縮小
縮小
体が小さくなってきている。
明確にそのことに気づいたのは、深夜〇時を少し過ぎた頃だった。
最初に異変を感じたのは、座椅子の位置がしっくり来なかったことだ。
レンタルショップから借りてきた映画を、部屋を真っ暗にして観賞していた。ところがどうも座り心地が悪い。最初は我慢していたのだが、どうにも映画に集中できなくなってしまったので、仕方がなく立ち上がった。
どうしてこんな座り心地が悪いのだろう?
理由は分からない。なんとなくいつもと違う感触があった。
もう映画を見るのはやめて冷蔵庫に向った。眠る前にミネラルウォータを一杯飲むのが習慣だったからだ。明日も仕事だし、映画の続きはまたにしようと思っていた。
冷蔵庫に手を掛けた時に、いつもと何かが違う気がした。扉を開ける取手の位置が妙に高い。一体これはどうしたことだろう。それに、冷蔵庫がとても大きく見える。
ミネラルウォータを一口飲むと、居間に戻った。照明を点ける。壁のスイッチが肩と同じくらいの高さにあったし、いつもより大きいように感じた。
背が低くなっている?
そんなまさか。
壁に立て掛けてあった姿見を見た。
見た目は変わったように見えない。なのに強烈な違和感を感じた。姿見がやっぱり大きく見える。少し離れないと全身が映せないのに、今日は傍まで寄っても体が全て映り込んていた。背が低くなっているというより、俺以外のものが大きくなっているようだ。
テーブルの上に置いてあったボールペンを持って、壁に背をくっつけた。子供の時やっていたように、頭の天辺の所で印をつける。賃貸アパートの一室だけど、これくらいはいいだろう。
少し離れてその印を見てみた。やっぱり印の位置が低い。
それに印の高さは壁の照明スイッチとほぼ同じ高さにある。さっきまで肩と同じ高さだったはずなのだ。実際に壁のスイッチはもう目線と同じだった。
俺は自分の体を見てみた。何も変わったように見えない。
ふと思いついたことがあったので試してみることにした。
俺は上に着ていたTシャツを脱いだ。それからタンスにしまってあった別のシャツを取り出して見比べてみた。
俺の着ていたシャツの方が見て分かるほど小さい。
もう間違いない。
俺は縮小している……。
俺は自分の着ていた方のTシャツを着直した。
それからリモコンを持ってテレビを点ける。リモコンは重く大きくなっていた。
テレビにバラエティ番組が映った。大画面だ。とても32インチとは思えない。しかし喜ぶ気持ちなど微塵も感じなかった。焦燥感が募っていく。
チャンネルをザッピングしてニュース番組にしてみた。今日のニュースが流れている。例えば何かがいきなり巨大化したり、縮小したりするような報道を待ってみたが、そんな気配はなさそうだった。俺だけに起きている出来事なのだ。
一体、俺の体に何が起きているのだろう。
こうしている間にもどんどん天井が高くなってきている。柱につけた印も完全に見上げる形だ。
スマートフォンを手にとった。まるでタブレット型のようなサイズだ。
体が小さくなっている。助けてくれ。
メールを作って複数の友人に送信した。
この時間だからもう寝ているかもしれない。それにこの文章を読んでも意味がしっかり伝わらないかもしれない。
思い直してみて、電話にしようかと思った。
しかしなんて伝えればいいんだ。
考えながら起きていそうなヤツを探す。
こいつなら起きていそうだ。俺は電話を掛けてみた。しかし繋がらない。話し中音が聴こえてきた。
なんでだろうと思って画面を見てみると、右上の所にある電波を示す表示が消えてきた。代わりに「圏外」とある。突如電波が消えてしまったのだ。
俺はスマホを置き、今度は玄関に向った。
とにかく一人でいるのはマズイ気がする。誰かに側にいてもらわなければ。
隣の部屋に住んでいる人に助けを求めよう。
しかしそれもすぐに出来そうにはなかった。
巨大化したドアノブは目線と同じくらいの所にあるが、ドアチェーンまで手が届かない。
逡巡してから台所に置いてある椅子を取りに向かった。
台所の流し台が背と同じくらいの高さにある。もう背伸びしないと何が置いてあるのかも見ることができない。今、何センチくらいなんだろう。多分、1メートルもない。
巨大な丸椅子を手に持った。重い。片手で持ち上げられるはずの椅子が、今は長ダンスくらいの重さに感じる。仕方なく引きずりながら玄関に向った。
玄関までが遠い。徐々に体が小さくなっていくのが実感として分かる。早くしなければ。
なんとか玄関の前に椅子をセットして、その上に乗った。ドアチェーンを背伸びして外そうと試みる。
しかし微妙に背が足りない。高さは十分なのだが、横からの力を加えないと外れないようになっているのだ。さっきはそれでも届くはずだった。更に体が縮小している。
もう駄目か?
あ、いや。待てよ。
俺はドアの鍵を外してドアノブを捻った。蹴り飛ばすようにして扉を開く。ドアチェーンがあるせいで扉は途中までしか開かない。
しかしこれだけ隙間があれば、十分体が通る。
俺は椅子から降りると裸足で家を出た。靴を履かなかったのは、靴が巨大化してしまっていてとても役目を果たしそうにないからだ。
隣の部屋のインターフォンは押せそうになかった。扉を思い切り叩く。
全力で叩いているのに、小さな音しか鳴らない。体が小さくなったせいで、力がなくなってきている。体のパーツごと小さくなっているのだ。同じ身長の子供よりも相当細い体をしているだろうし、頭も小さいはずだ。
「すいません! 隣に住んでいる者です!」
声を出してギョッとした。まるで自分の声じゃないようだった。テープを早送りした時のような甲高い音。機械のような声。
しばらく粘ってみたが、誰も出てこなかった。
仕方なくアパートの階段を下ることにした。一段一段が高い。駆け下りることもできない。
外を出てみると、辺りは静まり返っていた。ここらへんは閑静な住宅街だ。静かな場所を気に入ってここにしたが、それが災いした。
三分も歩けば大通りまで出れる。そこならこの時間でも人や車が通っているだろう。
大通りに向けて歩き出した。アスファルトがゴツゴツしているように感じて足が痛い。
何度も見たはずの景色が、今はまるで違う場所に思える。道幅は広いし塀は高い。街灯はとても遠くにあるように感じるし、もっとも違和感を感じたのは横断歩道の幅の広さと、電信柱の太さだ。
歩いても歩いても一つ目の角まで辿り着かない。体が小さく変化し続けているせいなのは、景色の変化ですぐに分かった。もう成人の膝から下くらいの身長しかないだろう。小さくなる速度が増している。空を仰いでみると、星空は遠く、月はとても小さく見えた。
道路の脇は通らないようにしていた。ドブを塞ぐ鉄格子に足がはまってしまいそうで怖かった。逆に道路の中央を歩きたくもなかった。急に車が来た時に、気付かれずに轢き殺されるかもしれない。
歩いている最中に一円玉を見つけた。俺の顔と同じくらいの大きさだ。まるで皿のようだ。偽物にしては精巧な作りだ。触ってみると文字の凹凸を感じることができた。
一体、どこまで小さくなってしまうんだろう。
忘れていた恐怖が今頃になって沸き上がっていた。
俺は無我夢中で走った。素足が痛いが、もう構っていられない。
早くしなければ。
ついに角を曲がった。大通りの明かりが見える。車が通る排気音も聴こえてきた。この道は平坦な道だと思っていたが、本当は緩やかな上り坂だったようだ。向こう側が高い場所に見える。
あと数十メートルも行けば大通りに出れるはずなのだ。
走れ。
大木のように太くなった電信柱の影に黒い影が見えた。俺は立ち止まる。
なんだ?
影がゆっくりとこちらに出てくる。黒い影の中央で二つの光が妖しく揺れた。
見たこともない巨大な黒い獣だった。
まさかこの怪物は、黒猫だろうか。俺の背より高い。
身を低くして、俺の体を丸呑みできるくらい大きな口を不気味に動かしている。
俺は自分が硬直していることに初めて気がついた。
食い殺される。
生まれて初めて感じる危機感が足元から這い上がってきた。
化け猫がこちらに一歩近づいた。激しい息遣いが聴こえる。それに凄まじい獣臭がした。
直感的に走ってはいけないと思った。
背中を見せれば確実に殺される。
俺は化け猫を睨みつけながら、一歩づつゆっくりと下がった。
所詮、ただの猫だ。猫だ。猫だ。
頭の中で呪文のように何度も唱えた。
巨大な壁と化した塀の元までなんとか辿り着いた。化け猫はまだ威嚇を続けており、俺の歩く速度に合わせて近づいてきていた。雷鳴のような低い唸り声を轟かせている。
化物の体が更にでかくなった。俺の二倍はあるだろうか。
俺は視線を背後に回した。逃げ道を探したのだ。
と、その瞬間に化け猫の動く気配を感じた。空気の塊がぶわりと動いたのが分かった。
考える前に俺は背後に飛び退いていた。巨大な爪が俺の目の前で空を切った。物凄い風圧で、前髪が巻き上がったのが分かった。
そのまま俺は落下していく。ドブの中に体を投げたのだ。普段塞いでいる鉄格子は、もう俺の体に対しては大きすぎた。
数秒後、水の中に俺は落下した。
もがきながら、なんとか水面に顔を出す。
洞窟の中の川だと一瞬思った。
暗闇の中に水の流れる音が聴こえていて、数メートル置きに、川が光で照らされて明るくなっている。
俺は川に流されていった。速い流れだったが、溺れずにすみそうだ。体に異様な浮力があった。小さくなったことに関係あるんだろうか。
方向からすると、家の方へ戻っていくようだった。暗い洞窟の中を流されていく。
それにしてもすごい臭いだ。手足に粘り気のある何かが絡んでいて気持ちが悪い。
流されていく最中に体に何かがぶつかった。
茶色い筒状の何かだった。大きさな俺の体よりもだいぶ太い。浮き輪代わりにできないかと思ってその筒をつかむ。
よく見てみると、それはタバコの吸い殻だった。
しばらく流されていくうちに、俺と吸い殻は丘のような所に引っ掛かった。
とりあえず川からは解放されそうだ。
丘に降り立つ。足場が安定していない。暗くてよく分からないが、泥で出来ている丘のようだ。
少し離れた場所が少しだけ明るくなっていたので、とりあえずそこまで歩くことにした。
転ばないように進む。泥は柔らかいことに加えて、つるつると滑りやすかった。
だんだん足場が安定してきた。
とりあえずここで一休みすることにする。丁度座れそうな岩があったので、そこに腰を落とした。
俺は服を脱いで絞った。水の滴る音が聴こえてきた。
一体、ここはどこなんだろう。
俺の体は一体、どうなってしまったんだろうか。
さっきのタバコの吸殻のことを考えると、もう小指の爪くらいの大きさしかない。
それに今も体が縮小しているはずだ。地面の凹凸がどんどん深くなっていく。
とりあえず、あっちの明るくなっている場所に行こう。どうして明るくなっているのかはもう分からない。俺は立ち上がった。
濡れた体を引きずって俺は歩いた。
さっきまで歩きづらいだけだった地面の凹凸が深くなってきて、今や目の前を塞ぐ壁のようになりつつある。地面がまるで成長しているようだ。
壁を周りながら進んでいたが、そのうち壁は俺の背の倍になり、三倍になり、ついには天辺が見えないまでに成長した。
俺はその場に座り込んだ。
もう自分の体がどれくらいの小ささか全く分からない。
と、その瞬間何か耳鳴りのような音が聞こえてきた。
反射的に振り返る。
なんだ。こいつは。
丸い何かが緑色に光っている。表面は濡れているように見えた。細かい触手のようなものが所々から生えており、一本一本がうねっていた。その一本一本にもうぶ毛みたいものが生えていて、そのうぶ毛も動いていた。
俺は動けなかった。死を覚悟したのかもしれない。しかし不思議と恐怖はなかった。何もかもが現実に思えなかった。むしろ、気を抜くとそのまま眠ってしまいそうなくらい穏やかな気持になっていた。
そいつは動かなかった。固まっている俺の側にいるだけだ。徐々に体を膨らませている。
いや、俺が小さくなっているのか。
いつの間にか緑のそいつは俺の視界を塞ぐほど巨大になった。
こうなってしまえば、もう壁だ。
壁の表面は緑色の模様が走っており、壊れた電光掲示板のように僅かに点滅している。
もう一度振り返った。景色が大分変化している。
さっきまでの暗かった印象はもうない。緑色の壁が照らしているのだ。
緑色の砂漠がどこまでも広がっている。川が流れていたはずなのに、水の音はちっとも聴こえない。
砂漠の所々に見たこともない形の岩が突き刺さっている。人工物のような多角形の岩だ。それぞれ色が違う。奇妙なことに赤や黄色などの原色が多かった。中には透明な氷のような岩も突き刺さっている。形も微妙に違うようだ。共通しているのは、岩の断面は鏡のように綺麗に見えた。
足元の感触も、いつの間にか大分変わっていた。
砂のような細かい粒子が、俺の足首を飲み込んでいる。なんだろうと思って、その砂を掬ってみた。それは砂に見えたが、一つ違うのは、砂が動いていたことだ。ビクビクと手の上で踊っている。握り締めるとポップコーンのように弾けた。
また景色が変わった。
今度は螺旋状の白い何かが空を飛んでいるようになった。巨大だ。見たこともない形だった。白い何かの表面には複雑な紋章のようなものが書かれているように見える。古代文明の文字を瞬間的に思い出した。そしてそれは、輝いて見えた。
俺は砂の上に寝転んだ。
白い螺旋状の物体が、何体も空を飛んでいる。まるで流星群のように、一方向に向って飛んでゆく。
綺麗だ。
多分、今まで見たどんな景色よりも美しい。
だんだん視界が明るくなってきた。螺旋状の物体が光を放っているのだ。直感的にそう思った。
俺は目を閉じた。
もう今日は眠ろう。
明日はきっと、もっと縮小している。
ありがとうございました。感想もらえたら嬉しいです。