頭の中が沸いたように何も考えられなくなった。血が沸騰しているかのように身体が熱い。

「待っているから」

さあ、時間だよ―――背中を押されて、リリアナはようやく我に返った。もう十一時を回っている。帰って継母たちの食事を作らないと、午後の仕事に遅刻してしまう。

「ごめんなさいっ!」

お辞儀をして、リリアナはその場を駆け出した。

ヴィルは何か言いたそうにしていたが、何も言わずその背を見送った。そんな二人を、街道沿いの人々が生温かい目で見守っていた。



ヴィルは何も知らない。

リリアナと、亡き父親との間で交わされた約束を。

カールストン家の秘密にかかわること。

カールストン家の倉庫には、あるものが眠っている。

遠い昔、国を滅亡させかけたという災厄の宝石〈黒の死宝〉。

何故、貴族でもないカールストン家にそんな大それたものがあるのか、定かではない。だが、父は彼の父親からその存在を教わり、呪われた宝石が世に出回らないよう管理していた。

リリアナは父からその役目を継いだ。

父親との約束。それは『黒の死宝を永遠に世に出回らないようにすること。王国を宝石のもたらす厄災から守り抜くこと』だ。

十五の少女には重すぎる役目だ。けど、リリアナ以外にその役目を熟せる者はいない。

『はい。必ず。国は私が守ってみせます』

そう約束した二か月後、父は事故で帰らぬ人となった。父は何かを察して、リリアナに黒の死宝を託したのかもしれない。だから、絶対に守り抜くと誓った。

それが、何も知らない継母の手によって二束三文で売り渡されたのは、父の葬儀が終わって間もなくのこと。地下の倉庫にあった銀の宝石箱が、ひとつ残らず無くなっていたのだから。空いた口が塞がらないとはまさに、あの時のリリアナの姿だ

〈黒の死宝〉の話など欠片も知らない継母は、倉庫に眠っていた品を、中身を確認せずに売り払ってしまったのだ。

守ってみせる。そう誓った矢先の出来事。

リリアナは絶望した。徐々に崩れていく家計も彼女の細い肩に圧し掛かり、希望なんて一つも見えなかった。

そんな時に、ヴィルと出会ったのだ。彼と出会ってやる気を取り戻したリリアナは、黒の死宝を取り戻す方法を考えた。

そうして彼女は一つの結論に辿りついた。

奪われたものは、取り戻す。どんな手を使っても、〈黒の死宝〉は、私が回収する。

そうして生まれたのが、今の世を騒がす女怪盗。

その名も怪盗〈灰かぶり(サンドリヨン)〉。

怪盗サンドリヨンとしての役目を果たし終えない限り、リリアナは普通に恋をすることも、幸せになることも出来ない。

それでも、いつか解放される日が来る。

その日には、彼に素直な気持ちを告げられたらいい―――それだけを思って、リリアナは今日も夜の町を駆け抜ける。


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